ゆっくり人の時空漫歩 3
IDEA-ISAAC

ゆっくり人の時空漫歩
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多幡達夫
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Copyright © 1999–2000 by Tatsuo Tabata
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目 次

はじめに
幼年時代から青年時代まで
大放研時代(その1)
大放研時代(その2a)
大放研時代(その2b)
阪府大先端研時代

IDEA時代

阪府大先端研時代


ダス博士一家の来訪

——思い出深い英語の授業をして下さった故正村泉先生と故坂井甚五郎先生に、この文を感謝を込めて捧げる——

 メイゴーニとダスの共著論文の抜き刷りを請求するはがきを両氏宛てに出したのは、2年半ほど前のことだった。インドラ・ダス博士の方からすぐに、自分たちの研究に興味を持ってくれたことへの謝辞を添え書きして、その抜き刷りが届いた。私は、彼らの放射線物理学における半ば数学的な仕事が比較的容易に改善できることを見てとり、半年ほどで新しい結果をまとめ、専門誌に投稿するとともに、そのコピーをダス博士に送った。

 それからしばらくして、ダス博士から分厚い手紙が届いた。博士はその手紙の中で、私の原稿のコピーに礼を述べたあと、自分はインドからアメりカに来てマサチューセッツ大学の医療センターに勤務しているが、アメリカの市民権をとりたいと思っていること、ついては、自分の研究成果が国際的にも認められているとの手紙を書いて貰えれば、市民権を早く取得できるルートがあるので、よろしくお願いしたいということを記していた。そして、履歴書や研究論文のリストと、アメリカの医学放射線関係の賞を受賞することになった通知のコピーが同封されていた。私は、インドラという名前から博士は女性だとばかり思い込んでいたが、その履歴書を見てようやく、博士が男性で、スヌンタという名のタイ生まれの夫人があることを知った。

 ダス博士から送られた資料を参考にして、また、彼らの研究が私たちの研究のきっかけになったこともつけ加えて、私は依頼された手紙をすぐに書き上げ、送っておいた。それに恩を感じた博士から、何度か親愛の情のこもった便りがあった。私も、外国の研究者たちとの交流にはとくに興味を持っているので、日本へ来ることがあれば、ぜひ大阪に寄って、私たちの研究所で講演もして欲しいと書き送った。

 それが意外に早く実現することになり、さる4月13日の夕方、私と妻は大阪国際空港でダス博士一家の到着を待っていた。電光掲示板が彼らの乗った便の到着を知らせてからかなりの時間が経っても、それらしい家族が出口に現れない。ひょっとして、お互いに見つけ損なったのかと思い、私は案内所でマジックインクを借り、鞄の中に持ち合わせた紙に Dr. Das と大書し、それを頭上にかざして歩き回りながら、なお待った。

 そうするうちにようやく、手紙で知らされていた家族構成からみてまぎれもないダス一家が出口に現れた。褐色で体格のよい男性、ほっそりとして日本人と区別できない風貌の夫人、2歳ぐらいの女の子(アニタ、愛称ニーナ)と、4歳ぐらいの男の子(アヴァニンドラ、愛称アヴァン)。一家は大阪を発ったあと、夫人の故郷のタイに寄り、博士の故郷のインドに一か月半滞在し、博士が帰米したあと、夫人と子どもたちはタイに三か月ほど滞在するとのことで、たくさんの荷物を抱えていた。

 インドの人たちは、たいてい菜食主義者である。そのことをまず確かめなければと思っていた矢先、ダス夫人の方が私たちに何でも食べるかどうかを尋ねた。ダス家では、博士だけが菜食主義者とのことだった。旅行中はぜいたくはしないと聞き、私の家からあまり遠くない堺市内のビジネスホテルを予約しておいたので、あいにくの雨の中を空港バスとタクシーを乗り継いでそこまで案内した。

 翌日は、一家を大阪のツイン・ビルヘ案内し、展望台から大阪城と大阪の市街を眺めて貰った。前日空港で入手した花の万博の英文パンフレットに大阪の地図が載っていたので、ダス博士に渡しておいたところ、彼はその朝、見物希望地として花の万博会場を挙げた。しかし、週末はたいへんな人込みで、小さな子どもを連れてでは疲れるばかりだろうと思い、気の毒ながら希望を変えて貰ったのだった。

 翌日曜日、アヴァンが空手を使って活躍する日本人の登場するアメリカのテレビ番組で見覚えたジンジャの実物をぜひ見たいといっているとのことだったので、途中、堺でもっとも大きな神社のひとつである大鳥神社へ寄り、わが家へ昼食に来て貰った。ところが、アヴァンがジンジャで見ることを期待していた「六つのとんがり屋根」(五重の塔のことらしい)が大鳥神社にはなく、彼はがっかりしたようだった。それは、神社でなく寺院へ行かなければ見られない。大阪の四天王寺には立派なそれがあることを説明したが、実際に案内する時間はなく、次の訪問地バンコクで見られるはずとの父親の慰めに、アヴァンはおとなしくうなずいていた。

 ネパールの近くの電灯やガスもまだない村で生まれたというダス博士、アメリカでコンピュータの勉強をしていて、博士にその手ほどきをしたというスヌンタ夫人、元気にはしゃぐ子どもたち、それに私たち夫婦が英語を媒介として、昼のひととき、異文化交流を楽しんだ。

 月曜日の午後、ダス博士に私たちの研究所へ講演に来て貰う間、妻が夫人と子どもたちを浜寺公園へ案内した。子どもたちは公園の遊び道具がたいへん気に入り、毎日ここへ来ればよかったといって跳ね回っていたそうだ。博士の方は、講演謝礼が小額であることをわびる私のことばに対して、国際的な交流に役立つことができるだけでとても嬉しいとの、さわやかな返事をしてくれた。一家が大阪を去ったあと、私と妻は、アヴァンとニーナが大きくなった頃に、ぜひ一家と再会したいものだと語り合った。

金商菫台プレス、30号、pp. 80-81(金商菫台同窓会、1990)

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間違いのスペクトル

 Martin Fleischmann とStanley Pons が「試験管核融合」の裏付けとして発表したγ線スペクトルと中性子の計測結果は、まことに粗末な間違いであることが指摘され、彼らもそれは認めたものの、なお彼らの実験における発熱は核融合によるものと主張していると聞く。Oak Ridge 国立研究所の Frank Close がこの間の事情について、歴史的背景も含めて詳しく述べており、一読に値する("Too Hot to Handle," Princeton Univ. Press, 1990)。

 古来「過ち」に関する諺はいろいろある。"To err is human."(人誰か過ち無からん)、"Never too late to mend a mistake."(過ちては改むるにはばかることなかれ)、"He that falls into dirt, the longer he stays there the fouler he is."(過ちて改めざる、これを過ちという)など。人間の過ち一般に言及したこれらの諺は、科学者の研究における間違いにも、おおむね通じるであろう。上記の三つは、それぞれ、過ちの発生、認識、そしてその後の状況にふれており、ひとつの時系列をなしている。Close の著書を読むにつれて、筆者はこれらの諺を次つぎに想起しないわけには行かなかった。

 ところで、研究における間違いには、すぐにそれと指摘されるような比較的単純なものから、何十年か後の理解の深まりによって初めて間違いといえるようになるものまで、ずいぶん幅広い分布がある。卑近な例で恐縮だが、すぐに指摘された間違いのひとつに、Ralph Dressel が1966年の Physical Review に発表した、他の測定にくらべて2倍近い電子の後方散乱係数が挙げられよう。たまたま同じ実験を当時行っていた筆者は、すぐにその間違いを同誌上で指摘することになったが、真の原因は Dressel 自身がその後明らかにした(Dietlich Harder と筆者への私信、1968)。

 筆者らは1971年に、電子の電荷蓄積分布の測定結果から、Martin Berger とStephen Seltzer の作った電子・光子の物質通過のモンテカルロ・コード ETRAN に間違いのある可能性も指摘したが、他のモンテカルロ計算による指摘もふまえて、彼ら自身がその真因を見出したのは、ようやく1987年になってからであった。

 「間違い」となるのにもっと年数のかかった例は、素粒子物理学から引かせて貰う。筆者ごときがそれを間違いと呼ぶのは気がひけるので、ノーベル賞物理学者 Sheldon Glashow に語らせよう。"The meson theory of nuclear forces . . . was a useful but wrong model."(S. Glashow with B. Bova, "Interactions," Warner Books, 1988.)π中間子も核子も、クォークからなる複合系ということになったからである。

 また、間違いの発生やそれへの固執の原因を大別してみても、不注意、その時点での科学知識の限界、科学以外の力の作用(たとえば、特許の取得・予算の獲得への執念や外圧)、非科学的思考への逸脱など、いろいろありそうである。著名な天文学者 Fred Hoyle とその共同研究者 N. C. Wickramasinghe が唱えている、シリコンチップに基づく高度の知性が地球上の生命を設計したとする「説」は、最後のものの一例であろう(Robert Shapiro, "Origins," Cox & Wyman, 1986)。

 間違っていたγ線スペクトルをきっかけにして、間違いそのものの諸相、その時間的・原因的スペクトルについて述べた。ともあれ、間違いの発見はひとつの進歩であり、放射線物理学が今後も多様な間違いを乗り越えながら、大いに発展するよう期待したい。

放射線 Vol. 18, No. 1, pp. 1-2(巻頭言)(1992)

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ナポレオン型研究とトルストイ型研究

 1995年9月にシアトルで開かれた「電子・光子輸送理論の線量計算への応用に関する国際シンポジウム」において、会議の組織者の一人でモンテカルロ・コード EGS4 の改善に精力的に取り組んでいるカナダの NRC の研究者アレックス・ビエライエフ1は、「新しい小角多重散乱理論」と題する講演を行った。その冒頭で彼は、「この研究は、われわれの子供の時代には、quaint になるであろう」との文をスライドで示した。相対論的エネルギーをもった電子の物質通過に関するモンテカルロ計算では、時間を節約するため、個々の素過程をサンプリングする代りに、たとえば、原子との衝突による弾性散乱については多重散乱理論を使用している(condensed history 法)。しかし、最近のコンピュータのめざましい進歩ぶりをみれば、多重散乱理論の援用は間もなく不要になるであろうことを、ビエライエフは自らの研究に対する謙遜と合わせてユーモラスに表現したのである。

 コンピュータの発展に限らず、新しい技術の登場・発展は、科学の研究に大きな影響を与える。プリンストン高等科学研究所の名誉教授フリーマン・ダイソンは、"Imagined Worlds" と題する近著 (Harvard Univ. Press, 1997) の中で、科学革命には新しい道具が原動力になっているものと新しい概念によってひき起こされるものとがあるとし、トーマス・クーンの有名な本、「科学革命の構造」は後者についてしか述べていないが、歴史を振り返れば、前者の方が多いと論じている。彼は、過去500年間に生まれた後者の範疇に入る革命として、クーンが取り上げた量子力学の他に、コペルニクス、ニュートン、ダーウイン、マックスウエル、フロイト、アインシュタインの仕事を挙げる一方、前者に属するものとしては、天文学における望遠鏡の使用によるガリレイの革命、生物学におけるX線回折の使用から生じたクリックとワトソンの革命、その他、一般大衆にとってはそれほど印象的でないにしても、科学の進歩において先の例と同様に重要な革命が約20件あるといっている。そして、コンピュータはすでに、実験の解釈と現象の予測において理論の力を増大させることにより、物理学に革命をもたらしていると述べている。

 これに続いてダイソンの述べていることが面白い。彼は、科学革命はしばしば研究スタイルの変更によって生まれると指摘し、二つの対照的なスタイルを象徴するのに、ナポレオンとトルストイの名前を使用している。ナポレオン型の研究は、強固な組織と規律に基づいて進められ、トルストイ型の研究は、創造的混沌と自由を特徴とするものであるとして、それぞれの代表例を、彼が最近訪れたスイスの二つの研究所に見ている。W および Z 粒子を発見した CERN が前者の例であり、走査型トンネル顕微鏡と高温超伝導体を発明・発見したリュシリコンの IBM 研究センターが、後者の例である。そして、一方の型の研究が行きづまったときに、他方の型の研究が新しい進展をもたらした、あるいは現在もたらそうとしている例を多数挙げている。

 放射線物理学は、どちらかといえば、トルストイ型の研究が普通に行われている分野であろう。加速器を利用するにしても、CERN等におけるほど高度にナポレオン型の研究は、この分野では滅多にないが、比較的ナポレオン型といえる放射線物理学の研究はあり得るであろう。ダイソンの説を参考にして、革命的な研究を多少なりとも意識的に指向するとすれば、高エネルギー物理学が SSC 計画の挫折で、よりトルストイ的な研究に向かっているのとは逆に、よりナポレオン的な研究を目指すのも一計であろうか。

 余談ながら、筆者はビエライエフの講演に出てきた quaint という単語を知らなかったが、文脈から obsolete と同義語だろうと考えて、「電子の深度線量分布に対する半経験模型」と題する筆者自身の講演の始めに、「これも、われわれの子供の時代には quaint になる研究の一つだ」と即席で述べた。シンポジウムのあと訪れたフィラデルフィアのインド系研究者の家の応接間に英英辞典があったので、この単語を調べてみると、"charmingly old" とあった。古くなっても charm が残れば幸いである。同じ国際シンポジウムの第2回目が、さる6月に開かれ、筆者は再度出席した。シンポジウムの始まる前夜、持参したエドガー・アラン・ポーの短編集を時間つぶしに読んでいると、"quaint" に再会した。場所も同じシアトルである。"Manuscript Found in a Bottle" という作品中の難破船の内部を描写した一節に、"Around them, on every part of the deck, lay scattered mathematical instruments of the most quaint and obsolete construction." と書かれていたのである。ビエライエフの多重散乱理論の数学的取り扱いに関係した scatter や mathematical という単語のおまけまでついている。この偶然は、ポー自身が興味を持ちそうな話であり、シンポジウムのバンケットでビエライエフに伝えるのに恰好の話題であった。

 巻頭言の裏面をほとんど空白にしておくのも惜しいと思い、粗末な話をつけ加えたことをお許し願いたい。

  1. 1997年9月、アメリカのミシガン大学へ移る。

放射線 Vol. 23, No. 4, pp.1-2(巻頭言) (1997)

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