IDEA-ISAAC

ゆっくり人の時空漫歩
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多幡達夫
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Copyright © 1999, 2000 by Tatsuo Tabata

Portrait of Tabata

目 次

はじめに
幼年時代から青年時代まで
大放研時代(その1)

大放研時代(その2a)
大放研時代(その2b)
阪府大先端研時代
IDEA時代

大放研時代(その1)


夕映え(フィクション)

 国電 F 駅を出た稔は駅前の交差点のせわしい人の流れを見て、学生新聞から依頼された随筆のテーマに「素粒子の相互作用と人間の相互作用」というのはどうだろうかなどと考えながら、ゆったりとした足どりで家路をたどっていた。商店街への角を曲がろうとしたとき、「パパ!」という明かるく澄んだ声が彼をふり返らせた。小走りになって近づいて来るりつ子の顔が、初秋の夕日を受けて小麦色に輝いている。歩みをとめた稔は、りつ子が追い着くのを待って、
 「同じ電車だったのかな。」
と、やさしみをこめた低く響く声でいった。
 「そうらしいわね、同じ電車…。」
そう答えたりつ子は、何かためらうようにちょっと黙り込んだあと、ことばを続けた。
 「その、『同じ電車』といということがねえ、パパ、わたしに失恋をもたらしたのよ。」
 「ほう、それはどういうことかね。」

 稔は内心少しばかり驚きながら、並んで歩くりつ子の顔を眺めた。りつ子は切れ長の目をなかば閉じるようにして夕映えの空に向けていたが、次のように話し始めた声はいつもの明かるさを保っていた。
 「いま、石山さんのところへ寄って来たのよ、卒業以来約一年半ぶり。彼女、北海道へ行っていたでしょう。高校生たちの傍若無人ぶりに愛想をつかして、先学期でやめて帰ったのよ。でも彼女、相変わらずはり切っているの。いまはシナリオライターになるための勉強中だって。それからね、おととしあった彼女のお姉さんの結婚式の時の写真を見せて貰ったの。そうしたらね…わたしの想像が的中していたの。朝わたしがよく電車でいっしょになる人、『恬淡とした風貌の中に親しみある鋭利なまなざしを宿している』とかなんとか前に石山さんがいっていた形容がそのまま当てはまりそうな青年、それがやっぱり彼女のお姉さんのご主人、北崎氏だったというわけよ。」
 「ふーむ、なるほど。それで…、そうではないかと気がつくまで、りっちやんは毎朝多少胸をときめかせて電車に乗っていたのかね。」
と稔はたずねながら、ふと二十数年前の彼自身のことを思い出していた。

 「いいえ、それほどでも…、一見あまりスマートな人じゃないのよ。だけどよくいっしょになるから、そのうちになんとなくひそかに観察する機会があって…。それは、ある日、近くの吊り皮につかまっていた彼氏が同僚らしい人と何か実験装置のことを話し合っているのをちらりと耳にしたり、またほかの日に、向こう側の座席で "Chemical Review" という雑誌を鞄から出しているのが見えたりしたというようなことだけど…。そんな観察から知った若い研究者という素性には少しばかり興味を覚えたわ。そのうち、学生時代に石山さんがいっていた『うちのアネキのハズはバケ学屋よ』ということばや、それといっしょに聞かせてくれた彼女一流の容貌の描写を思い出して、ひょっとすると…と思っていたの。」
 「ふーむ、それは面白い。いや、北崎氏とかがすでに独身でなかったのは、ちよっと残念だったな。…そういえば、パパにもいくらか似た経験がある。」
 「わあー。それ、パパの結婚前のこと?」
 「とんきような声を出すんじゃないよ。りっちゃんが一つぐらいのときのことだ。」

 父と娘は、洋品店の角からバス通りへ抜け出る小路へ入った。
 「じゃあ、パパ、浮気したの? もしくは、浮気しようとしたの?」
 「これ、りつ子、パパに向かって何といういい方だね。」
稔は、ことばの上ではりつ子をたしなめていたが、その声はなかば笑っていた。
 「パパには当然、その頃すでに最愛のママがいたから、若くて感じのいい女性を見かけた場合に考えることは、独身時代とは違って、りっちゃんが大きくなったら、あんなふうになるかな、というようなことだった。」
 「そうかしら?」
 「そうだとも。パパはりっちゃんが生まれた瞬間から、つねに模範的なパパだったからな。」
 「それで? パパはその頃、毎朝通勤電車の中で、わたしの未来像を見かけたというわけなの?」
 「うむ。まさにそういうところだ。その頃は S 町のアパートに住んでいて、原子核研究所の方へ勤めていたから、パパは T 駅から H 町行きの電車に乗っていた。りっちやんの未来像は、同じ駅の線路の反対側の道からやって来て、同じ電車に乗っていた。パパはきちょうめんにいつも同じ時刻の電車に乗っていたが、彼女の方は週に一日から三日は、その電車に乗りおくれて、次ので行っていたようだ。」

 「あら、そこはわたしによく似ているのね。八時五分の電車は、それでも間に合うことは合うんだけれど、途中 M 町で快速電車をやりすごすのに五分ばかり止まっているから退屈しちゃうし、降りてから少し急いで歩かなきゃならないの。だから八時二分の方がいいんだけど、三日に一度ぐらいは家を出るのがおくれてしまうわ。ほかの点でも、わたしその人に似ている?」
 「そうだな…。久しぶりにその頃のことを思い出してみると、りっちゃんがいつの間にか、その人そっくりになってしまったのに驚くよ。いや、正しくいえば、りっちゃんはママの若い頃にそっくりになって来たのだ。そして、かつてのりっちゃんの未来像なる人の面影は、パパの記憶の中ではだいぶうすらいでしまったのだが、その人がりっちゃんの未来像という意味で、若い頃のパパの注意を強くひいたのは、ママの顔に備わっているのに似た、知的な美しさをかもし出す特徴が、その人にもいくつか共有されていたからのようだ。そのことから、りっちゃんがその人に似て来たに違いないと思われるのだ。」
 「ずいぶん込み入った似方なのね。その人、どこへお勤めしていたのかしら。」

 二人はバス通りを横切って、静かな住宅地へさしかかった。
 「その点については、パパも、りっちゃんが北崎氏に対してしたのと同じような、ささやかな観察をしたものだ。パパが電車の中でその人に気づいたごく始めの頃、その人は、『指導日誌』と墨で書いた表紙のついているとじ込みを、手提げ袋とは別に手にしていたことがあった。だから、学校の先生だなと思った。」
 「あら、じゃ、ますますわたしと同じじゃない?でも、わたしなんかそんな日誌つけていないわ。小学校の先生か、それとも特殊学校の先生じゃなかったの?」
 「その後、『幼児のうた』とかいう本が手提げ袋の中から見えていたことがあったから、幼稚園の先生だったようだ。」
 「なーるほど。パパは、その人に興味を持たれているとは思わなかった?」
 「いや、パパは自分でそう思い込むほど、うぬぼれ屋ではないからね。」

 「その人、その後どうしたかしら?」
 「その幼稚園の先生とよくいっしょになった翌年の始めに、団地から今の家へ引越して来たから、その後はもちろん、ずっとその人を見かけることはなかったが、その翌々年ぐらいだったか、地下鉄の中でひよっこり出会った。日曜日にママといっしょに、りっちゃんを連れてデパートへ出かけたときだった。幼稚園の先生はその時、新婚早々らしいご主人といっしょだったが、ふとパパと視線が合うと、どちらからともなく軽い会釈を交わしたものだ。」
 「まあ。ご主人って、どんな人だった?」
 「年齢はパパよりも二つ三つ上のように見えたが、背の高い、さっそうとした感じの好男子だった。」
 「そう? わたしもそんな人と結婚して、どこかへ出かけるときに、地下鉄の中でお子さんを連れた北崎さんご夫妻に合うことになるかも知れないわね。」

 稔とりつ子の降り始めたゆるやかな坂道を、彼ら親子の笑いの二重唱が先に立ってころがって行った。ふたたびりつ子の方を眺めやった稔は、彼女の横顔になかば毅然とした優雅さを与えている、鼻からあごへかけてののびやかな直線と曲線の間で、彼女の唇が全くくったくのない笑いに楽しそうにほころびているのを見た。坂道の脇の塀の上に伸び上がっているサルスベリの花から、さらに、まだうす樺色の光を残している夕空へと目を移しながら、稔は娘の成長ぶりをあらためて深呼吸し、その成長に伴って展開され始めようとしている彼女の人間的相互作用の根底には、どのような力学的原理が働いているのだろうかというようなことを考えるのであった。

原題「夕空」、土留主東夷のペンネームに「ある6回生の夫」との注釈つきで、
栄研誌 Vol. 7, pp. 5-8(1963年、大阪女子大学栄養研究室)に掲載

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アインシュタインのことばが慰めに

 私の勤めている研究所(略称大放研)は、私が大学生時代指導を受けた木村教授(現在京大原子炉実験所長)が所長を兼任されていて、大阪府立ではあるが、国立あるいは一流大学付属の同種の研究所に劣らないほど設備は整っている。場所は大阪の南、堺市の東南部にあり、私が入ったのは設立の翌1960年で、その頃は周囲がほとんどたんぼの、のんびりした環境のところだったが、最近は団地や工場、会社などが建て込んで来て、次第に俗境に近づきつつある。

 所内には、物理、化学、農水産、医学等を、いずれも放射線を利用して研究する五つの部門があり、私は物理関係の第一部に属している。大学に入ったばかりの頃は、湯川さんのように素粒子論をやりたいと思っていたが、いわゆる湯川効果(湯川さんのノーベル賞受賞のこと)によって、この分野にはすでに多数の秀才が吸い寄せられていたということと、理論物理学は主として頭ばかりを働かせるのに反し、実験物理の方は人間のからだをより総体的に働かさなければならないという意味で、古代ギリシャ文明的調和を好む私の趣味には、後者の方が合いそうだという奇妙な理由とによって、私は実験を主とした研究の方に進むことになった。

 素粒子物理学(最近は新しい素粒子が続ぞくと発見され、陽子や中性子、中間子の仲間が300種類ほどにもなっており、素という字は省かれ、単に粒子と呼ばれつつある)は、物理学の最奥部をさらにまっすぐ、深く掘り進んで行くものであるが、私のやっている放射線物理学は、素粒子物理学がすでに開拓した地点を拠点とし、物性物理学、化学あるいは生物学との境界領域をめがけて、いわば斜めに掘り進んで行くものである。

 昨年、私が数年来取組んで来た電子の後方散乱についてまとめた論文を、アメリカ物理学会誌ザ・フィジカル・レビューに発表した。加速された高速の電子を、各種の元素の板にぶつけると、それらの入射電子の一部はある割合で、もと来た側へはね返る。その割合が、標的元素の原子番号、入射電子の運動エネルギー、はね返りの角度等によってどのように変わるかについて、大放研の主要装置の一つである線型電子加速器を使って実験し、経験的関係式を導き出すとともに、簡単な理論的考察も加えたのが、この仕事の内容である。

 電子の後方散乱については、その運動エネルギーが1 MeV(ミリオン・エレクトロン・ボルト)以下の場合に対しては、すでによく研究されていたが、その知識を数 MeV から15 MeV 近くまでの領域にもひろげることが、この研究の一つの目的であった。

 ところが、その予備実験に着手するかしたいうちに、アメリカのマサチューセッツ工科大学で1 から3 MeV の間での実験が行われ、発表された。この実験は、後方散乱の角度依存性は測定しないで、全後方散乱電子数の入射電子数に対する割合である後方散乱係数だけを測ったものであり、また、エネルギー領域についても、われわれのところでは3 MeV 以上で実験する予定だったので、先を越されたことにはならなかった。

 しかし、この研究の出現は、われわれの計画に対する競争相手が、どこか外国に現われる可能性を示唆するものであった。案の定、実験設備の整備に手間どって、ようやく予備実験を一通り終えた頃に、ドイツのビュルツブルク大学の人びとが、8から22 MeV での実験結果を報告した。彼らの研究したエネルギー領域の上端は、大放研の装置で得られるエネルギーより上であり、これはちょっとしたショックであったが、彼らも角度依存性は研究していないばかりでなく、マサチューセッツのデータとの間にはエネルギーのギャップがあり、測定方法もわれわれのと少し異っていた。重なったエネルギー領域での別の方法による追試も有意義なので、ますますせき立てられる思いで研究を進めることになった。

 ところで、予備実験の結果をビュルツブルクの人々の結果と比較してみると、彼らの8 MeV 付近の後方散乱係数は、われわれのものより少し大きい傾向にあった。われわれの結果はマサチューセッツの結果に非常にスムーズにつながっているところからビュルツブルクの結果に誤りがあるのではないかと思われた。そこで、ビュルッブルクのハーダー博士にそのことを手紙で知らせた。しばらくして、彼から、入射電子電流の監視装置の効率の補正に手落ちがあったので、その点を修正すると、われわれの結果とよく合うようになるといって、誤りの指摘を感謝して来た。

 これに勇気を得て、実験の完成を急いでいた一昨年夏のはじめのある日、研究所の図書室で新着のザ・フィジカル・レビューに目を通していると、アメリカのニュー・メキシコ州立大学のドレッセル博士という人が、0.5 MeV から10 MeV の間で、同じテーマについて角分布をも含めた実に精力的な実験結果を報告しているのを見出して、一瞬がく然とした。

 しかし、われわれの方はすでに経験式を作り上げることと、観測された角分布のおおよその傾向を簡単な計算で説明することをほぼ成し遂げていたので、これらについても全部先を越してやられてしまったということはあるまいと、気を取り直してドレッセル博士の論文をくわしく読み始めた。そうすると、彼は、後方散乱係数の従来報告されている値はすべて、自分の結果より約 3 割ほど小さいが、これは大部分共通の方法を用いている従来の実験に欠陥があったためであろうと主張していることを知った。

 これは面白いことになったものである。われわれの方法は、ドレッセル博士が欠点を指摘している方法よりも、むしろ彼のものに近いにもかかわらず、得られた結果は、高エネルギー側でも低エネルギー側でも、従来の結果とよく一致しているのである。このことは、ドレッセル博士の自信に満ちた報告にもかかわらず、彼自身の実験に欠陥のあったことを示すものではないだろうか。

 そういう見地から彼の論文の内容を一々検討して行くと、彼の誤りについて、はっきりした原因は掴めないが、原因となる可能性のあるいくつかの点が実験方法の中に見出された。それで、すでに一部分下書きを始めていた私の論文を最初から書き直して、ドレッセル博士と他の従来の人びとの結果との矛盾を解明することをも一つの目的につけ加えた形に改めてまとめることにした。

 この時から論文を投稿するまで約半年あまりの間に、実験もいくらか追加しなければならなかったが、線型加速器を私の実験に使用できる時間の割当は大体1週間に1日で、気持の急ぐわりには研究の進行が遅い時もあった。そういう時に、アインシュタインと長期間共同研究をしたことのあるインフェルトが、心配事があって仕事が進まなかった時にアインシュタインから言われたという次のようなことばがたいへん慰めになった。
 「世界は、運動の問題を解決するのに数世紀も辛ぼうづよく待ってくれたのですからね。2週間ぐらいは待ってくれますよ。」

 以上、物理学の一片隅での私の研究の一つを発表するまでの、多少ドラマチックな側面を書いてみた。最後に私の家庭のことに簡単に触れさせていただこう。家は堺の市街地のほとんど南端の165 平方米の土地の上に立っており、母と、大阪産の家内と、5歳および間もなく満3歳の2人の娘という、女性ばかりの家族の中で暮している。かつて婚約中の家内にせがまれて、私の高校時代の作品「夏空に輝く星」を見せたところ、彼女は読後、これからも小説を書くかどうかと気にしていた。その理由は、自分がモデルにされるかも知れないことを嫌っていることにあったようで、これは小説ではないが、これ以上あまり書かない方がよいかも知れない。

 先生方のご健康と、同窓生ご一同の一層のご活躍をお祈りする。

 追記:この文はさる1月に書いたものだが、その後、1月中旬にドレッセル博士から来た手紙によると、自らの実験方法に徹底的な再検討を加えた結果、誤りの原因を見出したとのことである。彼は始めに誤りを犯しはしたが、これは、神の身でない研究者にとって、完全には避けられないことであり、くい違いの原因を最後まで究明した彼の態度は、むしろ見習うベきであろう。

(1968年7月1日)

金商プレス5、6号[金商同窓会(のち金商菫台同窓会)、1968]に掲載された
「同期生の思い出と最近の私」中の第3章「身辺のこと」

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「巨大科学と物理学の未来」について

 4月号の「巨大科学と物理学の未来」1 について一言。

 広重先生のこの一文は、たいへん示唆に富むものでした。しかし、先生は巨大科学の欠陥を指摘することに力を注がれたあまり、表現に妥当性を欠くところもあったように思います。その一つは、「巨大科学は科学の内的必然性というようなものではなく、むしろ社会的な条件がもたらしたものだ」というところです。巨大科学の成立と発展の時間的空間的形態が社会的条件と密接に結びついており、内的必然性だけでは、巨大科学が実現し得ないことは、先生のお説を待つまでもないことです。しかし逆に、内的必然性のまったくないところに巨大科学が生まれるでしょうか。たとえば、物質のより深い構造を調べるには、より高エネルギーの粒子を使わなければならないということは、客観的自然の構造であり、素粒子物理学の巨大化の内的必然性ではないでしょうか。

 次に、「ジェット戦闘機の値段との比較をもちだすのは見当違いです」と述べられたことです。この表現は、公共資金に対して研究費を要求する科学者が、その資金の科学以外への支出額と自らの要求高を比較することまで責めているような印象を与えます。宇宙線グループの人びとが核物理学のなかだけしか見ないで「たった10億円」という言葉を使ったのはよくないと先生が指摘されたのと同様の意味で、科学のなかだけしか見ないで巨大科学を論じ続けることは危険であるといわなければなりません。

 終りに、巨大科学の未来について私見を述べたいと思います。現在の社会条件下で巨大科学を強く推進することには、たしかに問題があるでしょう。しかし、それは、内的必然性をもつ限り、社会条件の充足を待って、それにたずさわる研究者の主体性の問題を解決しながら発展させられるべきであり、現在の科学者の一部は、そのための火だねを保ち続けるべきではないでしょうか。2

日本物理学会誌 Vol. 27, No. 6, p. 529 (1972)「会誌について一言」欄
(題名は本ページへの掲載に当たってつけたもの。日本物理学会の許可を得て転載)

 転載に当たっての注

  1. 広重徹「巨大科学と物理学の未来」日本物理学会誌 Vol. 27, No. 4, p. 307 (1972).
  2. 関連意見と広重氏の回答文が後の号に掲載された:熊谷寛夫「基礎自然科学の将来」日本物理学会誌 Vol. 27, No. 9, p. 723 (1972)「談話室」欄;広重徹「物理学の歴史と内的必然性」日本物理学会誌 Vol. 27, No. 10, p. 792 (1972) 同欄.

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基礎研究への投資の意義

—研究所将来問題に関連して—

 さる21日に行われた当研究所の現況と将来に関する所長の説明会で、所長はそのお話の前半部分において、大阪の経済的地盤沈下を救うには、大阪に文化を振興することから手をつけなければならないことに、最近財界でも気づき初めているという意味のことを言われた。経済と文化のこの関係を、産業と基礎研究に引き直して考えてみれば、全く同様に、後者は前者を支えるために地道に発展させ続ける必要性があるということになる。したがって、現在まで当研究所は、サービス業務と応用研究の他に、基礎的研究にかなりの力を振り向けて来たが、将来も基礎研究を大いにやるべきである、と結論されるのかと思ったところ、お話の後半で、われわれの考えはどうであろうとも、最終的には「設置者」の意向に従わなければならないと言われたのは、いささか腰くだけの感じがした。

 基礎研究への投資は、ある意味で、無定限の未来への投資である。短時日のうちに大きな利得となって、はね返ってくるものではない。しかしながら、応用研究あるいは技術開発は、今日のように高度に複雑化した段階では、幅広い基礎研究の成果を土台として初めて達成されるものであり、その土台への投資は、間接的で一見いかにも遠回りのようであっても、最も着実で、しかも欠くことのできない投資といわなければならない。

 また、目をもっと遠い将来にまで向けて考えるならば、基礎科学の研究は、現在よりもはるかに多くの投資を受け、はるかに多くの人びとによって従事される分野になることが期待される。なぜならば、より進んだ将来の社会では、生産の剰余は増大し、他方、人間は単純な労働からますます解放されて、より創造的な仕事を選ばなければならなくなるからである(同様の考えはロベルト・ユンクもその著書「巨大機械」の中で述べている)。このような意味でも、現在基礎的研究に投資することは、未来の大きな道につながるのである。

 「未来への投資といった大事業は、主として国のような大きな予算を動かす単位によってまかない得るものであるが、地方自治体でも大阪府ほどの規模になれば、その予算の適正な一小部分をそのために充当することを誇りとすべきである。」

 木村前所長は、当研究所の準備期間中、府の要人たちにこのような主張をされたと聞く。将来問題を考えるに当たって、この主張を高く評価したいと私は思う。

日刊放射線 No. 1193(大阪府職員労働組合放射線中央研究所支部発行)(1972年8月28日)

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基礎研究と応用研究

 研究所の将来問題に関連して、研究は基礎と応用に区別できるかという論議が、本紙をある程度にぎわしたようだ。当支部の行った「研究所のあり方アンケート」にも、これに関係した設問があり、「研究を基礎的、応用的と判別することができるか。」「基礎でも応用でも実用とのかかわりの点では同じであるか。」という問いには、どちらもほぼ3対1の割合で、前者に No、後者に Yes の答が出ている。これは「より基礎的」あるいは「より応用的」というような判別は可能であっても、基礎と応用の間にはっきりとした一本の線を引くことは困難であり、より基礎的な研究も、より応用的な研究も、時間の差こそあれ、実用に役立つ成果を生み出して行く貢献度としては差がないという、われわれの認識を反映しているものであろう。これは、当研究所を近い将来、実用的研究を看板にかかげるものに作り変えようとする動きがもしもあるならば、それが大きな誤りであることを示す一つの材料とも言えよう。

 基礎と応用の間に判然とした一線を引き難い一例として、卑近ながら、昨日スエーデンの一研究者から私宛に来た手紙を紹介しよう。

 拝啓

 私はあなた方の電子線透過に関する数編のすぐれた論文を、大きな興味を持って勉強いたしました。あなた方が特別な応用分野を念頭においておられるのか、あるいはまた、あなた方の研究は単に基礎的な物理的関係を目指してなされたものかを知ることは、たいへん興味深いことです。同封の二編の論文は、私たちの研究所で開発されたマイクロトロン加速器の放射線治療への応用に関する予備的研究の一部を報告したものです。

敬具

王立ストックホルム工学研究所
A. ブラーメ

 私たちが論文に報告した成果自体の研究目的は、各論文の緒言に明記してあるので、ブラーメ氏が興味を持ったのは、私たちの研究の背後に流れているプリンシプルだと思われる。プリンシプルを問うことが他国の研究者にとってなぜ必要なのかと考えてみると、私たちの研究が今後どういう方向に発展し、彼自身の研究とどの程度かかわり合うかを知りたいこと、あるいは、研究展開の方法論的なものに興味があり、その一例を私たちの研究から引き出したいことなどが挙げられそうだ。しかし、ひょっとするとあちらの研究所でも、基礎研究・応用研究の論議が盛り上がっているのかなという想像もしたくなる。

 私自身は、この手紙からお分かりのように、より基礎的、より応用的の区別さえ、同業の電子物理学者にもつけかねるような境界点で仕事をしているのだが、より基礎的な方向へつねに目を注ぐという態度は研究者にとって重要であると考えている。そして、実用への還元を強調するあまり、このような態度を圧迫することは、研究の枯渇につながるものであることを、行政面の方がたに理解して欲しいと思う。単に時の行政需要にマッチさせるためでなく、広く人類の福祉を考えた上で、研究者が自主的に実用的研究に取り組むようになるのであれば、それは当然結構なことだが、その場合にも、より基礎的な段階に随時立ち返って分析するという態度を、研究者自らが捨ててはならないと思う。

原題「基礎研究・応用研究についてまた思うこと」日刊放射線 No. 1272(1972年12月5日)

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科学者の社会的責任

 本誌29 (1974) 887 (11号) に掲載された柿内賢信先生の「科学と人間社会」という一文は、科学と社会のかかわり合いについての重要な問題が、かならずしも斬新な見方でとはいえませんが、分析的に指摘されており、一部で科学に対する不信の横行している現在、示唆されるところが多いように思いました。

 しかしながら、その中の「科学者の社会的責任」と題する一章にみられる先生のお考えは、あまりにも消極的ではないかと思います。先生は「しばしば科学者はその良心にかけて科学の適用を誤らないようにすべきだといわれるが、科学によって明らかにされた事実をのべることをこえて、なんらかの価値に基づいた判断を下すとき、それは科学者であることのわくをこえて社会の一員としての意志を表明していることになる。科学者であるというだけの理由で社会の一員としての発言に特別の重みがあると考えるのは思いあがりにほかならない。」とのべていられます。もちろん、科学に関連の深い問題であっても、社会的問題についての科学者の発言に、はじめから重みが与えられるわけではありません。真の重みは、その発言の内容に対する人びとの支持あるいは歴史の流れなどによって、あとから獲得されるものです。しかし、科学の適用の問題についての科学者の判断は、多くの場合専門的知識に基づいて、一般の人びとがもっているのより深くて進んだ洞察の上に立ってなされるのであり、これを積極的にのべることは、科学者の義務でさえあるというべきでしょう。

 上に引用した文の少し前に言及されているパグウォッシュ会議などの科学者の運動も、一定の限界があることはいなめませんが、いまのべた意味で非常に意義があるのだという点が先生の文では明らかにされておらず、むしろこうした運動を否定するものであるような印象を与えます。科学の適用についての責任をすべて科学者におしつけることも誤りだと思いますが、だからといって、その問題について科学者が先頭に立って発言することまで控えるならば、われわれ科学者は大きなあやまちを犯すことになるでしょう。このような考えから、物理学会が軍との協力関係をもたないことをきめた「決議3」をみるとき、これが科学と社会の一つの関係についての物理学者の正しい判断を強く打ち出したものとして、我々が大いに誇るべきものであることにあらためて思いいたります。

日本物理学会誌 Vol. 30, No. 2, p. 155 (1975) (「会員の声」欄、原題
「柿内先生の一文を読んで」、日本物理学会の許可を得て転載)

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朝永さんのことばに感じて

私たちおとなの責任

 昨1978年は、政府、自民党の「有事立法」策定の動きが露骨になってきた年でした。「有事立法」がもしも実現すれば、憲法で保証されている「言論・表現・出版の自由」、「思想・信条の自由」、「学問・研究の自由」などの制限が強行され、戦前の暗い時代が再現する恐れがあります。

 1980年度版の小学校教科書には、戦後初めて「君が代」が「国歌」と明記されるとのことです*。この背景には、一昨年、当時の防衛庁長官が「有事」に備えての教育として必要だと、文部省に強く働きかけた事実のあったことが明らかになっています。

 一昨年の秋、日本物理学会100年記念講演の中で朝永振一郎博士は、原子爆弾についてのオッペンハイマーのことば、「物理学者たちは罪を知ってしまった」を引用し、「ケプラーが子どものような純な心で科学をやった時代は遠く過ぎ去り、現代ではもっと複雑なそして屈折した心でそれに対面しなければならない」と述べ、現代の科学者が、その社会的責任の大きさを強く自覚する必要のあることを示唆されました。

 子どもたちの耳元に軍靴の音が響いてきている現在、科学者・研究者の社会的責任ももちろん重大ですが、私たち、日本のすべての勤労するおとなたちが、次代のための責任を感じ、行動しなければならないときにたちいたっていると思います。

* 後日注記:1999年「君が代」を「国歌」とする法律が制定された。

(1979年1月)

逆説的状況からの脱却

 昨1979年のこの欄に、私は「有事立法」策動の恐ろしさ、朝永さんの日本物理学会100年記念講演のことなど書きました。その続きのような話になりますが、朝永さんは昨年7月急逝され、岩波新書として出版された「物理学とは何だろうか」(前記講演と同じ題名)の下巻が未完のままになってしまいました。しかしながら、その遺稿の構想を含んでいる「科学と文明」と題する講演速記を加え、先般下巻が出版されました。

 「科学と文明」の中で朝永さんは、核兵器製造競争など科学・技術の悪用に触れ、恐ろしければ恐ろしいほど、科学者や技術者、あるいは政治家がそれを作ってしまうという逆説的な状況が現在の社会構造の中に存在すると述べています。そして、このような逆説的な状況から人類がすみやかに脱却しなければ、たいへん危険な事態がやってくると指摘し、脱却の可能性として二つの点を挙げています。

 第1は、非日常的世界の中で普遍的法則を追究する科学としての物理学が進歩の終焉に達するか、日常的な世界に関する科学に席をゆずる時期に達すること、第2は、戦争というものがあってはならないものだということが常識になる社会情勢・社会構造が実現することで、とくに、第2の点の解決には、いますぐに手をつけなければならないと述べています。

 私たちは、それぞれができる範囲のことで、この逆説的な状況からの脱却のため、力を合わせて進みたいものです。

  日刊放射線、役員の新年あいさつ欄(1980年1月)(小文2編を合わせた本章の題名は、本サイトに掲載するに当たってつけたもの)

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