ゆっくり人の時空漫歩 2b
IDEA-ISAAC

ゆっくり人の時空漫歩
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多幡達夫
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Copyright © 2004 by Tatsuo Tabata
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目 次

はじめに
幼年時代から青年時代まで
大放研時代(その1)
大放研時代(その2a)

大放研時代(その2b)
阪府大先端研時代
IDEA時代

大放研時代(その2a)


南東部カナダの夏

1 おとぎの国の大学

マクマスター大

マクマスター大学の一部

 慣れない土地だから、明るいうちに着かなけれぱと思ったのがいけなかった。午後4時頃にハミルトンヘ着けるようにと交通公社に頼んだ飛行予定は、ニューヨークで約1時間の乗り継ぎ時間しかなかった。そこへ日航機が1時間延着して、予定のトロント行きカナダ航空機を逃がしてしまった。ケネディ空港の日航のカウンターには一人の日本人女性がいた。彼女はマクマスター大学へ電話して、夜遅く着いても大学の宿舎へ入れることを確かめてくれたが、私の出席するアトミック・コリジョン(原子衝突)という国際会議を、いつのまにかアトミック・ボム(原子爆弾)の会議と呼んでいた。ハミルトンヘ着いてから知ったのだが、むこうの夏は8時頃まで日が暮れない。

 キャンセル待ちでは、その日のうちに乗れる見込みが立たず、日航の世話してくれた空港近くのホテルに1泊することになった。翌朝暗いうちにホテルを出て、ラ・ガーディア空港から別路線に乗りトロントヘ行く。そこからハミルトンまでは、北海道の牧場に似た光景を車窓から眺めなから、空港バスで約2時間かかる。乗客は私のほかに1人しかいなかった。大学前を通る市内バスに乗るのに、3回ほど通行人にたずね、ようやく大学へたどり着いた。

 ハミルトンはオンタリオ州でトロントに次ぐ第2の都市で、カナダ最大の鉄製造量を誇る工業都市とのことだが、堺に住む私には、空気がとても美しく感じられた。マクマスター大学の広い構内には、樹木が多く、芝の手入れも行き届いていて、建物も古風な灰褐色のレンガ造りが多く、日本の大学とくらべると、おとぎの国の大学のようだ。黒っぽい色のリスもよく見かけた。

2 「オセロ」は喜劇か

 国祭会叢には楽しいソーシャル・ブログラムがつきものである。会議2日目の火曜夜、シーークスピアの劇「オセロ」を見に行くプログラムがあり、申し込みをしておいた。しかし、時差の関係で、夕方近くになると眠くてたまらなくなり、午後の会儀の聴講はそこそこにして、大学のカフェテリアで早い夕食をすませ、宿舎でひと眠りした。目がさめて、バスに乗りおくれたかと、はっとしたが、ちょうど出発15分前だった。私のほかに日本から会議に参加した数名の人びとは、みな観劇は敬遠したようで、ここの大学で研究中のナイジェリア出身の青年、ウスマン・アカノ君と並んでバスに坐った。劇場のあるストラトフォードというところは、シエークスピアの出生地の名をとったもので、ハミルトンから、西へ約100キロのところにある。

 道中、アカノ君に彼の研究のことをたずねたところ、目を輝かせながら、立板に水を流すようにしゃべったので、半分ほど分からず、あとはお互いの国の話などする。ライシャワー著「ザ・ジャパニーズ」を出発前に英語で少し読んできたのが、こういうときに役立つ。「アカノという名は日本人にもありそうな名だ。赤い野原を意味する」と教えてやる。彼らの国で公用語が英語であることは、ある意味ではかわいそうだが、留学生活には、日本人留学生よりことばの苦労が少なくてすむ点、うらやましい。

 劇場ストラトフォード・フェスティバルは、緑の多い公園の中にある。午後8時過ぎ、そろそろ暮れかけようとする中を、少し離れた駐車地で車から降りた男女観客が三々五々、ゆるやかな起伏のある芝生を横切って、場内へ吸い込まれて行く。舞台がほぼ円形になっているのも、日本では見慣れない。劇が始まると、むこうの観客は、面白いセリフのところでは、実にはでに笑う。初めのうち、あまりたびたび爆笑が起こるので、これが本物のシェークスピア四大悲劇の一つなのかといぶかったくらいだ。しかし、国籍がいろいろな国際会議のメンバーの多くは、笑いを誘発するような微妙なセリフがやはり分かりにくいようで、近くの座席では笑いがあまり起こらず、安心した。

 帰路、アカノ君が「どうでしたか」とお決まりの質問をしたので、「スプレンディド!」と答えた。俳優たちの演技、衣裳、劇場の雰囲気、すべてがこの形容詞の見本のようなものだった。アカノ君も同感だといった。この一流の舞台が、私たちの見たバルコニー席では、8ドル50セントと、決して高くない料金で見られる。今回の「オセロ」は6月初めから9月初めまでの3ヵ月にわたる公演となっており、火曜の夜でも満席。文化的風土の違いを感じさせる。

3 寝るまでのひと騒ぎ

 ストラトフォードから宿舎へ帰り着いたのは、午前2時頃。寝巻に着がえて、部屋のすぐ前にあったセントラル・ウォッシング・ルーム(共用のトイレと風呂のある場所)へ、このときばかりは鍵を持たないで急いで出かけた。用を足して部屋へ人ろうとして初めて、扉をうっかり閉めてしまい、自動的に施錠されたことに気づいた。宿舎の受付のあるコモンズ・ビルディングには宿直の人がいるだろうかと思ったが、宿舎の入口の扉がまた、わざわざ閉めなくても、手を離せぱ自動的に閉まって施錠されるようになっているので、外で助けを求められなかった場合、鍵がなければ建物の中へ戻ることもできなくなる。廊下にソファがあるが、朝方はかなり冷え込む(室内は夏でも夜は暖房が入っていたようだ)ので、そこで一夜を過ごすわけにも行かない。

 どこかにまだ人の起きている気配のする部屋があれば助けて貰おうと思って、うろうろ歩きまわる。すると、一階の隅の部屋から音楽が流れて来るのが耳に入った。思い切ってノックすると、隣の扉が開いて、若い女性が顔を出す。恐縮して「こちらのドアを叩いたのだが」というと、中で続いているとの返事。事情を話して、助けて貰えるかと聞くと、やって見ましょうといって、奥へ入り、大きな鍵束を持った黒人の男性が代りに出て来る。彼らは夫婦で、幸いこの建物の管理人だったようだ。しかし、各部屋の鍵はあずかっていないらしく、あれこれ差し込んで見たが合わない。部屋へ戻って、キャンパスのどこかに駐在している保安員に電話してくれ、しばらく待って、ようやくベッドに横たわることができた。

4 ナイヤガラ訪問

 翌水曜の午後は、会議のプログラムはなく、ナイヤガラの滝へのバス旅行があった。この道中では、日本からの参加者がそろって近くに陳取った。東大の藤本教授が持ち前の大きな声で「あそこに坐っているのは、オークリッジ(アメリカ)のダッツの奥さんで、もとスェーデンのAの奥さんだったが、第何回かのこの国際会議に来たとき、旦那を乗リかえたのだ。その後もこの会議にはいつも来ていて、Aに会うと、『やあ、こんにちは』などといっている。やつらはあっさりしたものだ。」というような国際的知識を披露した。

 それが聞こえたのか、ダッツ博士夫人は、顔見知りの藤本教授のそばへ席を移ってきた。知的で愛らしい顔の、小柄な女性だ。白いセーターにジーパン姿だったかと思う。藤本教授は彼女を相手に、日本の料理の話を英語で始めた。

 ナイヤガラの滝は、周辺があまりにも広大なので、最初、思ったより小さいという感じを抱いたが、豊かな量の水が高く水煙を上げて砕け落ちる様子は、やはり絶景である。曇り空だったが、ときどき日が射すと、滝の表に虹がかかるのが見られた。

5 役立つ「パス・アウェイ」

 金曜日、国際会議の参加者たちと別れ、一人で大学・研究所訪問の旅に移る。まず、ハミルトン空港からノルドエア機でオタワヘ行く。ここでの訪問先は、オタワ大学と、ナショナル・リサーチ・カウンシル(NRC)という国立の研究機関である。

 土曜の朝、オタワ大学のヴァーシニ教授がフォルクスワーゲンを運転して、ホテル・シャトー・ローリエヘ迎えに来てくれた。教授が出生地インドにいた頃の仕事と関連のある私たちの論文の別刷を、かつて彼から請求されたことがあるというだけの関係で、あつかましく手紙を出して案内を乞うておいたのだ。8月中旬だが、小雨まじりの日で涼しく、上衣を着て出かけた。教授は中肉中背、40歳台後半でまだ独身、現在は天体物理学に転向しているとのことだ。

 彼の研究室へ着いてから、最初にその研究内容について聞くと、ウスターズという単語が出てきた。ウスターズとは何かとたずねると、「太陽は、一つのウスターだ」と答える。ふたたび首をかしげると、紙に Star と書いてくれたので、「おう!あなたの発音はSの前に何か母音があるように聞こえました」といって大笑いした。彼がSの発音をするために口をとがらせるとき、その勢いで、どこからか音が出るようだ。

 彼が NRC にいた頃、日本から留学していた末包博士から朝永さんのことをよく聞かされたが、朝永さんはいまどこでどうしているかとたずねられた。朝永さんは、1カ月あまリ前に急逝されたところだった。東後勝明著「英語会話続コーヒー・ブレイク」に、「He died. (あの人は死んだ)というよりは、He passed away.(他界した)というほうが語調が柔らかくなる」とあったのを思い出して応用した。

 翌日曜の朝、パーラメント・ヒルヘカナダ守備隊の衛兵父替の儀式を見に出かけた。7、8月は毎朝10時から行われるとのことだが、いっこうに始まる気配がなく、その代わり、議事堂中央の平和の塔の入口から、人びとの長い行列ができている。列の一番後ろの青年に、何のために並んでいるのかと聞くと、ディーフェンベーカー元首相がパス・アウェイしたので、その遺体を拝むためだ」と答えてくれた。これも東後さんのおかげで理解できた。「他界される」が、こうもたて続けに役立つとは思わなかった。

6 騎馬警官との出会い

 期待していた衛兵交替がないのを残念に思いながら、参拝の市民の列の写真を何枚か撮り、近くの、大戦記念碑の立っているコンフェデレーション広場から、ピカディリー・バスと称する、2階建ての赤い観光バスで市内見物をした。

 バスは議事堂前をめぐってから、サセックス街を北へ走り、外務省、NRC、フランス大使館、首相官邸、リドー門などを通る。少し南へ引き返して、オタワ川をへだてて対岸にあるハルの町へ通じる橋を住復し、サセックス街へ戻り、造幣局、カナダ戦争博物館、さらに南進して、コンファレンス・センター、国立美術館、もっと南へ下がり、高級住宅街のあたりから、何かの球技場前を通り、西へ。そして、この政治都市の中心間近にひろがっている広大な中央実験農場へ。カナダは資源が豊かであるだけでなく、資源を大切にしようとする精神も豊かなのだと感じられる。ここで休憩したあと、ウェリントン街を東進して、出発点へ戻る。2時間の行程だ。

 バスの中でカメラを構える観光客は、1人もいなかったので、私もいっぱしの西洋人のように振舞い、写真を撮らなかった。午後、カメラをぶら下げて、ホテルから北に足を向け、バスで廻ったあちらこちらをフィルムにおさめた。アレクサンドラ橋から見た、パーラメント・ヒルに議事堂の背面が古城のようにそびえ立つ風景。ハルの町の、周辺の緑に映える新しい高層ビル群の遠景。冬は凍って盛り上がるというリドー滝。濃緑の樹木と白い館を背景に、紅の服の衛兵が2人、ぜんまい仕掛けの人形のように手を振って歩き出したリドー門。

 そのあたりで、空が暗くなってきた。急ぎ足で NRC 付近まで戻り、幅広いサセックス街の道路の両側が一点に向かって収束するように延びているところと、大きなカエデの木々に囲まれた NRC の端正な建物とを含わせて1枚の写真におさめる。絵筆をとって、ゆっくり描きたい光景だ。そこで激しい夕立の襲来。幸い、幅2メートル、奥行き1メートルぐらいの、屋根つきガラス張りのバス待合所が近くにあって、避難することができた。

 日曜の午後のジョギングを楽しんでいる男たちが、ときおり、雨にも負けず駈けて行くのが見られる。自転車に買物かごをつけ、ショート・パンツ姿で乗って来た50歳台ぐらいの女性と、やはり、目転車で来た青年の2人も同じ屋根の下で雨宿りをした。彼らは話をし始めたが、何をいっているのかよく分からない。そこへ緋色の制服を着て、それぞれ旗を持ち、黒い馬にまたがった騎馬警官の一隊が通りかかった。青年が急いで待合所からからだを乗リ出し、しゃがんだり、のび上がったりして、持ち合わせたカメラのシヤッターを押した。私も負けずに3、4枚写した。あとで思えば、この一隊はディーフェンベーカー元首相の葬儀に参列しての帰りのようだった。

 この出会いに満足して、夕立のやがて上がったサセックス街を、軽やかな足どりでホテルヘ向かった。途中、どこかの教会の白い尖塔が、ひときわ、さわやかに見えた。

7 おもちゃの兵隊

 翌日はカナダへ着いてから第2週目の月曜。市内バスがまだスト決行中らしいので、午後訪問する NRC 物理部門のエックス線・核放射線研究室のディクスン博士に電話して、誰か車で迎えに来て欲しいと頼んだ。物理部門は前日散歩したサセックス街の NRC の敷地にはなく、市の北東端のモントリオール街にあるのだ。

 そのあとホテルを出て、スパークス街モールの歩行者天国を抜け、郵便局へ行き、国際会議の予稿集などの書類の小包と、何枚かの絵はがきを発送した。そうするうちに10時過ぎとなり、パーラメント・ヒルをのぞいて見ると、人だかりがして、衛兵の交替が始まっている。きょうも喪中で、この華麗なショーは休みかと思っていたが、その予想は嬉しくもはずれた。紅の上衣に黒の帽子とズボンの生きたおもちゃの兵隊が、楽隊の太鼓に合わせて芝生の上で整然と動く。外人の丈高い人垣の間からその様子に見とれていると、童心にかえる心地がする。衛兵が門から立ち去るまで眺め、エルジン街とリドー運河沿いの道を散歩して帰った。

 午後の NRC 訪問や、翌日から20日間ほどのアメリカ旅行についても書きたかったが、あまり長くなるので、これで終りとする。ハミルトンとオタワは、昨夏の1カ月の出張中に訪れたカナダとアメリカの九つつの都市の中で、機会があればまた訪れてみたいと最も強く思う場所である。

金商プレス No. 20, pp. 39-42 (1980); 日刊放射線 No. 2982-3003 (1980)

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カナダ、アメリカ出張記

 昨年8月12日に日本を出発し、カナダのハミルトン市にあるマクマスター大学で開かれた第8回固体内原子衝突国際会議に出席、そのあと、カナダとアメリカの大学・研究機関9カ所を訪問して、30日後に帰国した。

原子衝突国際会議

 この会議は、いろいろな粒子線と固体との相互作用の研究を推進することを目的としたもので、今回は1つの講演会場での口頭発表か32件と、テーマ毎に6〜7会場にわかれてのポスター発表が170件あり、参加者数は約230名(うち日本から7名)であった。口頭発表は招待講演が中心で、最新の研究動向を把握しやすいように配慮されていた。「核融合と原子衝突」、「高密度カスケード」と題するセッションは今回始めて設けられたものだとのことである。

 ポスター発表では、核融合炉の技術的問題に関連して最近脚光を浴びているイオンと固体表面の相互作用についての報告が多く、その中でも、イオンが固体の原子をはじき出すスパタリングに関するものが28件で、最多数を占めた。短寿命放射性核を入射粒子として重イオンの後方散乱を測定する研究に興味を抱き、会場で別刷を請求しておいたところ、帰国後その別刷に同封して送られてきた論文がきっかけとなって、軽イオンの後方散乱の経験式作成に手をつけることになった。

 マクマスター大学の構内は、樹木や芝の手入れが行きとどいていて、淡褐色の古風なレンガ造りの建物が多く、滞在は快適だった。ストラトフォード・フェスティバルでの「オセロ」観劇、ナイヤガラの滝へのバス旅行などのソーシャル・ブログラムには、時差による疲れも忘れて参加した。

オタワ

 ハミルトン空港からノルドエア機でオタワヘ。かつて筆者らが電子の飛程・エネルギー関係の経験式を作るとき参考にした論文の著者でインド生まれのヴァーシニ教授の案内で、オタワ大学物理学教室を見学。教官14名の小規模な教室ながら、原子衝突(イオン加速器を所有)から天体物理学にいたるまでの意欲的な研究が行われている。教授自身は現在、天体物理学に転向し、準星の光スペクトルが宇宙の膨脹と関係する赤方変位で説明できるとする通説に疑問を投げかけ、レーザー作用説を唱えており、その野心的な仕事についても、もの静かな口調で話してくれた。

 出張第2週の月曜、ナショナル・リサーチ・カウンシル(NRC)を訪問。ここは産業の発展と国民福祉の向上から、知識の探求までを主要な任務としてかかげる国立の研究所で、オタワ市の中心近くの敷地に天体物理学、生物学などの分野の研究棟が、また、市の北東端の広大な敷地に物理学、化学、工学などの研究棟がある。筆者が訪れたのは物理学部門のX線・核放射線研究室で、半数近い技術者を含めて人員約30名、電子ライナック(エネルギー2〜50 MeV、パルス幅3ns〜3μs)、バン・デ・グラフ型陽イオン加速器(加速電圧4MV)、コバルト60線源などを備えている。

NRC

NRCのライナック測定室
左端がシャーマン博士

 シャーマン博士の案内でライナックを見学(写真参照)。博士はこのライナックで約10年間、光核反応という純正研究を続ける一方で、その研究のために開発した液体重水素ターゲット使用の光子スペクトロメータを用いて、がん治療のための制動放射線ターゲットとフィルターについて研究するなど、応用的研究も精力的に行っている。純正研究の十分な土台の上に立ってはじめて、応用的研究も大きく花開くという実例である。(α, γ)反応による原子核構造の研究をしているこの研究室の長老、ディクスン博士にあいさつし、X線とγ線の線量測定の研究をしているヘンリー博士、中性子線源の標準化の仕事をしているガイガー博士からも、それぞれの研究の話を聞いた。

 ディーフェンベーカー元首相の国葬の朝、遺体を拝もうとパーラメント・ヒルに並んだ市民の長蛇の列、その翌朝同じ場所で見た、芝生に紅の制服が映える衛兵交代の儀式、この政治都市の中心にある歩行者天国や青果市場の親しみやすい光景、それらの思い出を胸に、モントリオール経由でボストンヘ向かう。

ボストン

 ロバー氏の案内で、ボストン郊外ミドルトンの丘の上にあるマサチューセッツ工科大学(MIT)のベーツ・ライナック研究所を見学。ここのライナックはエネルキー400 MeVで、主として電子散乱による原子核構造の研究に用いられている。起る確率の小さい現象を測定するため、エネルギーのよくそろった大きな電流の電子線が取り出せるように特別の設計がされている。エネルギー倍増のための予算が79年度からつきはじめたそうである。運動量分解能0.01%の電子スペクトロメータを備えた実験室や、建設中の新実験室を見学し、デモス所長にあいさつする。所長は、ここの研究所が東北大学や電総研と深い交流・協力関係をもっていると語っていた。

 そのあと、ロバー氏にケンブリッジにあるMITのキャンパスヘ送って貰い、そこで、MIT出身で今度東北大学へ勤めることになった笹沼博士からもライナックによる実験の話を聞いた。研究費に不自由を感じたことはないとのことであった。

プリンストン

 ボストンからニューヨークのラ・ガーディア空港へ飛び、リムジンでプリンストンへ。ここでは日本の夏に近いむし暑さを感じる。プリンストン滞在10年の岡林博士の世話になり、プリンストン大学フラズマ研究所の、PDXとPLTという略称をもつ2つのプラズマ実験装置を見学。前者は特殊な形の磁場によるプラズマ閉じ込めを研究するもので、6月に運転を始めたばかり、後者は中性ビーム入射による補助加熱によって、プラズマ温度の最高記録を出した大型装置である。ここの年間予算は、人件費を含めて約5億ドルとのこと。

 見学のあと、岡林博士の車で少し離れた大学のキャンパスヘドライブし、プリンストン高級研究所と、マーサー街112のアインシュタインの住んでいた家を案内して貰った。

ワシントン

 ニューヨークで1泊後、ワシントンヘ着くと、緑が多く、頭を圧するような超高層ビルもなく、ほっとする。日曜日に市内を見物。誰もが訪れる名所もさることながら、スミソニアン・インスティチューションの自然歴史博物館がなかなか楽しめた。昨年はアインシュタインの生誕100年にあたり、これを記念する特別展示も行われていた。彫像、写真、手書きの論文原稿、手紙、彼の理論の検証に各国の研究者が用いた実験装置など、アインシュタインの学者として、また人間としての偉大さを伝える100余点の品は見ごたえがあった。

 第3週の月曜の朝、商務省前からシャトル・バスでワシントン郊外の国立標準局(NBS)へ。電子の物質透過のモンテカルロ計算で有名なバーガー博士(当日不在)の共同研究者セルツァー氏の世話になり、電子ライナック(最高エネルギー140 MeV)、バン・デ・グラフ型陽子加速器、フェベトロン、トランス型加速器など、多数の放射線発生装置を見学し、それぞれによる研究の現状を聞いた。  ここのライナックも、おもに光核反応と電子散乱による核構造の研究に使用されているが、大放研のとほぼ同じ製造年のもので、近く更新する計画があると聞いた。ほかに、放射線物理学の理論の大家で、現在、電子に対する水素の阻止能を計算中というスペンサー博士や、染料を配合したフィルムを用いて電子線の線量測定の研究をしているマクロクリン博士らとも語り合った。

オークリッジ

 ワシントンからノックスビルヘ飛び、リムジンで山の中の研究所の町オークリッジヘ。リチー博士の世話で、オークリッジ国立研究所保健物理部門、生物・放射線物理学研究室の各分野の専門家から、それぞれ世界のトップレベルを行く研究の話を聞いた。この研究室の研究内容は、液体や固体の光学的性質の測定というような基礎的なものから、パイ中間子によるがんの治療計画、高電圧電力を伝送するためのよりよい気体誘電体の開発などの応用的なものにまでおよんでいる。「ハントブーフ・デア・フィジーク」中の電子の物質透過の解説の著者バーコフ博士はここで、公害物質捕集用フィルターの働きを解明する一助として、ミクロン・サイズのピンホールによる低エネルギー電子の散乱の研究を行っていたが、「行政需要」に沿ったテーマでないと予算がとりにくくなったとこぼしていた。ホテルと研究所の往復には、阪大から留学中の福岡博士の手をわずらわせた。

シカゴ

 平原に続く平原の上を2時間半飛んで、ミシガン湖とその周辺のまち並みが見え始めると、子どものように嬉しくなる。オヘア空港から西ヘバスで約1時間走り、その先、親切なガソリンスタンドの主人に送って貰い、フェルミ国立加速器研究所(FNAL)へ。ここにはセルンと並んで世界最大を誇る400 GeVの陽子シンクロトロンがあり、物質の深奥を探る研究が行われている。案内して貰うことになっていた大沼博士の部屋へ受付けの女性に連れて行かれる途中、前所長ウイルスン博士に出会い、あいさつする光栄に浴した。

 博士が、「この研究所は国防上どう役立っているか」との、ある上院議員の質問に対し、「直接国防には関与していないが、アメリカを守るに値する国にするのに役立っている」と答えたとの挿話は、筆者が最近最も好む話のひとつであるが、とっさの出会いに、それを伝えることに思いいたらなかったのが残念。16階建ての中央研究棟の最上階からは、円周6.4 kmの主加速リングが眺め渡され、また、そこには加速管の模型や、スイッチを押すと高エネルギー物理学とFNALについてのスライドが音声入りで映写される装置があるなど、一般見学者のための便宜がよくはかられていた。

 翌日、オヘア空港からプロペラ機で約1時間南へ飛ぴ、イリノイ大学アーバナ・シャンペン校物理学教室で、超伝導ライナックを用いたマイクロトロンを見学。電子線散乱の研究の創始者であり、もうかなり年配で、ひじょうに穏厚なハンスン教授に親切な応待をして貰った。

 シカゴでの休日を、カルチュア・バスを利用しての博物館、美術館めぐりで過ごしたあと、アルバカーキヘ。

アルバカーキ

 ロックウッド博士の案内で,サンディア研究所の放射線部門を見学。サンディアというのは、この都市の東に横たわる山やまの名で、西瓜のピンク色を意味し、日没時にその山やまが西日を受けてそういう色に輝くところからつけられたのだと博士が説明してくれた。宿泊したヒルトン・インの部屋の窓から、ちょうどその光景が眺められた。

 実際の出張がそうであった以上に、かけ足の出張記となった。大放研も世界の進歩に遅れないよう、設備のいっそうの充実・更新が必要だと痛感しながら帰途についたことを付記し、出張にあたり助言をいただいた所内外の方がたに深くお礼申しあげて、終りとする。

大放研だより Vol. 21, No. 2, pp. 8-10 (1980)

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