ゆっくり人の時空漫歩 2b
IDEA-ISAAC

ゆっくり人の時空漫歩
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多幡達夫
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Copyright © 1999–2003 by Tatsuo Tabata
Photo of Tabata

目 次

はじめに
幼年時代から青年時代まで
大放研時代(その1)
大放研時代(その2a)
大放研時代(その2b)

阪府大先端研時代
IDEA時代

大放研時代(その2b)


アルバカーキの思い出

(絵は片山直氏による)
 

予期しない出迎え

Airport

アルバカーキ空港

 シカゴのオヘア空港をトランズワールド機で11時45分に出発して2時間45分、時差の関係でアルバカーキに着いたのは現地時間の13時30分(79年9月4日)。空港のゲートを出ると、私を見つけて近づいて来る人がいる。サンディア研究所のロックウッド博士だった。

 飛行機の時間は知らせなかったのに、どうしてこの便だと分ったかと尋ねると、見学依頼の手紙にあった前日の滞在地から見当をつけて迎えに来たとのこと。なお、明日の予定の施設見学の許可がきょうになったので、これからホテルに荷物をおいて、すぐに研究所へ来てほしいという。出張するにあたって、予め何ヵ所も手紙で見学申込みをした中で、サンディア研究所だけは履歴欄つきの申請用紙に記入して返送するという手続きをとらされていたのである。

マラソン大会優勝者は?

Sandia mountains

サンディア山

 車中でのロックウッド博士の説明によると、この市の東方にある山やまは、夕方になると入り日を受けてスイカのようなピンク色に輝くところから、この地方の言葉でスイカを意味するサンディアという名前がつけられており、研究所の名もそれを取ったものだとのことである。また、雨期にはたいへんなスコールがあるとか、毎夏マラソン大会が行われ、インディアンズがいつも優勝するということも教えてくれた。

 その時は、インディアンズというのは人種名と思って聞いていた。しかし、その晩か翌晩、ホテルの部屋においてあったアルバカーキ案内の小冊子を見ていると、ロックウッド博士から聞いたこれらの話にみな触れたアルバカーキ在住の作家の文章が載っており、名物のマラソン大会では Jamez Indians が常勝しているとあった。それで、この「インディアンズ」は個人の名前かも知れないと思った。後日(81年12月)名大プラズマ研でサンディア研究所から来た別の研究者に会った際、この点を確かめたところ、「名前は覚えていないが、ニューヨークからやって来て参加する同じ男が連続して優勝している」と教えてくれた。

 くだんの小冊子は、部屋においたチップの見返りとして部屋係がおいてくれたものらしかったので、ありがたく持ち帰り、ロックウッド博士に礼状を書く際に、「アルバカーキについてのこれこれの説明も印象深かった」という英作文の参考にした。

サンディア研究所

Remains of old residence

プェブロ・インディアン
の住居跡

 車中から見た民家の多くは、外壁が淡褐色のコンクリート造りで、上部の稜線が手でいいかげんになでつけたような形をしているのが面白かった。建物といえば、サンディア研究所の各棟もバラック建てのような構造になっていたが、研究室の内部はじゅうたんが敷きつめられていて、空調もよく効いていた。

 ロックウッド博士から貰ったサンディア研究所放射線施設のパンフレットには、この研究所はウエスタン・エレクトリック社がエネルギー研究開発省の資金を受けて運営しており、核兵器システムの研究開発を主目的としていると書いてあった。しかし、ロックウッド博士は、「ここでは軍事研究はしていません」といっていた。たしかに、博士の研究は放射線に関する基礎的なものばかりだ。それでは、このパンフレットの文章は予算獲得のための建前なのだろうかといぶかりながらも、博士の気分を害しても悪いと思い、この点は質問しなかった。

 ここの空はたいへんよく澄んでいるとほめたたえると、ロックウッド博士は、「それでも私が来た20年前にくらべると汚れてきている」と答えた。長身、やせ型の博士は、この答から察すると、私より数歳年上のようだった。アルバカーキの夏は気温は高いが、湿度は低く、ほとんど汗が出ない。したがって、ここの研究者たちは、洋画で見る男たちのように、アンダーシャツを着ず、開襟シャツをじかに一枚着ているものかと思っていたが、ロックウッド博士は、のど近くまである丸首のアンダーシャツを開襟シャツの胸元からのぞかせた、あまりかっこうよくない姿で平然としていた。

タイガーとゼブラ

Church

スペイン人の建てた教会

 初日の施設見学に続いて、翌日の午前は、研究室内で論文の別刷りを貰ったりしながら、ロックウッド博士らの研究の詳細を聞いた。博士の英語は聞きとりやすかったが、炭素(カーボン)がカーベンと聞こえるような発音をしていた。彼らが熱量計を使って測定した電子の吸収線量分布について聞こうとしたとき、私はうっかり「カロリメーター」と日本語式のアクセントで言ってしまったが、博士はこの装置の名前を正しいアクセントでそれとなく挿入しながら、説明してくれた。

 昼近くロックウッド博士の電子線関係の研究での協力者、グレン・ミラー(別途記憶にある名前!)ジョン・ハーブリーブ両博士に紹介され、一緒にレストランへ連れて行かれた。ミラー博士は50台後半と見える年齢で、大柄な身体の持ち主。コンピュータを使った仕事をしているハーブリーブ博士は30台と思われる若手の研究者で、「オーサカではたくさん経験式を作っていますね」と、われわれの仕事を知っていてくれた。ジョンらの作った電子の物質透過のモンテカルロ・コード『タイガー』の名前の由来を尋ねると、「アクロニム(略語)ではなく、NBS のバーガー博士らの作った同様なコード『ゼブラ』よりも強力という意味でつけた」と答えてくれた。

ピアノ演奏つきレストラン

 レストランは、新しい街としては意外に古風な趣の店で、ピアノも奏でられていた。後でジョンも「昼食時にこんなに飲んだり食べたりしたのは珍しいことだ」と感激していたように、ビールとバイキング料理、それに研究に関連した話や関連しない話を十分に楽しんだ。ホテルまで送ってくれたロックウッド博士に、「施設の案内、研究の説明、すばらしい昼食、その他もろもろに感謝します」と、私としては最大級の謝辞を述べて別れた。

 サンディア研究所への途中、ニューメキシコ大学というのがあったので、急に思いついて、ホテルの部屋からその大学へ電話し、物理教室にドレッセル教授という人はいるかと聞いてみたが、そういう人はいないとの返事だった。ドレッセル教授は、われわれの実験が彼の測定値の誤りを最初に指摘することになったという因縁のある先生である。帰国後調べてみたところ、彼のいるのは、ニューメキシコ州立大学という別の大学で、アルバカーキとは異なる場所にあるのだった。

メイドは男性

Sandia mountains

サンディア山

 宿泊したホテルの部屋の一面は、天井から床までの大きなガラス窓になっていて、それがちょうど東を向いており、ロックウッド博士から聞いたサンディアの山やまのみごとな夕映えが眺められた。

 日も沈んだ後くつろいでいると、誰か部屋の扉をノックするものがある。不気味に思いながら、"Who is it?" とどなり、扉ののぞき窓から見ると、"Maid!" と答えて、若い男が立っている。部屋のテレビにアンテナを取りつけに来たという。メイドとは女性かと思っていたが、アルバカーキでは、男性でもメイドというのだろうか。

 恐る恐る中へ入れてやると、本当にアンテナを取りつけて、よく見えるようになったでしょうと言いながら出て行った。吉田さんに借りて持参した小型のアメリカ旅行案内書にシカゴ以西ではホテルのメイドにチップは必ずしもいらないとあったが、朝チップを置いたのでサービスに来たのだろうか。

×     ×     ×

 1ヵ月の海外出張中の1、2日間を取り上げてみても、いろいろな体験が思い出されてくる。仕事に関連して学んだことの内容は、本紙の性格上割愛したが、実際に施設を見たり、研究者の口から直接説明を聞いたりすることは、このような短期の訪問でも、単に活字を読んで知るのとは異なった角度と迫力で記憶の中に学習を植えつけてくれる。1年間の長期出張の有用性については言うまでもないことである。本府における海外留学の休職扱い案が撤回されることを強く望むものである。

 アルバカーキの先に訪問したイリノイ大学で会ったピーター・アクセル教授は、当時かくしゃくとした感じだったが、最近50歳台の若さで亡くなったと Physics Today 誌で読んだ。ご冥福を祈る。

 カリフォルニア大学ロスアンジェルス校のプラズマ物理センターを案内して貰う予定だった田島氏は、どうしたことか当日休暇を取っているとのことで会えなかったが、最近 Science 誌で同センターのドウソン教授と田島氏が、その年、プラズマによる粒子加速という斬新なアイディアを提唱していたことを知った。また、フェルミ・ラブを案内して貰った大沼氏が、同研究所でさる7月3日、かねて建設中の超伝導磁石利用の装置で512 GeV という世界最高エネルギーの加速に成功したとの知らせを日本の高エネルギー研に寄せていることを「高エネルギー・ニュース」で知った。——これらの一連のなつかしい名前にふれたことが、今回アルバカーキの思い出を書くひとつの動機となった。——

日刊放射線 No. 3753-3767 (1983)

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セグレ教授からの礼状

 当研究所初代所長木村毅一先生の文集「アトムのひとりごと」(発刊については、本紙 Vol. 24、No. 2 に既報)の中に、「豊臣家康」と題する一文があります。この文は、次のようなできごとをヒントに展開されています。

 アメリカから原子核物理学者某教授が夫人同伴で京大へ来られた折、核物理関係教授数名がご両人をパーティに招待しました。その席上、歴史の好きな夫人が、日本の歴史についても話され、英雄の話になったとき、「豊臣家康」に好意を持つといわれました。京大の先生方は笑うわけにもいかず、困りましたが、夫人は間もなく気づかれ、「豊臣秀吉でした」と訂正され、そこで一同大笑いしました。これを契機に、その晩餐会は、まことになごやかなものになったそうです。

 筆者が木村先生から伺ったところでは(本紙の愛読者の方がたにだけ内証でお伝えするのですが)、某教授というのは、イタリア生まれで、反陽子発見の業績によって O. チェンバレンとともに1959年度ノーベル物理学賞を受賞したエミリオ・セグレ博士(現カルフォルニア大学名誉教授1)とのことです。

 そこで筆者は、木村先生のお許しを得て、「豊臣家康」の文の英訳2と手紙をそえて、セグレ教授に「アトムのひとりごと」を一冊お送りしました。これに対して、ユーモラスで温かみのある礼状をいただきましたので、ここに和訳してご紹介します。


 1985年6月7日

 拝復

 先にあなたから4月15日付けのお手紙をいただき、最近「アトムのひとりごと」の本を拝受しました。ありがとうございました。日本文を読むについては、同僚の鈴木真彦氏に助けを願っています。私の失言(家内の失言ではなかったように思います)の話を楽しく読みました。

 木村教授かあなたのご訪米のおりには、私はパーティを開催いたしましょう。そうすれば、あなた方はその席上、アブラハム・ワシントンやジョージ・リンカーンの話をして、仕返し3をすることができるでしょう。けれども、イタリアではそうは問屋がおろさないでしょう。なぜならば、たとえば、マッチーニとガリバルディはどちらもジュゼッペですから。4

 木村教授によろしくお伝え下さい。教授は私より2、3ヵ月だけご年長でいらっしゃいます。

敬具

エミリオ・セグレ


  1. 1989年、84歳で死去。
  2. K. Kimura, "Toyotomi Ieyasu" Translated by T. Tabata
  3. セグレ教授または同夫人の失言に対して、木村先生をはじめ京大の先生方が、笑っては失礼だし、何といったものかと、一瞬苦境に立たされたことへの仕返し。
  4. 2人ともイタリアを統一した政治家で、ファースト・ネームがともにジュゼッペ。

原題:「アトムのひとりごと」ヘセグレ教授から礼状
大放研だより Vol. 26, No. 2, p. 21 (1985);一部加筆修正、矢田実氏の示唆による (2003)

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ご冗談でしょう、森永先生

 森永晴彦氏は「物理学のモチヴェイション」と題する本欄への投稿(会誌41 (1986) 852)の中で、「文部省管轄下の巨大科学研究所を防衛庁に移管すること」を提案しておられる。さらに、必要ならば「高エネルギー所→ビーム兵器研、プラズマ研→水爆研、宇宙科学研→ SDI 研」と名称変更すればよいとの案も示されている。これは、わが国の政府が防衛予算を大きく増大させてきたこと、そしてまた、SDI 研究への参加を決めたことに対する、秀れて痛烈な風刺になっている。拍手を送りたい。

 ところが、この「提案」は、H. G. ウェルズの「宇宙戦争」の迫真的なラジオドラマが、ある都市の多くの人びとに本当に火星人が来襲したのかと思わせたという古い出来事に似た、人騒がせな面も持っている。本欄は、おおむねまじめな意見を述べる場であり、森永氏の文も「提案」部分を除いては、文部省は「個人のイニシアティヴ」を生かしうる研究をもっと補助すべきだとの、まじめな主張を、まじめな調子で述べている。その中の約3分の1ものスペースに、「これは冗談である」との断りもなく「提案」が挿入されている。また、「提案」を風刺とみるとき、その対象は投稿の主題からはずれたところにある。これらすべての状況は、「提案」が風刺あるいは冗談であることを、かなり分かりにくくしている。

 私などは、次のような主旨の反論を真剣に書きかけたほどである。
 「氏の提案は、目的のために手段を選ばないものである。日本物理学会の "決議3" と合わせて考えれば、この提案は巨大科学に従事する多数の物理研究者を本会から追い出すという提案に等しい。それ以上に、物理研究者を大量に軍事研究にかり立てるという恐ろしい事態への道を開くことになる。」

 たまたま最近読んだドイツ語訳の「湯川秀樹:旅人」に「あとがき」を執筆されている森永氏が、このような「提案」を本気でされるはずはなかろうと思いをめぐらせてはじめて、これが冗談であるとの結論を私は下し得たのである。皆さんも冗談を書かれるときには、人騒がせにならないようご注意いただきたいと思う。

(1986年10月17日投稿受付)

日本物理学会誌 Vol. 41, No. 12, p. 1040 (1986) (「会員の声」欄、日本物理学会の許可を得て転載)

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科学・技術分野での「誤訳天国」

 最近、ロビン・ギル著「誤訳天国」(白水社、1987年)という本をよんだ。一冊の言語学啓蒙書の和訳にみられる、おびただしい数の誤りを主題にしてまとめあげられた300ページ近くの本である。これは極端な例であるが、小説や、人文・社会科学系の書物では、原書の書かれた国と日本との間の文化の相違から、並の訳者には理解できない点も多く、ある程度の誤訳の混入は避け難いと思われる。われわれの仕事に関連する、自然科学や技術の分野の翻訳では、どうであろうか。

 筆者は2年ほど前に、1篇の概説論文を、英語の原論文と和訳の両方で入手する機会があった。両者を比較しながら読んでみると、わずか7ページの訳文中に、誤訳や、まずい訳と思われるところが20 余カ所も見受けられた。原論文は "Establishing the Reliability of Structual Ceramics with NDE" (E. J. Kubel, Jr., Materials Engineering, Sept. 1985, p. 39) で、和訳は、「構造用セラミックスの信頼性高める非破壊検査技術の向上」(Nikkei New Materials, 1985年12月2日号, p. 64)である。「誤訳天国」を真似て、以下に誤訳のいくつかを拾ってみよう。

 まず、緒言の終わり近く、セラミックスに対する非破壊検査(NDE)の意義について、「これ(NDE)は、性能試験結果と相補して、信頼性の向上にきわめて重要な役割を果たす」とある。「性能…相補して」に対応する原文は、"based on correlation of inspection results with performance" となっている。With が correlation と対になっており、 「inspection results とperformance の相関」と読むべきことに、訳者は気づかなかったようである。その結果、「相関」の代わりに、量子力学における粒子と波動の complementarity(相補性)を思わせる「相補」などという訳語を使ったのである。この部分は、「(NDE の)試験結果と実際に使用しての性能との相関をふまえるならば」の意である。

 次に、セラミックス中の欠陥の発生源について述べたところで、「機械加工による欠陥は、研磨剤、ラッピングおよび研磨の各段階で発生する」とある。「研磨剤」という具象名詞が、「ラッピングおよび研磨」という、動作を表す抽象名詞と並んでいるのは、いかにも奇妙である。「研磨剤」は、実はgrinding(研磨)、「研磨」は polishing(つや出し)なのである。続いて、「研削された粒子の一部は表面と平行に埋め込まれる」とある。粒状のものが「平行に」とはどういうことか。原文では、 "moving them parallel with* the surface" となっている。 表面に平行に動かされて、埋め込まれるのである。

 未焼結セラミックスに対する X 線写真法について、「空隙および異物、ならびにその密度を検出する」とあるところの「密度」は、 原文では、 "densityvariation"(密度変化)なのである。このあと、空隙に対する検出能について、"is a function of variations in material thickness" (材料の厚みの変化の関数である)と書かれているところの variation の訳も、同じく脱落している。訳者は、欠陥の存在によって、その部分の密度あるいは実質的な厚みが周囲のそれと異なっているということが、 X 線写真法を可能にする基本であることをご存じなく、variation という語は余計なものと思ったらしい。

 最後に、光音響信号による欠陥検出の話で、Allison 社での研究によれば、「傷だけからの光音響信号の振幅をどう解析しても各構成要素を識別し、区別することはできない」とある。この訳では、「傷だけからの」というのが気になり、また、「各構成要素を識別し、区別する」ことが欠陥検出とどう関係するのか、不思議に思われる。原文は、 "components cannot be characterized and sorted by consideration of the photoacoustic signal amplitude from the flaw alone" となっている。 "Alone" は of 以下の全体にかかると見るのが、意味からいって自然である**。正しくは、「傷からの光音響信号の振幅だけを考慮しても、部品をチェックし、選別することはできない」となろう。

 欠陥検出に関する論文の和訳が、たくさんの欠陥を含んでいたわけである。スペースがなくて紹介できないが、筆者は他にもいろいろと誤訳の多い例に出会っている。科学・技術の分野では、訳者の語学力不足の場合は別として、専門の少しの相違が、いわば異文化のように作用し、誤訳を発生させるのであろう。情報収集のために論文等の翻訳を利用する際には、十分気をつけなければならない。

 後日注記
* "Parallel with" ではなく、"parallel to" とすべきであろう。原文の英語もかならずしもよくない。
** ただし、原文も「傷だけからの」と誤訳されても仕方のない表現になっている。筆者が訳した意味に間違いなく受け取ってもらうには、"by consideration of only the photoacoustic . . ." とでもすべきであろう。

新技術ジャーナル(大阪府立研究機関間の情報交換誌)「雑感」欄(1987年11月)

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上海と北京を訪れて

 昨秋、上海科学技術大学と北京師範大学から講義に招かれた。そのきっかけと中国滞在中の見聞について記してみたい。

訪問のきっかけ

 今回招待を受けた直接的な契機は、中国の先生方と話のできるちょっとした機会をまめにつかんでおいたことにあるといえそうだ。

 上海科技大については、3年前の春、そこの射線応用研究所(中国では放射線のことを「射線」というらしい)の Wang さんという女性研究者から手紙が来た。私たちの作った多層媒質中での電子の深度線量分布計算コードと関連論文を送ってほしいとのことだった。それらを送ったことに対する Wang さんからの礼状の中に、彼女の指導者で Radiation Physics and Chemistry 誌の編集助言者もっとめていた Feng 教授の礼状が同封されていた。

 一昨年10月、私の出張中にまた Feng 先生の手紙が届いた。それは大阪空港近くのホテルで書かかれたもので、いまこちらに滞在しているので会いたいとあった。その手紙を見ることができたのは、先生の滞在日程を2日も過ぎた日だったが、封筒の裏にあったゴム印を頼りに電話をかけること3回、ようやく東大訪問中の Feng 先生と連絡が取れ、東京で会うことができた。そのとき、一度上海へ討論にきてはとの話があり、それが実現したのである。

 北京師範大との関係の始まりも3年前のことになる。秋に東京で開かれた電子線・紫外線硬化アジア国際会議の最終日だったと思う。午前中、私の2つ前に発表をして、私の発表に対しても質問をしてくれた Chen 教授を、昼食のとき近くに見かけた。彼女らのフィルム線量計の研究には線形電子加速器を使ったとのことだったので、それがどのような加速器かなど尋ねたいと思ったが、食事中は中国からの数人の参加者たちがとりまいて話していて、近づけなかった。午後の講演がもう始まろうとする頃、講演室前のロビーでうまく捕まえて、言葉をかわすことができた。

 その後も、Chen 先生とは、大放研技報を送ったり、中国で入手できない韓国の専門誌について尋ねられ、韓国から別刷を直接とりよせて送ったりという関係が続いた。上海へ行くことが決まってから、Chen 先生に北京師範大へも寄りたいと手紙を出したところ、快く2日間招待するとの返事が来たのである。

上海科学技術大学

Prof. Feng

上海科技大射線応用研究所の前で。手前がFeng先生

 10月31日、午後1時15分に大阪空港を飛び立ち、2時間余りのスムーズな飛行で、上海空港に到着した。Feng 先生とWang さんが、大学の古びた公用車で出迎えてくれた。科技大は空港の北方、上海の市街部の北西のはずれ、嘉定県というところにあり、上海市立である。中国では市の中に県があるのだ。当日は上海に初めてできた高速道路の開通日で、その入口付近の交通渋滞をさけるため回り道をして、空港を出てから約1時間半後に大学の宿舎に到着した。大学の外来者用宿舎は、寝室に書斎、浴室、トイレが付属しており、日本の大学ではお目にかかれない立派なものだった。宿舎での食事も豊富だった。

 翌11月1日、約束通り8時半にFeng 先生が迎えにきた。午前中、まず大学の計算センターと射線応用研究所の設備を見学した。計算センターの大型計算機や、学生の演習用も含めて多数設置されているパソコンは、みな IBM 製だった。

 射線応用研究所の研究者数は50名で、そこには、いまは主に教育用に使われている500 keV のコッククロフト・ウォルトン型陽子加速器のほか、バンデグラーフ型と絶縁芯トランス型の電子加速器やイオン注入装置があった。電子線硬化や半導体素子の製法など、大学の附置研にしては、かなり実用的な研究に力を注いでいるようだった。それというのも、日本や欧米諸国にみられるような産業界の強力な開発研究体制が中国にはないので、国の産業振興のためには大学が実用にまで力を入れなければならないからであろう。

 見学のあと、Feng 先生、Wang さん、放射線物理の理論に取り組んでいるLee 教授(女性)、それに私の4人で若干の討論をした。Wang さんは日本語や英語で手紙をくれたが、会話となるとどちらもだめなようで、Lee 先生も英語は話さず、討論はもっぱら Feng 先生の通訳を通して行った。Feng 先生は Wisconsin 大の出身で、英語がたいへん上手である。週1回、理工系研究者のための英会話のレッスンも行っているそうだ。

 射線応用研究所の Ma 所長の主催で私を歓迎する昼食会が大学の近くの上海市のゲストハウスで行われた。そのあと、Feng 先生は午後の私の講義開始までの時間を利用して、孔子の寺とそれに接する庭園を案内してくれた。

 私の講義は、射線応用研究所本館の小さなセミナー室で、若手研究者を中心とした小人数の家族的な雰囲気の集まりの中で行うことができた。初日の講義では、私たちが以前、大放研の線形電子加速器で行った電子線のいろいろなパラメータの測定方法と、電子と物質の相互作用に関する研究について概説した。

 2日目の11月2日は、午前中に講義をした。電子の物質通過に関する諸量に対する経験式と、それを利用した深度線量分布のアルゴリズムについて述べた。講義のあと Wang さんが、私たちの多層媒質中の深度線量分布コードを4層にまで拡張したコードをフロッピーディスクに入れたのをくれた。その拡張の研究を中国語で記した報告書を持っていたが、それは学生が卒業研究としてまとめたものだとのことだった。

上海輻射中心と計量研究所

 2日の午後は、市街部にある上海輻射中心を訪れる予定だったが、大学の車の都合で出発がおくれ、Feng 先生の案内で、本府の出先機関である大阪経済交流事務所へ行くだけとなった。同事務所は延安東路の、名所「外灘(ワイタン)」に近い一角にそびえるモダンなビルの8階にあった。

 11月3日には、市街部にある上海計量研究所で講義をする予定だった。朝、その夜の宿所に当てられた国際飯店まで射線応用研究所講師の Shi 氏に連れて行って貰い、そこで Feng 先生と落ち合った。しかし、その予定も、計量研の都合で、前日の予定とともに翌日にずれ込むことになった。それで、午前中は Feng 先生と Shi 氏に伴われてユイユアンという庭園を観光し、午後早く国際飯店へ戻った。ひと休みしたあと人民公園を散歩し、夕方は大阪経済交流事務所の山田所長にヒルトンホテルでごちそうになった。

 11月4日の朝、Feng 先生とタクシーで計量研究所へ行き、電離輻射部門の研究室を Zhang 博士の案内で見学した。ここの規模や仕事の内容は、ちょうど電総研大阪支所の放射線部門のそれによく似ていた。Feng 先生の教え子だという Zhang 博士の物腰まで、同支所の元所長 M 教授をほうふつさせるものがあった。見学のあと、先の2つの講義を簡略化してとり混ぜた内容の講義をした。

 午後訪れた上海輻射中心は、30万キュリーのコバルト60線源を備えた照射研究施設で、日本アイソトープ協会の甲賀研究所と同じような照射室を備えていた。2年ほど前に稼働し始めたばかりだそうだが、ガンマ線照射による食品保存の研究に力を入れているのが印象的だった。たくさんの種類の果物について照射の有無による保存の具合の相違を記録した写真を見せてくれた。

北京師範大学

The Linac of BNU

北京師範大の線形電子加速器
 

 その日の夕方、北京へ飛んだ。北京空港には、Chen 先生の代わりに、先生の研究室の Lu さんが迎えに来ていた。彼女は3年前に東京都立アイソトープ研究所に留学していたとのことで、当研究所へも一度見学に来たそうだ。彼女が大学の車で送り届けてくれた北京師範大の宿舎も、寝室と書斎は別室にこそなってはいなかったが、部屋はゆったりとしており、大きな書斎机が備わっていた。

 翌11月5日の午前は、北京師範大低能核物理学研究所(「低能」は低エネルギーの意)の線形電子加速器と Chen 先生の放射線化学研究室を見学した。線形加速器は、高周波の供給に磁電管を使ったエネルギー3〜5 MeV の小型のもので、加速管は水平面に対して約30度傾けて設置されていた。先端に取りつけられたスキャンナーで、半導体素子を照射しているところだった。Chen 先生の研究室ではフィルム線量計、耐放射線性のプラスチックと接着剤などの開発研究をしていて、作成・テストした試料が説明を添えてきれいに陳列されていた。

 昼には大学の食堂の一室において、化学系主任教授の Wu 先生の主催で、Chen 先生、Lu さんも交えて、歓迎の会食にあずかった。午後2時から、上海科技大のと同じような小さなセミナー室で、上海計量研でしたのと同じ内容の講義を行った。1時間の予定だったが、始めのうち Chen 先生が中国語に通訳していたのと、英語での講義にもようやく慣れて、予定になかった詳しい説明を時どき挾んだりしたため、2時間近くかかった。

 11月6日の日曜日は、前日来の腹の不調が治らなかったので、Chen 先生の研究室の講師の Liu 氏に観光案内をして貰う予定だったのを変更し、帰りの切符の再確認のため中国民航の事務所へつれて行ってもらうだけにした。このとき Liu 氏が、拾ったタクシーの運転手に頼んでくれて、翌日の観光と翌々日早朝の空港までの移動にも同じタクシーに世話になることになった。

 Liu 氏は外国語としてはロシア語を主に学んだとのことで、彼との英語での会話はしばしば困難をともなった。しかし、渡欧を控えての準備に忙しかった Chen 先生に代わって、彼は故宮博物院や、天安門、友誼商店などを誠意のこもった温かさで案内してくれ、北京を去る日も、宿舎出発が朝5時半という早い時間だったにもかかわらず、空港まで同行して見送ってくれた。この日には、腹の調子も完全に回復し、よい思い出とともに中国をあとにした。

 ぺ一ジ数の都合で、骨ばかりの文になってしまった。今回の訪問の一般的感想の一部は別のところに記したので、興味のある方はご一読下されば幸いである。1

 渡航にあたってお世話になった上野庶務課長をはじめ、多くの方がたに厚くお礼申し上げる。

          文献

  1. 多幡達夫、堺文化会ニュース No. 74, p. 3 (1989).

大放研だより Vol. 29, No. 4, pp. 12-15 (1989)

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Chen、Feng 両教授を招いて

Profs Feng & Chen

向かって左からFeng、Chen両教授と大放研の松村所長
 

 さる4月17日、北京師範大学の Chen Wenxiu 教授が米所し、新装なった講堂で、同大学の簡単な紹介に続き、「ポリプロピレンの放射線耐性にかかわる因子」と題する講演を行った。また、同時に来所した上海科学技術大学の Feng Yong Xiang 教授が、好意により、「社会に利益をもたらす放射線プロセシング」と題する賛助講演を行った。

 放射線談話会の講演要旨を本紙で紹介することが習わしになっているが、今回は、その主講演の内容が談話会の世話をした筆者の専門分野と異なっていたので、Chen 先生に要旨の送付を頼んでおいた。しかし、最近の中国国内情勢のためか、Chen 先生からは、帰国後なんの音信も届いていない。そこで、例外的に演者たちのプロフィルを少し詳しく紹介し、談話会報告に代えることにしたい。

 昨年筆者が両先生に招かれて講演し、歓待にあずかってきたところであるが、さる4月10日から15日まで京都で開かれた日中放射線化学シンポジウムのため両先生が来日し、お返しの招待をする絶好の機会ができたのである。

 Chen 先生は、1953年に Fuzon 大学を卒業し、以後、北京師範大学化学系において研究と教育を続けている。この間、1982年から1983年までアメリカのメリーランド大学へ留学した。主な研究テーマは、化学線量計の開発と、放射線耐性を持った高分子の開発である。国際会議や IAEA の会合などのため、これまでにも4回、日本を訪問している。Feng 先生と同様に、国際的な研究協力に強い関心と熱意を持っている。同じく北京師範大学化学系の教授で無機化学が専門の夫君との間に、一男一女がある。

 Feng 先生は1953年にアメリカのウィスコンシン大学を卒業し、1958年頃、ハーブ教授の下でぺレトロン開発のリーダーとして活躍した。1959年に中国へ帰り、以後、上海科学技術大学において、放射線物理学、放射線技術の分野で活躍して来た。現在、IAEA の放射線技術とその応用に関する地域専門家会議において指導的な役割を果たすとともに、上海放射線線量測定委員会委員長、上海放射線センター顧問などを勢めている。将来に向けての主な関心はマイクロドシメトリーとのことである。夫人との間に一男がある。

 4月15日の午後、両先生を京都の宿舎へ迎えに行き、筆者の家に二晩泊まって貰った。翌日曜日にどこかへ案内しようかと思ったが、Feng 先生はシンポジウムで疲れたので家でくつろぎたいと言い、Chen 先生も翌日の講演の準備をしたいとのことだった。午後、Feng 先生は筆者の娘に少し手伝わせて、4品の中国料理を作り、もてなしてくれた。その手際のよさと、美しく味のよいてきばえに感心した。彼はビールをたいへん好み、酔いがまわると、自慢ののどでアメリカの歌をいくつも聞かせてくれた。Chen 先生はやさしい性格の持ち主で、筆者の家のネコが、よくなついた。

 両先生の応対にご協力いただいた多くの方がたに厚くお礼申し上げる。

 追記:7月始め Chen 先生から要旨が届いた。

大放研だより Vol. 30, No. 1, p. 23 (1989)

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オランダとロンドンで

はじめに

 4月23日から28日までオランダのアムステルダム近くの国際会議場で開かれた第7回放射線プロセシング国際会議に出席し、ついでにロンドン病院医療物理部で招待講演を行った。つづいて、ロンドン郊外の国立物理学研究所、ミュンヘン近郊のマックスプランク・プラズマ物理学研究所、ウィーンの国際原子力機構を訪れた。国際会議についての詳しい報告は、公費出張で同会議に参加した第4部の古田研究員に任せることにして、私費・休暇で出かけた私は、会議での自分の発表とロンドン滞在中のことを中心に、肩のこらない一文を記すことにする。

キャンセルされていたホテル

 4月20日夕刻、日本を出発し、夏時間実施で時差7時間のアムステルダム・スキポール空港に21日朝早く到着した。空港からアムステルダム中央駅まで、若緑色の繊細な葉をつけた木々が美しい郊外風景に見とれながら、クッションがよく効いている感じの列車に乗った。駅からタクシーで、予約してあったアーサーフロマー・ホテルヘ行くと、再確認がなかったのでキャンセルになっていると受付でいわれた。しかし、幸い空室があり、同じホテルに泊まれることになった。

 その日は、時差ボケの調整と、近くにあったマヘレの跳ね橋あたりへの散歩で過ごした。翌朝、再び列車に乗り、空港を通り越してさらに南に位置するライデンで下車し、国際会議場へ赴いた。

 私と伊藤琳典、津久井茂樹両氏の連名による「電子ビームプロセシングにおける深度線量分布のためのアルゴリズム」と題する発表は、アブストラクトをしめ切りよりも遅れて提出したためか、ポスターセッションにまわされた。しかし、机上に置いたプレプリント10部は、すぐに品切れとなり、プレプリント要求の記名と名刺が計30も集まるなど、ポスターであったために発表の反応がよく分かってよかった。

 私たちのアルゴリズムは、簡単な模型に基づいて、パソコンでも短時間で線量分布を計算できるようにしたものである。これとは対照的に大型計算機を必要とする仕事が、私たちのポスターの裏側で発表されていた。それは、TIGER という名の有名なモンテカルロ・コードを使って、電子の試料中での軌跡を描き出すようにしたもので、同軸型電線を照射したときの様子を美しくカラー表示していた。

イプシロン・タパタのです!

 会議のバッグの中に、「組織委員会晩さん会招待状」という券が入っていた。組織委員会が主催して、参加者全員を招くパーティと思い、そのような券は見あたらなかったという古田君を無理に誘って、25日の夕方、会場に指定された部屋へ行ったが、ひと気が少なく様子がおかしい。入口にいた会議事務局のフランケン氏に券を見せると、「あなたは組織委員ですか」と尋ねる。「ノー」と答えると、氏は私の胸の名札をみて、分かったとばかりに「イプシロン・タバタの券が、間違ってあなたに渡ったのです」という。

 イプシロンは Y のオランダ語読みで、Y・タバタとは、この会議の名誉委員長の一人、田畑米穂先生のことである。その晩さん会は、組織委員だけの集まりだったのだ。日本の人も含めて、何人かの参加者からも、私は田畑先生と間違えられた。27日の朝、食堂で田畑先生と一緒になったので、その話をすると、「いろいろご迷惑をおかけします」と丁重な返事を貰い、恐縮した。

 10年前にアメリカの NBS(最近NIST=Nationa1 Institute of Standards and Technology と改称)を訪れたときに会ったミラー博士(デンマークのリソー研究所所属、この会議のプログラム委員長)、マックロクリン博士(ラジアクロミック線量計の開発者)、セルツァー氏(電子・光子の物質通過モンテカルロ・コードETRAN の開発者のひとり)らに再会でき、また、何人もの新しい知己ができたことも大きな収穫だった。

 会議の終わった28日午後、スキポール空港地下の鉄道の駅で古田君と別れ、私はまた、アムステルダムのアーサーフロマー・ホテルヘ戻った。翌土曜日は、ベアトリクス女王の誕生日の祭りとかで、どの道にも露店がぎっしり立ち並び、大勢の人びとが行き交っていた。そうした街の様子を眺めたあと、ゴッホ国立美術館を訪れ、魂の洗濯をした。

意外にも年上のクレヴェンヘイゲン博士

 30日の日曜日、次の目的地であるロンドンヘ移動した。ロンドン病院医療物理部長のクレヴェンヘイゲン博士が、自宅へ夕食に招いてくれた。博士との交友は、博士の著書「電子線医療物理学」(アダム・ヒルガー社、1985年)を読んだ私が、自分たちの研究論文別刷とともに、「これらの重要な成果が引用されていないのは、貴書の読者たちにとって残念なことだ」との手紙を書き送ったことから始まった。

 同書に引用してある博士自身の論文の発行年が、私たちの線形電子加速器による実験結果の発表年より後だったので、私は博士のほうが自分より若いと思い込んでいた。ところが、会ってみると、どうも博士は私より数歳年長のようだ。最初の手紙はともかくとして、その後の文通で失礼にあたることがなかったならば、幸いである。

 翌5月1日は、イギリスでは休日である。午後クレヴェンヘイゲン博士に、官公庁街のホワイトホール、国会議事堂、歴代国王と女王の戴冠式が行われたウェストミンスター寺院、ネルソン像のそびえたつトラファルガー広場、バッキンガム宮殿などを車で案内して貰った。

講演はジョン・エリス講堂で

London Hospital

ロンドン病院の正面
 

 2日の朝、ホワイトチャペルにあるロンドン病院へ行った。この病院は、来年創立250周年を迎えるそうだ。まず、クレヴェンヘイゲン博士から医療物理部の研究について説明を受けた。医療用の電子線と光子線の線量測定に関連する研究のほか、超音波の出力測定法、発声時の呼気波形の記録法、コンピュータによる画像処理法など、放射線以外の分野でも活発な研究が行われていた。

 最近ここで開発された電子線用電離箱の実物も見せて貰った。この電離箱は、測定した電離電流にブラッグ・グレイの関係を適用して、線量の絶対値が求められるようになっており、較正が不用であるという長所を持っている。

 私の招待講演は、11時からアレキサンドリア棟地下のジョン・エリス講堂という、いかめしい名前のついたところで行うことになっていた。行ってみると、階段教室を少し大きく立派にしたような部屋で、聞き手もそれほど多くはなく、気楽に話をすることができた。演題は「電子線諸パラメータのモニタリングと高速電子の物質通過」で、当研究所で行った電子線関係の研究に、その後よそで行われた関連研究の話題を加えて概説した。謝礼は、クレヴェンヘイゲン博士が世話してくれた、ラッセル・スクェアの居心地のよいプレジデント・ホテル3泊分の宿泊費であった。

ハーウェルの代わりに市内観光

 5月3日には、ロンドン郊外のテディントンにある国立物理学研究所(NPL)を訪問し、線形加速器研究室のモリス博士らと、お互いの研究について話し合い、見学もさせて貰った。4日には、プレジデント・ホテルの近くのロンドン大学脇にある、ディロンズといろ大きな書店で買物をし、やはりホテルの近くにある大英博物館を見物した。

 5日にはハーウェルの原子力研究所を訪れたいと思い、その希望を2日に、オランダで知り合ったフィントレイ博士に電話で伝えておいた。博士は翌日から出張なので、秘書が私の訪問したい分野の人たちにあたってくれた。しかし、急なことで、みな都合がつかないとの返事が、4日の留守中にファックスでホテルヘ届いていた。そこで、5日にはもう1日ロンドンの観光を楽しめることになり、セント・ジェームズ公園、ナショナル・ギャラリー、ロンドン塔、タワー・ブリッジと、忙しく歩き回った。

マッケイ博士、キャノンの会長に惚れる

Dr. Mckay

マッケイ博士
 

 6日には、ロンドン郊外のゴーリングという村に、マッケイ博士を訪れた。この訪問は、私が博士の著書 "The Making of the Atomic Age"(オックスフォード大学出版局、1984)を読んで感想を書き送ったのがきっかけとなったものである。博士は、1935年から1937年までコペンハーゲンのニールス・ボーア研究所で仕事をし、11年前にハーウェルの原子力研究所を定年退官した核化学者で、1年半ほど前に夫人をなくしたとのことである。

 この日は、オーストリア首相の外事顧問をしていた友人で、オックスフォードに住んでいるグリフィス氏夫妻も招かれており、歓談のあと、博士の手作りの昼食をごちそうになった。グリフィス夫妻は食後すぐにいとまを告げ、博士は私をゴーリング近辺の広びろとして美しい田園風景の中へとドライブに連れ出してくれた。帰るとき私は、博士がサインした "The Making of the Atomic Age" の日本語版と手紙を渡され、キャノンの会長、賀来龍三郎氏に上げて欲しいと頼まれた。

 賀来氏は19歳のとき長崎で原爆に遭遇したが、原子物理学を学んでいたため、その大爆発の正体を正しく推定し、仲間と一緒に3日間避難していて生き延びることができたそうである。マッケイ博士は、この話をキャノンの現在の世界的な発展ぶりとともに伝えている記事をイギリスの雑誌で読み、彼にたいへん興味を覚えたのである。

 7日(日曜)の朝、新聞の主な記事を紹介するテレビ番組をみていると、女性キャスターが「サンデータイムズ」紙の一面トップを指差し、「ハーウェルの科学者たちがコールド・フュージョン(常温核融合)にコールド・ウォータを浴びせたことが報告されています」と述べた。さっそくロビーへ行って、その新聞を求め、その第一面をロンドンみやげのひとつに加え、ミュンヘンヘ向かった。

おわりに

 ふり返ってみると、なかなか有意義に過ごした休暇であった。しかし、私は外国の人たちに対して、機会あるごとに、私が私費・休暇で国際会議に参加したこと、それが「経済大国」日本の科学行政の貧しさを示していることを話した。行政にたずさわる方がたが、これを読んで、そうした悪い宣伝をして貰っては困ると思われるならば、そのような状況の解消に力を注いでいただきたいものである。

大放研だより Vol. 30, No. 1, pp. 20-22 (1989)

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