IDEA-ISAAC

ゆっくり人の時空漫歩
________________________________________

多幡達夫
________________________________________

Copyright © 1999–2000 by Tatsuo Tabata
Photo of Tabata boy

小学校5年生の時の筆者
写真加工は岩城功君の助力による

目 次

はじめに
幼年時代から青年時代まで

大放研時代(その1)
大放研時代(その2a)
大放研時代(その2b)
阪府大先端研時代
IDEA時代

幼年時代から青年時代まで


桃源台での2年半

住居
 
大連の住居。もと隣家のお嬢さん、
玉木まやさんが2000年に撮影
Copyright 2000 by Maya Tamaki
 

 1944年春、父が病死し、北陸のある小さな市に母と国民学校3年の私が取り残された。大連にいた祖父が、ちょうど身の回りの世話が必要になった事情もあり、同年9月、私たちは祖父の家に移り住むことになった。下関、釜山から奉天を経て大連へたどり着いたのは何日目か覚えていないが、祖父の家には暗くなってから到着した。翌朝、目が覚めてすぐに、玄関のドアを開いて外の光景を眺めたときの感激は、いまも忘れられない。

 祖父の家は、桃源台の消防塔付近の坂道を登る途中で左へ折れた右手(坂道の傾斜の上手)2軒目にあった。道路から石段を少し登って、前庭があり、さらに石段を登ってから玄関になっていたので、西に面した玄関の前からは、朝日を受けて輝く市街がよく見渡された。そこに初めて立った私の目に飛び込んだのが、絵本でしか見たことのなかった色とりどりの屋根の洋風の家々だったので、おとぎの国に実際に来たかのように思って、心がはずんだのである。

 それから1年足らずで敗戦となり、その翌年には、「住宅調整」命令で、祖父の家にも沢山の家族が同居することになった。その最盛時には、1、2階合わせて6部屋のところに、5家族23人がひしめいていた。同郷のよしみもあった後ろの家から2階の8畳に移って来て貰ったAさん一家以外は、それまで全く知らなかった人たちである。この頃の状況は、A夫人が7年前に著した「大連物語」の中に詳しく描写されている。

 「住宅調整」命令の元となったのは、日本人の中国人に対する戦前の圧迫であろう。最近私は仕事の関係で中国の大学の人々と交流する機会を得ているが、その機会を通じて、親の世代の償いと、私自身が引揚げまでの2年半の大連滞在で得た多くの見聞や経験の恩返しが少しでも出来れぱと思っている。

大連嶺前小学校創立70周年記念誌「喜び永久に」(1992年)
 
ページトップへ


松本先生の思い出

Mr. Matsumoto
 
松本先生。
写真加工は
岩城功君の
助力による
 

 わが国の敗戦の前年である1944年の9月に、私は内地からはるばる大連に引越し、嶺前国民学校3年2組に入った。担任は松本貞夫先生だった。転入した日の、最初の授業時間のことを今でも覚えている。先生は国民服に坊主頭だった。といっても、当時の先生は皆、そのような姿だったはずだ。松本先生の特徴を書かせていただくならば、面長でいらっしゃったことであろう。先生は修身の教科書に従って、分かりやすい口調で説明を進めておられ、ときどき生徒に質問をされた。

 そのときの教科書の題材は、わが国に来襲した元の船を、いわゆる神風が沈没させたという、文永・弘安の役だった。先生は早速、何かの質問を私に向かってされたが、私は講談社の絵本を愛読していて日本の歴史について詳しかったためか、先生の質問の答が教科書の文中にあるのをすぐに見つけたためかは忘れたが、得意になって答えたように記憶している。

 近年、嶺前の同期生が長い年月を経たのち、たびたび集まるようになった。その席で松本先生のことに話が及ぶと、「怖い先生だった」という感想をもらす友人がいる。私には、むしろ優しい先生だったとの印象が強い。しかし、先生から二度だけ、穏やかにではあるが、注意をされたことがある。内地の学校では先生方からほとんど叱られたことのなかった私だけに、よほど心にこたえたのか、その二度のことをよく覚えている。

 一度目は、転校後まもない日の放課後、近所の友人たちと学校の運動場へ行き、夕方近くまで遊んでいたときのことである。校庭の隅に掘られていた防空壕(幅1メートル、長さ2メートル、深さ数十センチぐらいだっただろうか)のひとつに、私が降り立っていたところへ、帰宅途中の松本先生が通りかかられた。先生は、
 「多幡君、防空壕は大切なところだから、そこへ入って遊ばないように。」
といわれた。みだりに出入りして、きれいに掘られている壕を崩すことを懸念されたものであろう。私は、懸念されるほどの遊びをそこでしていたのではなかったが、たまたま、そのような注意を受けても仕方のない状況にあったので、「はい」といって、壕から飛び出した。

 二度目に松本先生に注意されたのは、音楽の時間であった。音楽教室は薄暗く、その教室での私の席は後の方で、近視になり始めていた私には、先生が黒板に書かれる文字や記号が読みにくかった。私は目の疲れを癒すように、明るい窓外へしばし視線を投げた。そこへ、すかさず先生の声が飛んできた。
 「多幡君、どこを見ていますか。校庭へ行きたいのですか。」
 どちらの場合も、他の先生ならば、特に注意されなかった程度のことだったのを思えば、私のこの記憶は、松本先生の生徒に対する観察と指導が、いかに細やかであったかの証しとなるであろう。

 ある日のこと、先生の授業中にW君が居眠りをし始めた。先生はクラスの一同に、W君に気づかれないよう静かに廊下へでるように指示された。先生には、誰もいなくなった教室で眠り続けているW君を生徒たちと一緒に面白がって眺めるという茶目っ気もあったのである。そのうち、ふと目を覚ましたW君は、あたりを見回し、いかにもきまり悪そうに、自分も廊下へ出てきたのであった。

 松本先生は、国語の授業では、正しいアクセントを生徒の身につけさせることにも、特に心を配っておられたようだ。私の転入後すぐに、「たじまもり」の伝説を習ったときだっただろうか、「みかん」は、「み」に強勢をおいていわなければならないと教わったように覚えている。

 4年生になって男女別々のクラスに組み替えられた後も、私は松本先生の1組に属した。4年生の夏に敗戦となり、5年生は同じクラス構成でスタートしたが、2学期の始め頃に先生は静浦小学校へ転勤された。私はちょうど2年間お世話になったことになる。引揚げのときに持ち帰ったわずかの写真の中に、「昭和廿一年五月、五年一組」と、当時の私の下手な字で裏に説明書きしたのがある。その写真の中の松本先生は、やはり国民服姿であるが、頭髪を延ばして、七三にきちんと分けておられる。

 戦後の体操の時間には、松本先生は野球を熱心に教えて下さった。私たちが5年生だったときの1学期に、校内のクラス対抗試合があったが、先生の指導を受けた私たち1組のチームは、よくまとまっており、うまい生徒の多かった2組に対して勝ったか、あるいは善戦したように覚えている。

 引揚げ後、幸い私は同期生のひとりから、松本先生が愛知県常滑に引揚げられたことを教えて貰い、先生と年賀状の交換を続けることができた。大学に合格したことを葉書でお知らせしたときには、便箋2枚にわたる丁寧なお返事をいただいた。その中には、次のような個所があった。
 「私も自分の進む道についていろいろ考えましたが、校長になる道をふりすて、名古屋市の小学校で音楽教育に専念するようになってから二年過ぎました。そして、私は私なりに満ち足りた心持で仕事をしております。」

 私は、ここに記されている松本先生のご決心に、たいへん感銘したので、それがもっと長い文章でつづられていたように思っていた。しかし、今お手紙を取りだしてみて、意外に簡潔にしたためられていたことに気づき、短い中にも、若い日の私に強い印象を与えた内容が込められていたことに驚いている。私自身は、物理学研究の道に進むことになり、停年まで管理的な仕事に煩らわされることなく、停年後も含めて「生涯一研究者」として歩んでいる。これは、このお手紙に影響されたところが大きいように思い、先生に深く感謝している。

 私が大阪で就職・結婚した翌年の1961年秋、松本先生から、用事があって大阪へ行くので、会いたいとのご連絡があった。私は妻同伴で出かけた。お会いした場所は近鉄上本町駅で、先生が乗られる特急電車の出発まであまり時間がなく、近くの喫茶店でお話をしたように思う。先生の奥様のお名前が、妻のと同じとお聞きし(貞子、読み方は「ていこ」)、不思議な一致を喜んだ。

 そのとき先生にいただいたチラシから切り抜いた「名古屋放送児童管弦楽団」の紹介文が、その日の先生のお写真と一緒に私のアルバムに貼ってある。同楽団は、全国でも珍しい小・中・高等学校の児童生徒だけの本格的な管弦楽団であった。先生は3人の選任指揮者のひとりとして、毎月の「子供オーケストラ」の時間のほか、ラジオやテレビにしばしば出演し、活躍しておられた。

 その後も三度ばかり、私が名古屋へ出張した折に松本先生にお目にかかる機会を得た。そのたびに、名古屋名物の鶏料理をごちそうになったり、名古屋駅近くのヒマラヤ美術館へ案内していただいたりというように、元生徒の私の方が歓待にあずかり、恐縮した。

 先生は晩年、長く住み慣れた名古屋から津に移られ、写真撮影などを趣味として、悠々自適の暮らしを楽しまれたようである。津は大阪からそれほど遠くはないにもかかわらず、お訪ねねする機会を持たないうちに、1992年他界されたのが悔やまれる。

 先に引用させていただいたお手紙には、
 「私は自分の今迄の体験から、心から尊敬する師を持ち、よい友達にめぐまれたことを得難い幸福と存じております。貴君もどうかよい師を探し、心の友にめぐまれますようお祈りいたします。」
とも書かれていた。私は探すまでもなく、そのときすでに、このことばの書き手の松本先生ご自身を、よい師のひとりとして恵まれていたのである。

 先生のご生前には、これといったご恩返しのできなかった私であるが、このささやかな一文が、天国の松本先生のお気にいれば幸いである。

「嶺前」(大連嶺前小学校同窓会会報)No. 11, pp. 7-9 (2000)
 
ページトップへ


私の戦争体験

 戦争でわが国の多くの人びとが苦しい体験をした1944、45年頃、私は国民学校3、4年生で、当時日本の租借地だった大連に住んでいた。したがって、空襲や食糧的困窮も、内地の主要都市の人びとが味わったであろうものにくらべれば、比較的穏やかな程度であった。しかし、戸外で遊んでいる時などに、突然「警戒警報」のサイレンが不気味に鳴り響くと、いつも背筋が寒くなるのを覚えた。

 とくに苦しい体験は、むしろ終戦直後から、内地への引揚げの間に味わった。ソ連軍の駐留や中国人への住宅明け渡しによって、日本人は市街の過半部に住めなくなり、また、満州奥地から内地へ引揚げる途中の人びとの滞在も重なったため、私の家には4家族が同居した。食糧事情も悪化し、中国語でカオリャン、パオミィなどと称する穀類を毎日代用食とした。母らがタンスの中から衣類等を取り出して、中国の人びとに買ってもらうために中心街へ出かけていく、いわゆる立ち売りによる収入を生計のたしにしなければならない日々も続いた。

 小学校の校舎の半分は中国軍の兵舎となったため、2部制の授業が行われたが、1946年の暮近く、その学年の授業は終わったとする仮終業式を行って、あとは閉校になってしまった。それから2、3ヵ月後に引揚げ船に乗り、舞鶴港にたどりついたが、着ているものと、手に提げられるものだけが、持ち帰ることのできたもののすべてで、火事か空襲にあったのと同然の姿となった。父の遺品の国語と英語の辞書をどこかに忍ばせて持ち帰ったのは、考えてみれば奇妙である。

 人びとが人びとを殺し合う野蛮な戦争、これが理性ある人類によって今なお準備され、また、行われているとは、いかにも馬鹿げている。

日刊放射線(大阪府職員労働組合放射線中央研究所支部発行)No. 646(1970年11月21日)
 
ページトップへ


戦後の大連

—「大連物語」を読んで—

大連
 
緑山から見たその後の大連、
玉木まやさんが2000年に撮影
Copyright 2000 by Maya Tamaki
 

I. A. 様

 「大連物語」をご恵贈いただき、ありがとうございました。さっそく読み始め、息もつかない勢いで読了いたしました。金沢市文学賞のご受賞をお祝い申し上げるよりは、賞自体が、授与するためのこの上ない作品を得たことを喜ばなければならないような、一地方都市の賞のレベルをはるかに超えた力作と存じ上げます。こう感ずるのは、作品のモデルとなった時間・空間に私も暮らしたための、ひいき目ではけっしてないと思います。

 開巻まもなく連続する「ろすけ」の暴虐の数かずの話をはじめ、悲惨で暗いできごとの話も、佐野家の人びとの温かい会話、温厚な教育者佐野の責任感の強い行動、「私」の人情味あふれる確かな視点と省察、自然や情景のこまやかな描写などとないまぜられて、読中読後にさわやかさを感ずることを阻んでいません。一見多すぎるように思えるエピソードを、緊迫感をゆるめることなく連ねた筆力に敬服させられます。あの時期の悲惨・困苦は、わが国の他国に対する侵略・植民地化への報いという意味の教訓として、日本人全体が、よく記憶し、現在・将来の政治の選択に生かして行かなければならないものと思います。

 ささいな点ですが、「チップス先生さようなら」のものとして書いていられる筋は、ドーデの「最後の授業」のものと思います。チップス先生は、イギリスの学校のラテン語の先生です。

 次に、もっとプライベートな感想を合わせて書くことをお許しください。「私」から信頼されるよい隣人・友人、原信子のモデルになることができて、私の母も地下で喜んでいることでしょう。当時幼かった私は、大人の方がたの苦労は、ごく身近な経済的・食糧的問題以外は知らずに過ごしていました。「大連日本人労働組合」のことも、最近読んだ富永孝子著「大連」で知ったばかりです。「大連物語」からも、隣組の世話役の方の苦心、学校の先生方の苦労など、子供の視座からは見えなかった点について教えられました。

 お宅のご一家に河村家の二階に入っていただいてからのできごとで、この作品にとり上げられているいくつかのエピソードは、私の記憶からほとんど消えかけていましたが、作中の描写によって、あざやかな映像を伴ってよみがえって来ました。小母様のご記憶力と、見聞を作中に巧みに取り入れられる構成力に感服しております。

 巻末に近い部分は、私たちがお先に引揚げたあとの「旧河村邸」でのできごとがモデルになっており、金沢でお会いするようになってからうかがったような気のするエピソードもあります。しかし、時・空間的にひじょうに近くても、私自身直接には体験しなかった事柄です。そのようなことに関する如実な描写に触れると、自分の死後の世界を天界から覗くことができれば、あるいはこれに似た感じを抱くのではないかという思いにとらわれます。

 戦後の大連は、外からの情報の流入がほとんどなく、自分たちがそこから出て行くにも、いつになるか分からない引揚げという手段を待つしかなかったのですから、いわば「閉じられた世界」でした。そういう意味で、そこから抜け出ることは、この世から姿を消して、別の世界に生まれ変わるにも等しい体験だったといえます。したがって、自分が去ったあとの大連を、しかも去った直後の街と、別れた直後の人びとの様子を、手にとるように知るなどということがあろうとは、夢にも思っていませんでした。このような事情が、先述の「死後の世界を覗く」との思いを呼び起こすのでしょう。さらにまた、そのころの大連の街に灯火が少なくなっていたとの描写も、この思いを強める働きをしていると思われます。

 当時の私自身の思い出の主要なものとしては、次のことを挙げなけれぱなりません。学校の授業がなかったり、あるいは、あっても時間が短縮されていたのを幸いに、私は地下室にあった従姉の児童向け全集を次つぎに取り出して来て読みふけっていました。そして、その全集の中にあった「ギリシャ・ローマ神話」に登場するあでやかな女神たちを、「大連物語」の「小さい二人」のモデルたちと重ね合わせて、心をはずませていたものです(佐野家にとっては小さな二人でも、原少年にとっては大きな存在!)。「住宅調整」のおかげで、私にとっての「女神たち」とよく一緒に時を過ごすことができたことは、私の心の成長の一つの糧になったと思います。あの極限的な状況の中で、このようなよい思い出を残すもとを作られたお宅の皆さんには、いつまでも感謝しなければなりません。

 つい長くなってしまいました。ほんの心ぱかりですが、ご出版・ご受賞の、遅いお祝いを同封いたしますので、お納め下さい。私に続いて、妻も読ませていただくと申しています。

 末長くご健康で今後もよい作品をお書き下さい。「小さい二人」さんによろしくお伝え下さい。

 1986年9月21日

ページトップへ


大連からの引揚船

—中学1年のときの作—

Cover
 
掲載誌『空白』の表紙
 

 ずーっと遠くまで、どんよりと淀んだ緑や青や白の布でおおったような海が広がり、水平線がゆっくり上下しているのを、毛糸の防寒帽を頭に、オーバーの襟を立て、そのポケットに手を突っ込んだぼくが眺めている。時は1947年2月の初旬、そしてぼくのいる所は、大連を出て朝鮮海峡を横切り、やがて舞鶴も間近という引揚船、信濃丸の甲板上だ。

 ぼくの船旅は、これが二度目である。一度目は第二次世界大戦のまっただ中に、大連へ向かって出発した時であった。その頃のぼくは、まだ小学校が国民学校と呼ばれていた頃の、国民学校3年生で、その年は、ぼくの最も悲しい年でもあった。ぼくばかりでなく母も頼りにしていた一家の柱、父が他界した年だからである。そのため、母とぼくは祖父を頼って、はるばる大連への旅路についたのだ。

 その頃の3年生の国語の教科書に、ちょうど「大連」という話があったので、ぼくは、大連へいくと聞いてから出発までの日々に、そこをくりかえし読んだ。そして、時どき本をふせて眼を閉じ、まだ見ない「外地」の国際都市大連を想像したり、また、これから住む、変わった世界での毎日の生活や学校や友達をいろいろ思い描いたりして、楽しみにしていた。けれども、大戦最中であったためと、暑苦しい救命袋を背と胸にして待避にそなえていたせいで、船旅の道中はそれほど楽しめなかった。しかしまた、二度の旅とも、身体も弱く、また幼かったぼくに何かを教えてくれた旅であった。

 敗戦後の大連でのうって変わった中国人の態度や、進駐したソ連兵の日本人に対する乱暴な行為が、ぼくたちに一日も早く日本へ帰ることを待ちわびさせた。しかし、いよいよ船が大連を出るという日になり、そして、船がしずしずと沖に向かって滑り出しはじめると、ぼくの心には、なぜかしら去りがたい気持、離れたくない気持がわいてきた。ボーッ!ボーッ!と低く重々しい鳴笛を残しながら進んだ船が、いよいよ大連の姿も見えないところにまで来た時、ぼくは船尾に立って、白く延びている船跡を眺めながら、思わず目頭が熱くなるのを感じた。楽しかった大連、もう二度といくこともないだろう異国の土の香。ぼくの心は、なつかしさと悲しさを抑えることができなかった。母はと思って聞いてみれば、大人だけあって、ともかく日本に帰ることを唯一の希望とし、日本に向かって進む船の、一日でも早いことを祈っていたようだ。

 そして一日一日と、船は日本に近づいていった。ある日には、西の空で、真っ赤にやけた雲が切れ、その雲間から絵に描いたような、大きく美しい夕陽が輝き、それが海面にかげを落として、無限に長い金棒となっているのを見た。その金棒が、波の動きに同調して、きらきらと、まぶしく輝き、時には目の玉を射る。まことに荘厳な景色である。

 もう夕食だなーと思っていると、遠くで「飯上げ!」の声がする。と同時に、それを待っていたかのように、甲板上がさわがしくなり、鍋や鉢をもった女の人、男の人が、ぼくの左右をあわただしく往来しはじめる。どの引揚船でも同だろうが、信濃丸の食事も実際ひどかった。しかし、それは上陸後ふりかえって、まずい食事だったと思ったのである。船の上では、敗戦後に大連で口にした食事とくらべて、ひじょうにおいしいと思い、この「飯上げ!」の声をずいぶん待ったものである。その声を聞くと、ぼくは、そわそわと急な階段を下り、船室の母のそばへいった。

 船室の中はたいへん暗く、天井には、ただひとつ、明るくもない電灯がポーッとともっていて、人やもののありかがどうやら分かる程度だった。もっとも、明るい外からにわかに暗い部屋に飛び込んできたため、目の馴れないせいもあっただろうが。広くもない部屋には、母と祖父と伯母と、ぼくよりも十数歳年上の従姉の5人が入っいた。それは扉もついていなくて、部屋と名づけられるようなものではなかった。もともと貨物船だったそうで、ぼくたちの部屋も、もとは缶詰めか何かの倉庫だったらしい。天井が低いので、うっかり立つと、頭をぶつけて痛い思いをしなければならなかった。というのは、この船は引揚船に当てるため、にわかに改造したのか、高くもない部屋の中間をさらに上下二つに区切り、ぼくたちの天井には別の世帯が起居していたからである。

 食事を終えたあとの夜は、だれだって淋しい。ぼくも淋しいはずだったが、幸い隣の部屋に中学2年生の兄さんがいたので、そのころまだ6年生にもなっていないぼくではあったが、大の仲よしになった。次の日も、またその次の日も、船の中では同じような単調な生活が続いた。そして、だんだん日本に近づいてくるうちに、栄養不良から身体の耐えられなくなった老人や幼児たちが、何人か水葬されるのを見ることもあった。

 そのうち、「いよいよ15日に舞鶴に着くぞ!」という大人たちの喜びにあふれた声を聞いて、ぼくも嬉しくなった。舳先に走りよって、波を切って進む船の前方に島影でもないかと眺め、また、蒸しかえすように熱いボイラー室の横をかけ抜けて船尾にいき、はるか大連のかなたに目をそそぎ、大連と内地をかわるがわるに思っていた。

 戦後の大連では、校舎を中国の軍隊に接収されたりして、勉強が十分できなかった。内地の友だちよりもおくれた学習を、どうして取りもどしたらよいだろうか、などと考えると、もう、たまらなくなり、早く内地に着かないかなと、船のエンジンに向かって、やれゆけ!それ進め!と、ぼくは心の中で一生けんめい叫んでいた。

 そして、いよいよ船が舞鶴に入港しはじめた時、二月の寒さも忘れたぼくは、オーバーも着ないで甲板に立ち、同乗の人たちと一緒に、万歳!万歳!と絶叫した。するとその時、ふっとなつかしい金沢のなまりが頭に浮かび、ぼくは思わず微笑した。そして、とうとう、ほんとうに日本に帰ったなーという感じになった時、ふたたび、大連の土の香が、ぼくの記憶をなつかしく呼び戻した。

(1948年6月10日)

 注:「光への道」という原題で、北陸青年文学者会誌『空白』No. 1 (1949) p. 32-35 に掲載された。編集者の黒田武雄氏が、母と同じ職場にいた関係による。同誌に掲載の文は、黒田氏が原作にかなり手を加えて、なかば大人びた文になっていたので、ここでは、さらに手を加え、中学生らしい文に少し戻した。(1999年11月19日)

ページトップへ

 

『不思議の国のアリス』:第1章を精読する

—高校2年のときの作—

 ここをクリックすると、PDF ファイルをダウンロードあるいはご覧いただけます。

ページトップへ


『ヘンリィ・ライクロフトの手記』:四季の各章から一節を紹介

—高校3年のときの作—

 ここをクリックすると、PDF ファイルをダウンロードあるいはご覧いただけます。

Cover

掲載誌「新樹」の表紙

ページトップへ


ホーム(和文)  |   Home (English)

Amazing and shiny stats

inserted by FC2 system