ゆっくり人の時空漫歩 4
 IDEA-ISAAC

ゆっくり人の時空漫歩
________________________________________

多幡達夫
________________________________________

Copyright © 1999–2003 by Tatsuo Tabata

Photo of Tabata

目 次


はじめに
幼年時代から青年時代まで
大放研時代(その1)
大放研時代(その2a)
大放研時代(その2b)
阪府大先端研時代
IDEA時代

(IDEA時代のその他の随筆は、主にブログサイト Ted's Coffeehouse 2 でご覧になれます)

 
IDEA時代


同窓会返信の統計学・心理学

 2002年5月26日、大津プリンスホテルで大連嶺前小学校同窓会第12回総会が開催された。私はこの総会の出欠返信葉書の整理を担当させていただいた。その際に得たいくつかの統計的結果が、次回以後の総会開催に何らかの参考になれば幸いと思い、ここにそれらをご報告する。

 案内状の発送は3月4日に行われた。私はそれには関わらなかったが、発送数(後の説明でこの数をAと呼ぶ)は約1,660通と聞いている。第1図に、累積全回答率(■印)と累積出席回答率(●印)が日とともに変化する様子を、回答締切り日の4月30日までプロットしてある。ここで全回答というのは、出席回答と欠席回答を合わせたもので、欠席回答の中には、会員のご家族等からご本人の逝去を知らせて下さったものも含まれている。締切り時点での累積全回答率(この率をBと呼ぶ)は63.8%(実数1,059)、累積出席回答率は14.5%(実数241、この数をNと呼ぶ)であった。

Graph

第1図 累積全回答率、累積出席回答率、および両者の比が日とともに変化する様子

 第1図の両累積率曲線には、二つの興味深い特徴がみられる。前節の数字自体は、開催地が東京であるか関西であるかによって異なるであろうし、また、後続卒業生のない嶺前会の場合、年を追う毎に漸次変化して行くであろう。しかし、上記の二つの特徴は、出席者数を予想するための、かなり確かな手がかりを与えるのではないかと思われる。

 特徴の第一は、二つの累積率曲線が、おおむね相似形をしているということである。このことは、両累積率の比、すなわち累積出席回答÷累積全回答をプロットしてみるとよく分かる(図中×印)。この比は、始めの数日間には変動するものの、その後は驚くべき正確さでほぼ一定の値0.22を示している。0.22という値自体は、開催年によって変化するであろう。しかし、その年の一定値(Cと呼ぶ)を案内状発送後比較的早く把握してしまえば、これを利用して、出席者数Nの早期予測をすることができる。すなわち、Nは、先に述べた発送数A、締切り時点での累積全回答率B、それにCの、3者の積で与えられる。

 Aは既知であり、Cは早期に知り得ることが分かったが、Bの予測は可能だろうか。今回の葉書回収作業の初期に、私はBの値をおおまかに仮定してNの予測を始めたが、日を追うにしたがって、Bの値をかなり正確に知り得ることが分かった。これが、累積率曲線にみられる第二の特徴に関係している。

 第1図で「全回答」の曲線は、初期の急な増加が鈍化した後、3月末頃から鈍化を示さなくなり、ほとんど直線的な上昇を続けている。これが上記の第二の特徴である。鈍化がなくなった辺りで直線部分を締切り日まで外挿すれば、Bの値が予想できる。3月末頃のデータからの外挿値は68%くらいになり、実際に到達したBの値よりも大きめであるが、それでも、6~7%の誤差でNの予測ができる。(Nの予測に累積出席回答率曲線自体を使用しないのは、こちらは実数が小さく、統計的変動の影響を受けやすいからである。)

 当初、私は累積回答率曲線は、次のようになるであろうと予想していた。すなわち、日の経過とともに同曲線の上昇は鈍化を続け、自然現象によくみられるような、いわゆる指数関数を逆さにした形になり、締切り日近くでは、曲線はほぼ水平に近くなるであろう、と。しかし、その予想は外れた。

 累積回答率曲線において直線的上昇が続くということは、直線部分に相当するどの1日をとっても、大体同数の返信が届くということである。言い換えれば、ある日数が経過した後、まだ返信を出していない人が締切り日までの間のいつ返信を発送するかは、全体として全くデタラメな、一様分布を示すのである。それは、返事を出すことを比較的急ぐ人もあれば、急がない人もあり、また、締切り間際までのいろいろな時間尺度で、健康状態の見極めや日程調節の必要な人もあるからであろう。ここに、自然現象とはいささか異なった人間心理の介在があり、予想外の曲線が出現したのではないだろうか。

 締切り日以後にも若干の返信が到着し、総会後(!)にも2通到着した。総会後に到着したのは当然欠席回答であったが、大幅に遅れても真面目に返信を出して下さったことに感謝したい。最終の返信回収率は66.5%であった。

 出席回答は最大時点で243通に達したが、健康状態等のやむを得ない事情でのキャンセルがかなり発生し、実際の出席者数は、恩師3名、卒業生221名の計224名(キャンセル率約8%、この数字も今後の参考になるであろう)、これに同伴者6名を加えて総計230名であった。また、逝去のお知らせは27通、転居先不明で戻った葉書が33通あり、これらの詳細は会報前号と今号に国崎様から報告していただいている。

「嶺前」16号、pp. 15-16(大連嶺前小学校同窓会、2002)(原題「嶺前総会返信の統計学・心理学」)

ページトップへ


大連嶺前小での野球応援の思い出

 同期の吉原さんが、ご令兄酒井氏(22年卒)の嶺前小時代の日記を本誌(注:嶺前会報)に連載しておられる。前号の分に「脇坂君と銃剣術をして」という記述があった。脇坂さんは、戦後の嶺前小学校野球チームで俊敏な遊撃手ぶりを発揮された方と思う。このお名前から、敗戦の翌1946年、大連市の小学校野球大会を応援に行ったことなどを、まざまざと思い出した。といっても、57年ほども昔のことである。思い出せない部分もあれば、記憶違いもあるかも知れない。以下の文では、煩雑さを避けるため、「と思う」というような表現を省いて、断定的に記すが、実は不確かなところが多い。間違いに気づかれた方は、次号なりで、遠慮なく指摘して下されば幸いである。

 1946年の一学期中頃、校内の野球大会があり、5年生や6年生の各学年の男子組同士、すなわち1組対2組の試合があった。私の属していた5年1組(松本先生のクラス)では(以下、嶺前の各クラスや学校の野球選手名はすべて敬称を略させていただく)、ピッチャー石川、キャッチャー佐藤、ファースト酒向、セカンド尾下、サード上床、ショート兼アンダースローのリリーフピッチャー坂口らの布陣で戦った。しかし、河津、黒田、立石、水谷ら、優れた運動神経の持主(現在も同窓会に元気な顔を見せている連中)を多数かかえていた2組にはかなわなかった。

 同じ年の秋頃、満州各地から引揚げに備えて南下してきた人たちが大連に滞在したことや、中国人の手に渡った大連市政府の指図による「住宅調整」が始まったことにより、嶺前小の生徒数がふくれ上がり、教室が足の踏み場もないほど、机で一杯になった時期があった。5年1組にも野球の得意な生徒が何人かふえ、「いまだったら、2組と互角に戦えそうだ」と、私は秘かに思ったものだ。それより先、二学期の始めに、松本先生は静浦小に転勤され、同校で同じく5年生の担任をされた。ある日曜日、私たちのクラスの野球チームを先生の新しいクラスとの交換試合に招いて下さった。私も応援に出かけた。驚いたことには、私たちのクラスから先生と同様に静浦に移った大家君というのが、先方のキャッチャーをしていた。嶺前にいたときの彼は、クラスの選手になるほどの運動神経の持主とは見えなかったのだったが。

 そのときの試合では、大家君のキャッチャーぶりと、わがチームの上床が高く上がったサードフライを、グローブとそれに添えた右手を頭のうしろにかざして、曲捕りのような形で捕球した場面だけが妙に記憶に残っている。試合は、松本先生の指導を先に受けた嶺前のクラスの楽勝となった。相手はなにしろ、大家君でさえ選手になっているチームだったから。

 前記の校内野球大会では、6年生の試合も見学した。このときすでに嶺前の代表選手は決まっており、9人のうち7人までが一つのクラスに集中していた。したがって、そのクラスが圧勝した。6年生の勝利チームは、たとえば打球がサードへ飛ぶと、ショートとレフトがその後方へ一直線をなすようにすばやくバックアップにまわる好フォーメーションを見せ、見学の私をいたく感心させた。放課後の校庭で、嶺前チームのきびきびした練習ぶりを眺めるのも楽しみだった。私はいつの間にか選手たちの名前を覚えていた。ピッチャー清水、キャッチャー前田(しゅうちゃん)、ファースト中西、セカンドは顔つきや体つきの締まった感じの選手だったが、名前を思い出せない。サード田中(たなちゃん)、ショート脇坂、レフト浅井、センター藤田、ライトはもう一人の田中。

 長身の中西の捕球や打撃のフォームに私は魅せられ、彼に一種のあこがれを抱いた。ある日の昼休み時間、彼が私の持っていたグローブを貸してくれといって、彼の友人と少しキャッチボールをしたあと、グローブの内側に汗の湿り気を残して返してくれたのが、何ともいえず嬉しかったものである。異性に興味を抱き始める前ぶれ現象だったのであろう。

 嶺前小対静浦小の練習試合の応援にも行った。清水は好投し、バックの好守とあいまって、静浦を完封した。小柄な浅井が俊足を飛ばして難しい左飛を再三好捕したのが印象的だった。春日小の2チームとの練習試合も見に行った。2試合目が強い方のチームとの対戦で、その試合に嶺前は勝てなかったが、それは変則ダブルヘッダーによる嶺前ナインの疲れのせいだろうと思った。しかし、あとで分かったのだが、春日小の代表チームも、なかなかの強豪だったのだ。

 市の大会が中央公園の球場で行われたのは、初秋の頃だった。その頃、中国人市政府の指図によって、日本人の小学校には番号が付けられ、嶺前は「12校」だった。記憶に残る対戦相手の下藤小は「9校」と呼ばれた。両校選手のユニフォームの胸には、これらの数字が取り付けられていた。嶺前の12は緑で、下藤の9は青だった。

 下藤は嶺前に一度破れたのだったが、敗者復活戦で勝ち上がり、応援に行った試合は再度の対戦で、準決勝戦の一つだった。下藤は前の試合以来厳しい練習を積み、腕を上げたとの噂があった。両校ピッチャーの絶妙な投球は、延長12回まで互いに相手の得点を許さず、0対0の引き分けとなった。そのときの主審が満クのピッチャー浜崎さんだと、級友で家も近くだった若生君が教えてくれた。浜崎さんは引揚げ後、阪急ブレーブスで最高齢登板という、いまも破られていない投手の記録を作り、同球団の監督に就任した。私は迷うことなく、私がそれまでに実際に見たことのある唯一のプロ野球人であった浜崎監督の率いる阪急ブレーブスのファンになった。

 余談になるが、私と同じ家に住んでいた従姉が、戦後のある日、戸倉さんという職場の上司に実業団対満クの野球の観戦に連れて行って貰った。その試合で、ある選手がホームランを打ったとき、上司は、「彼はいいバッターだろう。私と同じ名前だ」といったそうである。そのホームラン打者の戸倉選手も、引揚げ後、阪急で活躍した。

 嶺前対下藤の引き分け後の再試合では、6回表に田中がサードゴロの捕球を過って走者を許した。そこへ、清水の二塁牽制悪投なども重なって、嶺前は2点を失った。その裏、田中は奮起一番、好打して出塁、後続の安打などで生還し、自らの失策を補った。しかし、嶺前の得点はその1点にとどまり、惜敗してしまった。決勝戦は下藤と春日の対戦となり、結局、下藤が優勝した。

 小学校の決勝戦は午前にあり、その午後、中等学校の決勝戦も見学した。三中とどこかの対戦だった。三中のショートは、これも若生君が教えてくれたのだが、宝生さんといって、桃源台の私の家の比較的近くに住んでいた。引揚げ間もない頃、湘南高校が甲子園で優勝したときのショートの名前が同じ宝生だった。

 私は、湘南高校の宝生遊撃手は元三中の宝生さんに違いないと思った。しかし、それを確かめるすべはなかった。ところが、のちに私が最初の職場の大阪府立放射線中央研究所にいたとき、大連出身で私より少し年長の方が事務部門に転勤して来られた。聞けば、三中で宝生さんと同期だったということである。そして、「彼は幸運な奴だ。甲子園で優勝した」といって、私の長年の疑問に答えて下さった。

 市の野球大会のすぐあとで教科書代りに配付された5年生の国語の教材中に、小学校野球大会の決勝戦の話があった。その試合は熱戦の末、1対0となるのだった。私たちは、「嶺前と下藤の試合のようだ」といって喜んだ。

 私は引揚げ後も、嶺前対下藤の熱戦が忘れられなかった。それで、中学1年の夏休みの宿題としての作文中に、頭の片隅に残っていた国語の教材の表現も参考にしながら、嶺前対下藤の試合の模様を詳しくつづった。その作文はいまは残っていないが、ここに記した記憶が同期生たちのものにくらべて、いくらかなりとも、より鮮明であるとすれば、その作文を書いたという記憶の反芻作業に負うところが大きいであろう。

「嶺前」17号、pp. 9-11(大連嶺前小学校同窓会、2003)(原題「野球応援の思い出」)

ページトップへ


太田先生の英語教室

太田先生

 私の古いアルバムの一冊中に「デ杯東洋ゾーン決勝、日本また宿願ならず」と題する1968年9月23日付け朝日新聞からの切り抜きが貼ってある。この記事を保存してある理由は、関連のインタビュー記事「もっと手堅さを、敗因語る太田監督」の方にある。テニスウエアで田園コートのベンチに腰かけ、ラケットをひざの間に立てて挟み、右手を上げて指さす仕草で語っておられる太田監督の写真も掲載されている。この時のデ杯日本チーム太田芳郎監督は、戦後私が大連で英語を習った先生だったのである。

 挿絵の肖像は、私が上記切り抜きの写真から、何度も失敗を繰り返した末に描き上げた苦心作である。われながら、太田先生の雰囲気をかなりよく表せたと思っている。

 太田先生は戦後まもなく、嶺前小学校生徒の中から希望者を集めて、英語教室を始められた。敗戦の時4年生だった私は、引揚げの始まる少し前の5年生の2学期末まで、熱心にその教室に通った。初めは嶺前小学校の教室でレッスンが行われていたが、そのうちに先生のご自宅で習うことになった。ご自宅は臥竜台あたりで、桃源台の私の家から比較的近かった。

 先生の二人のお嬢さん方も指導に当っておられたが、私はずっと芳郎先生のクラスだった。開講当時は学校の一教室に一杯だった生徒数も、終り頃には、かなり減っていたようだ。私は午後のある時間になると、近所の友だちと遊んでいる最中でも、それを打ちきって先生のお宅へ出かけて行くのが、残念であると同時に誇らしくもあった。筆入れと教材のガリバン刷りプリントをいれた紙挟みを黒い風呂敷にくるんで通ったものである。

 最後のレッスンの日、先生は「私が上げたプリントの内容は、全部皆さんの頭の中に入っているはずだから、引揚げの時にプリントを持って帰る必要はありませんよ。」とおっしゃった。私は、先生が配られた挿絵入りのプリントがたいへん気に入り、英語の学習も大好きになっていた。それで、先生のお言葉に背き、プリントを全部持ち帰り、いまでも大切に保存している。たまたま先生とは引揚げ船が同じだったので、船上でも言葉をかけていただいたが、私は自分で背負う少量の荷物の中に先生のプリントを潜ませて来たことについては、もちろん黙っていた。

 プリントはわら半紙(B4サイズ紙)を二つ折りにして袋とじするようになっており、私は母に手伝って貰ったのか、2冊に分けて糸でとじたものを、さらに1冊にとじ合わせて持ち帰っている。そして、丁寧にページ番号を自分で書き込んであり、全部で180ページ(90枚)となっている。1回に1枚、1週に3回とすれば、30週、約7ヵ月通ったことになるが、実際に通ったのは1年以上だったように思われる。1枚のプリントの学習に2回を要した場合も多かったのであろう。

 わら半紙としては、初めのうちは新しい紙が使われているが、そのうちに、いろいろな罫があったり、先に教材がプリントされたりしている紙の裏が利用されるようになっている。プリントの挿絵は、種本から転写されたものらしいが、ひじょうによく描かれていて、ぬりえとしても楽しめるようになっている。絵を描くことが好きだった私は、かなり多くの絵に彩色している。いろいろな虫の名前を学ぶための8枚目のプリントには、「春の女神」という英語もあり、妖艶な女神の大きめの挿絵の、顔や腕や髪(これには金色のクレヨンを使っている)を彩色するときは、なぜか心がときめいたものである。

 プリントの1枚目は当然ながら、アルファベット26文字の小文字と大文字を学ぶものである。2枚目では各文字の発音、3枚目ではローマ字を習っている。4枚目は代表的なつづりの単語の読み方に当てられている。これと類似の教材は6枚目やそれ以後にも出て来る。太田先生がこのように、各文字の発音や代表的なつづりの読み方に力を入れる教え方をされたのは、いま思えば、かなりユニークであった。そのお陰で、私は新しい単語に出会ったとき、その読み方をたいてい正しく推定できるようになった。

 プリントの5枚目は、「蛍の光」の曲で歌われるスコットランドの古歌「オールド・ラング・ザイン」の歌詞と、「オールド・マザー・グース」の歌詞からなっている。42枚目あたりから、「イソップ物語」からの話が多く登場する。「狼と山羊」、「犬とその影」、「カラスと水差し」、「羊飼い少年と狼」、「狐とコウノトリ」等々である。それらの文はいずれも、太田先生が私たちの学習段階に合わせて、やさしく砕いて書き直されたもののようである。最後のプリントは、「オールド・ブラック・ジョー」と「オールド・ホーム・グッドバイ!(さらば古里)」の歌詞である。これを学んで、太田先生の英語教室と大連に別れを告げることになったのである。

 大方の英語の先生は、「あなたのお名前は?」に相当する英文を「ホヮット・イズ・ユア・ネーム?」というように発音される。しかし、太田先生は、上記の方式があることに触れながらも、「ウォット・イズ・ヨー・ネーム?」という発音方式を採用しておられた。私は中学時代から大勢に順応して、「ホヮット・イズ・ユア・ネーム?」式に発音するようになってしまった。しかし、大学の教養コース時代の英語の時間に、鳥取県出身のI君が朗読を指名され、珍しく「ウォット・イズ・ヨー・ネーム?」式の発音を聞かせてくれたので、驚いた。太田先生とI君の習った英語の先生が、共通の先生に指導されたということででもあるのか知りたく、I君に彼の郷里での先生のことを尋ねたいと思いながら、それっきりになってしまった。

 太田先生のレッスンの終りの方で習った英語は、私たちの時代の教科書でいえば、中学3年の半ばくらいに相当するものだった。それで、私は引揚げ後の中学、高校での英語の勉強はたいへん楽であった。大学卒業後は理系の研究職・教育職についたが、同僚たちがかなり苦労して取り組んでいる英語論文の執筆も、私にはむしろ楽しみであった。定年退職後のいまも、ホームページを英和両言語で作成して、英語の使用を楽しんでおり、読む本も英文で書かれたものが多い。これらはすべて太田先生に教えを受けたお陰だと思い、感謝の気持を抱き続けている。

 冒頭に記した新聞記事を見たとき、太田先生に手紙を差し上げたいと思いながら、つい忙しさにまぎれて果たさなかったことが悔やまれる。新聞記事には、先生は当時、芝工大と日女体大の教授で、東京ローンテニス・クラブ理事や都下東村山市教育委員長も兼ねる忙しい身でいらっしゃったことが記されている。

 いつ誰から聞いたのか覚えがないが(太田先生ご自身が話されたのだったかも知れない)、先生は若い頃、デ杯戦で相手が何か不運な状況に陥ったとき、スポーツマンシップを発揮して、そこで攻め込んで相手を負かせてしまうことをせず、相手の状況の回復を待たれたそうである。この挿話のもっと詳しい経緯や、太田先生のその後のご消息、そして先生のお嬢さん方のことをご存じの方があれば、ぜひ本誌上で紹介していただきたいと思う。

「嶺前」18号、pp. 10-12(大連嶺前小学校同窓会、2003)

ページトップへ


太田先生のご情報へお礼

 本誌前号に拙文「太田先生の英語教室」を掲載していただいたお陰で、数名の方々から太田先生に関連する情報のご提供をいただきました。

 嶺前小同窓会副会長の S. I. 様は、会報到着の即日、お電話で太田先生のご長女・M. O. 様(14年卒)のご消息をお知らせ下さいました。私は早速、M. O. 様に電話や手紙を差し上げ、太田芳郎先生のご恩に感謝申し上げることができました。太田先生は1994年に94歳で亡くなられたとのことです。

 昨年12月に美嶺展でお目にかかったばかりの E. O. 様(12年卒)は、太田先生が弥生高女に英語の先生として、また後には教頭として勤務され、生徒からも信頼・尊敬されておられたことや、E. O. 様が弥生会の会長代理として参列された太田先生のご葬儀の模様などを、ご丁寧なお便りでお知らせ下さいました。

 美嶺展のお世話をして下さっている M. K. 様(21年卒)は、嶺前小が中国の保安隊に接収された後、太田先生の英語教室が鳴鶴台のキリスト教会で開かれていた時期のあったことを教えて下さいました。私はそのことを全く覚えていませんでしたが、M. O. 様からのお便りにもそのように書かれていました。

 静浦小と弥生高女を出られた N. I. 様は、弥生の同級会で嶺前会会報をご覧になり、懐かしく思ったといって、お葉書を下さいました。N. I. 様は太田先生のご次女・M. N. 様とご級友で、ローンテニスクラブにおいて太田先生のもとでお働きになったことがあるそうです。

 桃源台で私の近所におられた T. I. 様(21年卒)は、嶺前会関西地区懇親会の折に次のような話を聞かせて下さいました。T. I. 様がお生まれになったばかりの頃、ご尊父が英国へ長期出張をされ、当時の日記に太田先生が近くにお住まいで親しくされていたことを書かれているそうです。

 M. O. 様も、太田先生が若い頃英国にいらっしゃったので、キングズ・イングリッシュを好み、米語を嫌っておられたことを、お便りに書いて下さいました。なお、私が好んだ太田先生の英語教材の挿絵は、絵を描くことの好きだった M. O. 様が描いておられたそうです。

 以上のご情報を下さった方々に個々にはお礼を申し上げましたが、ここに簡単ながらご紹介し、重ねて厚くお礼申し上げる次第です。

 注:太田先生以外のお名前は、インターネット上では頭文字に変更しました。

「嶺前」19号、p. 11(大連嶺前小学校同窓会、2004)

ページトップへ


ホーム(和文)  |   Home (English)

Amazing and shiny stats

inserted by FC2 system