IDEA-ISACC
いつでもどこでもファインマンさん
To English Version

写真はファインマンの切手
St. Tome & Principe, 2009
Feynman stamp  多幡達夫
 
旧トゥヴァ友の会機関紙「のるかそるか通信」Vol. 16(1996年6月)〜Vol. 21(1998年6月)に連載の記事から修正転載、最終章は未発表分を含む
新トゥヴァ友の会のウエブサイトはこちら
Copyright © 1999 by Tatsuo Tabata
 
目 次

  はじめに
書名 "Tuva or Bust" の由来
ファインマンさんとナノテクノロジー
ファインマンさんの難しい注文
科学にたずさわるものの必読文献
着荷願いのまがい科学
"Golem" とファインマンさん
科学の終末とファインマンさん
ファインマンをもってファインマンを制す
鏡像と朝永さんとファインマンさん

はじめに

 「のるかそるか通信」の毎号に必ずしも書かなくてもよいように、今回から「ときおりファインマンさん」という題にしようと思っていた。ところが、「通信」のほうが発行回数を減らす宣言をしたので、「ときおり…」が適当な題名ではなくなるような状況に追い込まれた。それに、先の「ファインマンさんと私の無関係な関係」は、とりあえずその冒頭部分を英訳して、少なくとも二人の人に読んでもらうことになった。今回のものも、そのような可能性を考えるならば、比較的直訳しやすい題名がよかろうと、表記の題名で行くことにした。

 英語版「ファインマンさんと私の無関係な関係」の題名は、"What Little I Can Talk about Feynman" という意訳にした。これは、私の愛読書の一つ "What Little I Remember" (Otto Frisch 著, Cambridge Uni-versity Press, 1979) を下敷きにしたものである。ちなみに、同書の著者は、オーストリア生まれの物理学者で、"nuclear fission"(核分裂)の術語を最初に使用したことで知られている。彼の "Little" は含蓄とウィットに富んだものであるが、私の "Little" は、いうまでもなく、文字どおりの "Little" である。

 こんどの題名は、「通信」先号の「お知らせとお願い」にあった「ファインマンのファンクラブという性格上、ファインマンに関する情報を収集、提供しなければならないのですが、肝心の本人が故人となってしまっているわけですから、そうそう新しい情報などえられない」との記述への、ささやかな抵抗でもある。私たちは、物理学や、もっと広く科学一般の本を読むとき、しばしば意外なところでファインマンさんに出会ったりする。そうした出会いから、ファインマンさんの業績とその好奇心に満ちた心に学び、私たち自身の活動に生かそうとするとき、そこに新しいファインマン情報が次々と生まれるのではないだろうか。

 などと、偉そうなことをいっても、私自身、そのような新しいファインマン情報をどれくらい提供できるか心もとない。書物で出会ったファインマンさん関連の記述と私の陳腐な感想の羅列的紹介に終わるかも知れない。しかし、ともかく書き進めてみたい。読者の皆さんから、ご感想やご批判を「トゥヴァ友の会」に寄せていただければ幸いである。

ページトップへ


1 書名 "Tuva or Bust" の由来

1.1 「のるかそるか通信」の英文表題

 「のるかそるか通信」Vol. 0 には "The Burst Press" という英文表題もついていたのを皆さん覚えておられるだろうか。私がそれを見て、「ファインマンさん最後の冒険」の原題は "Tuva or Burst" でなく、"Tuva or Bust" だということなどを書いた手紙を法貴さんに送ったところ、英文表題がとり下げられてしまう結果となり、責任を感じている。

 「通信」Vol. 1 には私の上記の手紙とともに、「小学館プログレッシブ英和辞典」からの "burst" と "bust" の項の引用が掲載された。"Bust"の項中には "Pikes Peak or bust" という熟語があり、「倒れてのちやむ、万難を排して目的を貫徹する」との訳がつけられていた。つまり、「のるかそるか」の気持ちで決行するという意味である。私は、"Tuva or Bust" はこの成句をもとにしたものだろうと思った。しかし、「のるか」に相当する部分になぜ Pikes Peak という地名がでてくるのか分からない*。

 話は少しそれるが、「通信」Vol. 14 に紹介されたインターネット上の Friends of Tuva のホームページへのアクセス方法を試みようとして、うまく行かなかったおかげで、"The Tuvan Hillbillys site"と称するページの作者 Robert M. Wade 氏(愛称 Robb)と e-mail で話し合う間柄となった。「ファインマンさんと私の無関係な関係」の冒頭の一章の英訳を送った相手の一人は彼である。

 先日ふと思いついて、Robb に Tuva or Bust" の由来をたずねてみた。彼からは、即座に e-mail の長い返事がもどってきた。その和訳を「のるかそるか通信」に掲載する許しを得たが、それを記す前に、Robb がトゥヴァとファインマンさんに関わるようになったきっかけをまず紹介しよう。

 Robb は1990年から1992年までモスクワに住み、アメリカ大使館付きの塗装家として働いていた。そこで一緒に働いていたアメリカ人の親友の一人が、モスクワへ来る前に彼の友人から "Tuva or Bust" の本をもらい、ロシアに住んでいる間にぜひそこを訪れるべきだといわれて来たという。Robbもそれを借りて読み、すぐにトゥヴァにとりつかれた。

 Robb の友人は著者の Ralph Leighton に手紙を書き、トゥヴァに住む婦人 Rada Chakir の電話番号を教えてもらった。彼女の助けで、Robb とその友人がモスクワからトゥヴァへの困難な旅程をこなしてキジルに着いたとき、幸運にも第2回国際ホーメイ・シンポジウムが進行中で、Radaが最終公演のチケットを手配してくれた。彼らは伝統的な相撲の競技や、美しい自然の光景も見物した。

 この旅行でパラダイスを見たRobbは、それからの人生が変わってしまった。アメリカへ帰ってから大学へ戻り、ロシア語で学士号をとり、"Animal Imagery in the Tuvan Shamanic Healing" のテーマで修士論文を書いた。ファインマンさんに関する興味は "Tuva or Bust" から始まったのだが、その後ファインマンさんの他の本も読み、金庫破りの話をとくに好んでいるとのことである。

    * 後日追記:コロラド州デンヴァーで開催予定の国際学会の通知が、私のところへ誤送されてきた。私にとって幸いなことに、その中に次のような説明があった。「Pikes Peak はアメリカの最高峰として知られ、世界最高地の鉄道を備える。」"Pikes Peak or bust" は、もちろん、その鉄道の敷設以前にできたことばである。—われわれは意外な情報源から学ぶことがあるものだ。—(1999年12月22日)

1.2 西部を目指す開拓者たちの合言葉

 以下は "... or bust" の由来を説明するRobb からの電子メールの和訳である。

—・—・—・—・—・—

 1996年1月22日(月)

 タツ、こんにちは。

 ". . . or bust"という句について説明するのは、願ってもないことです。ロシアの友人たちにしばしば説明したので、いまでは、説明全体をそらんじています。  単語"bust"の一つの意味は、「経済的に破滅する」ということです(Webster's New Collegiate Dictionary, 1979)。前世紀に開拓者たちが合衆国の東部から、未開の西部への移住を目指して進んだとき、彼らは馬車の上に、たとえば、"California or bust" とか "Oregon or bust" のように、"(目的地)or bust" という標語を書いて掲げました。これらの移住者のうちの多くの人びとにとっては、自分と家族たちのよりよい未来が西部にあるとの希望を頼りに、家族、友人、その他、なれ親しんだすべてのものと離れて出発することは、必死の賭けだったからです。この句は、目的地への到着に失敗すれば破滅するということを意味するだけでなく、移住者たちの気概、すなわち、差し迫る失敗のおそれにもかかわらず、未知の土地への旅を敢行するという気持ちを表わしてもいます。

 このことばは、今世紀のアメリカで1929年の大恐慌の際に、ふたたびよく使われるようになりました。オクラホマのようなアメリカ中部の州では、たくさんの貧しい農民たちが、不況のただ中に巻き込まれたばかりでなく、恐ろしい日照りにも見舞われ、多くの人びとが、飢餓におびやかされました。数千人もの農民たちが、乏しい自分たちの持ち物をとりまとめ、仕事と豊かな農地がありそうだと聞かされたカリフォルニアへと向かいました。そのとき、彼らもまた、祖先たちが以前にしたように、古い車やトラックの上に "California or bust" と書いた旗を掲げたのです。言い習わされた句が意味するように、彼らも、目的地へたどり着くか、「試みて死ぬ」かの気持ちだったのです。

 これで、このことばが、「どんな犠牲を払っても」トゥヴァへ行こうと試みたリチャード・ファインマンの性格と無関係でないことがお分かりでしょう。ただひとつ悲劇的だったことは、多くの旅行の先達と同様に、彼も最終の目的地へは到達できなかったということです。私は彼の努力は無駄になったとは思いません。なぜなら、彼はたくさんの仲間の旅行家たちにトゥヴァへの道を開いたのですから。

 タツ、たいへん長い説明になって、すみません。しかし、私は、あなたがこの説明を面白いと思うだろうと考えました(私は自分で確かに面白いと思っています)。あなたが楽しんでくれることを望みます。

Robb

—・—・—・—・—・—

 皆さんにも、Robbの説明を面白く読んでいただけたとすれば、幸いである。

ページトップへ


2 ファインマンさんとナノテクノロジー

 少し前に、Ed Regis 著 "Nano!" (Bantam, 1995)という本を読んだ。Regisは、日本ではファインマンさんものの訳者としておなじみの大貫昌子さんの訳の出ている "Who Got Einstein's Office" の著者でもある。

 "Nano!" は分子レベルで物質をあやつり、極微小な機械を作るという技術にいどむEric Drexler の思考と活躍を中心とした物語である。このような技術についてのアイデアの最初の提唱者は、なんと、量子理論物理学者ファインマンさんだったのである。

 いまをさること37年の、1959年12月29 日(大晦日も間近)のことである。カリフォルニア工科大学(カルテック)で開かれたアメリカ物理学会の年会で、ファインマンさんは "There's Plenty of Room at the Bottom" と題する講演を行った。ここで bottom とは、尺度の下の方、すなわち微小な世界を意味する。ついでに記せば、この講演の全記録は、ウェブサイトから入手できる(A4紙にプリントして、約9 ページ)。

 ファインマンさんは、この講演の終りに、普通の本の1ページ分の情報をその1/25,000の面積に書き込んで電子顕微鏡で読めるようにした人や、1/64インチ立方の電動モーターを作った人に1,000ドルの賞金を出すといって、一同を鼓舞した。これらが実現するのも間もないことだろうと予言したファインマンさんは、その予言通り、早い時期に賞金を払わなければならない羽目になった(1/64インチ・モーターが1960年、1/25,000の縮小が1985年)。これを記念して、現在10,000ドルのファインマン賞がこの分野に設けられている。

 前記のRegisの本には、マサチューセッツ工科大学(MIT)で化学を専攻しEric Drexler と結婚したChris Petersonも登場する。彼女は MIT では物理を好きになれなかった。MIT でさえ物理の先生はそれほどよくなかったからだと、彼女はいっている。ある日、彼女はカルテックの友人を訪れ、そこでファインマンさんの「物理学 X」という講義に出席した。

 「その講義は週に一度あったの。火曜の夜だったかしら。彼が学部学生のために物理の質問に答えていたわ。ともかく、わたしはそれに出て、彼が物理を説明するのを聞いたの。そして、このヒトから物理を習うことができたら、どんなによかったかって思ったわ。彼って、ほんとにステキなヒトよ。」

 ナノテクノロジー物語の中でファインマンさんの名講義を礼賛することばに出会えるとは、意外だった。思えば、ファインマンさんはナノテクノロジー概念の創始者ナノ(!)だから、無理もない。

 "Nano!"の中で、私たちはファインマンさんの息子、Carlにも出会う。1981年1月、Eric Drexler が MIT で分子レベルの装置について一連の講義をしたときのことである。そのようなアイデアについて、すでに聞いたことのある人が聴衆の中にいるかどうか質問したところ、後ろの方で手を上げた若者がいた。彼は、

 「はい、1959年の Richard Feynman の講義というのがあります。」

といった。Ericは、

 「ああ、それは私の論文でも真っ先に引用しています。」

と答え、「他に誰か」とたずねたが、それ以上の応答はなく、講義を続けた。あとで先ほどの若者と話して合ってみると、彼は Carl Feynman だった。

 話はそれるが、偉大な父の考えていたことにについて、その息子が後の世代の人に伝えたという点で類似の逸話を、John Horgan 著 "The End of Science"(Addison Wesley, Reading, 1996)で読んだ。アメリカの理論物理学者 John Wheeler は、素粒子とその相互作用などを完全に記述する物理学の最終的な「回答」を人類はいずれ見出すものと考えているが、彼の先生であった Niels Bohr はこれとは反対の考えの持主だったと、Bohr の死後その息子から聞いたという。

 Ericの講義での出会いを機会に、ファインマンさんの息子Carlは、Eric と妻のChrisが開くパーティに招かれるようになった。ある晩、Carl は父親と一緒にやってきた。Eric は、「こちら、Richard Feynman」というのは気が引けたので、単に「Richard」といって紹介したと、そのときのことを思い出して語っている。

 Eric の気が引けたのは、なぜなのだろうか。ファインマンさんを知らない人がいないにもかかわらず、ホストとして紹介しないわけにはいかなかったからかと思ったが、"Nano!"の中には続いて、その晩 Kevin Nelson という人がてっきり「ある子供の父親のRichard」と思い込んで、ファインマンさんとかなりの時間語り合っていたとの話が出てくる。Eric は意外な賓客を迎えて、扱いにとまどったということであろう。

 話はまだ続く。Nelson はファインマンさんが Eric の分子機械について、こう語ったと思い出す。

 「そいつは簡単明白なことだ。彼は何かもっと難しいことをやればいいのに。」

ページトップへ


3 ファインマンさんの難しい注文

 物理学者の中には、寺田寅彦、中谷宇吉郎など、随筆の達人が少なくない。湯川秀樹や朝永振一郎の文も味わいがあり、最近では、女性で初の日本物理学会会長を勤めている米沢富美子さんも二冊目の随筆集を出している。物理学者のハシクレである私も、達人とまでは行かないが(ただし、名前は達夫)、ファインマンさんのことなど、結構楽しんで書いている。

 これは、日本独自の現象かと思っていたが、近年は、アメリカの物理学者の中にも短い随筆を書く人たちがいる。Hans Christian von Baeyer や Alan Lightman である。どちらも理論物理学者で、Baeyer はアメリカ科学振興協会(AAAS)の科学ジャーナリズム賞を受賞している。Lightman はMITで物理学の他に作文術も教えており、"Einstein's Dream"(Pantheon, New York, 1993)、"Good Benito"(Pantheon, New York, 1994)という二つの小説も書いている。

 Baeyer の随筆集 "The Fermi Solution: Essays on Science"(Random House, New York, 1993; 172pp.)には、物理学のいろいろな側面(理論から実験、素粒子物理から物性物理にわたる)について学ばせてくれる17編の随筆が、それぞれ著者の軽妙な感想をまじえてつづられている。Lightman の"Dance for Two: Selected Essays"(Pantheon, New York, 1996; 169 pp.)には、24編の作品が収められており、内容は、情景の物理学的描写、物理学やその歴史の分かりやすい紹介、科学政策批判、SFなど、多岐にわたる。ここでは、ファインマンさんの思い出にふれた"Nothing but the truth"(真実そのもの)と題する1編について紹介したい。

 Lightman は、まず、作家や芸術家は見たものを自分たちの目的に合うように修飾して描き出すが、科学的事実も単純に把握できるものではなく、実験結果に対する適切な解釈などが必要であると述べる。したがって、そこには個人的な偏見もしばしば現われる、と話を進め、著名な物理学者 Landauが1932年に発表した「星の理論について」という3ページの論文を紹介する。

 Landau は燃え尽きた星の内向きの重力と、量子力学で予想される外向きの圧力の釣合を計算し、太陽を少し超えるくらいの重い星では、重力の方がまさって、つぶれてしまうとの結果を得た。彼は、この結果は観測されている事実に反すると考え、「量子力学の法則が破れている」と結論づけた。天文学者たちが見出していた安定に存在している重い星は、Landau の計算が適用できる燃え尽きた星ではなかったことを見落としたところに、Landau の誤りがあった。この論文はブラックホールの最初の予言のひとつでありえたのだが、あまりにも常識からかけ離れた、しかし後からみれば正しい結果に、さすがの Landau 大先生も惑わされたのである。

 Lightmanは続いて、1917年に Einstein が自分の得た重力論の方程式を、それが宇宙の膨張あるいは収縮という、当時はありえないと考えられた結果を予測するとの理由で書き換えてしまい、1929年に Edwin Hubble が宇宙の膨張を発見するに至って、大いに後悔したとの有名な話や、1969年にJoseph Weber が重力波を、1975年に Buford Price が磁気単極子という素粒子を、それぞれ検出したと発表したが、どちらもその後のより高感度の測定で確認されるに至らなかった話を述べる。そして、ファインマンさんが Cal Tech の学位授与式で、黒のガウンに身を包んだ数百人の未来の科学者たちに対して与えた訓話を結びに持ってくる。

 ファインマンさんは、私たちが科学の研究をし、結果を発表するときには、自分の結果が間違っていないかどうか、あらゆる可能な角度から考えてみるべきだと話した。Lightman はいう。

 「そのことばは、そこに集まった若者たちのいろいろな野心や信念と入りまじり、重々しい空気の中に漂った。それはたいへん難しい注文なのだ。」

 ファインマンさんの難しい注文に多少なりとも考慮が払われていたら、と思われる最近の例としては、1989年に世間をさわがせた Martin Fleischmann と Stanley Pons の「低温核融合」を挙げることができよう。

ページトップへ


4 科学にたずさわるものの必読文献

 "The Feynman Lectures on Computation" という本が発行された(Anthony J. G. Hey and Robin W. Allen ed., Addison-Wesley, Reading, MA, 1996)。これはファインマンが1983年から1986年に Cal Tech で担当した課目 "Potentialities and Limitations of Computing Machines" の講義録である。編者の前書きによれば、約10年前になされた講義にもかかわらず、その内容は時代を越えて通用するものであり、コンピュータ科学における標準的な問題のいかにもファインマン的な概説になっており、また、彼の学習と発見についての哲学を強く反映しているとのことである。

 理論物理学者のファインマンがなぜコンピュータに関する講義をしたのか不思議がる人も多いだろう(筆者もその一人であった)。しかし、編者の前書きにもあるように、ファインマンのコンピュータ計算に対する興味は、彼が学位をとったばかりの若さで、原爆開発のマンハッタン計画に参加していたときにさかのぼる。このことは、 "Surely You're Joking, Mr. Feynman!" 中の "Loss Alamos from Below(若輩の見たロス・アラモス)" の章に記されている。彼は IBM グループの責任者として、爆発の際の放出エネルギーの計算を、現在でいう並列コンピューティングの方法で取り扱っていたのである。

 この本の後書きとして、編者のひとりの Hey は "Memories of Richard Feyn-man" と題する文を書いている。同じ文は、少し手を加えて、いくつかの写真入りで、"Physics Today" 誌1996年9月号44〜49ページにも掲載された。その中で Hey はファインマンのノーベル賞受賞講演を科学者必読の文献として挙げている。筆者は不勉強にも、その講演記録をまだ読んでいないが、いずれ読んで、それが必読文献といわれるゆえんを紹介したい。

 Hey はもうひとつ、科学のあらゆる分野の学生にすすめるファインマンの文献として、"Cargo Cult Science" という文について述べている。これは、いくらか手を加えて、"Surely Your're Joking, Mr. Feynman!" の最後に載せられている。その原型は、1974年に Cal Tech の大学院生入学式でなされた訓話だそうだ。

ページトップへ


5 着荷願いのまがい科学

 "Surely ..." の訳者の大貫さんは、"Cargo Cult Science" をどう訳しているだろうかと、先日本屋で立ち調べをしたところ、そのまま片仮名書きにしてあった。ただし、初出個所では括弧内に「積み荷信仰式科学」との訳がつけられていた。私は「着荷願いのまがい科学」と訳したい。(Cargo と Cult が頭韻をふんでいるところを、「願い」と「まがい」の脚韻にして訳したところが、われながら名訳と思う。とくに頭をひねることもなくできた訳語であるが。)

 「着荷願いのまがい科学」ということばの由来はこうである。戦争中、軍用機が中継基地として利用していた南洋の島の話である。島の人びとは飛行機が持ってくるたくさんの品じなの恩恵に浴していた。戦争終了後も同じ恩恵を期待した彼らは、滑走路、その両側に沿って並ぶ明り、木造の小屋、その中に座るヘッドフォンを真似た木片とアンテナに似せた竹の棒を頭につけた男(管制官のつもり)など、粗末ながらもそっくりな環境を作り、来る由もない飛行機の到来を待った。形はそっくりでも、本質的なものが欠けていれば、役にたたない。これをファインマンは「着荷願いのまがい科学」と呼んだ。

 「着荷願いのまがい科学」に欠けているものは、一種の科学的 integrity であるとファインマンはいう。Integrityをどう訳せばよいかと思っていた矢先、求人情報誌の吊広告がこの英単語を使っているのを通勤電車の中で見た。この単語が、これからの技術者に求められる資質を論じた記事の題名に入っていたのである。そこには「一貫性」と訳がつけられていた。この記事の執筆者は、これと併せてもう一つ求められる資質として、"double career" を挙げている。Integrity を「一貫性」と訳すならば、これは double career と矛盾するようにも思われる。

 それはともかく、ファインマンは integrity の具体例として、実験結果を発表するに当たって、自分の解釈に疑いを投げかけるような微細な点のあることを知っているならば、そのことにも触れるべきであることを挙げている。このことからすれば、ファインマンのいうintegrity は、「正直さ」と訳せるのではないだろうか。大貫さんの訳では、似たような意味ではあるが、「良心(潔癖さ)」となっている。

 南洋の島の人たちの作った仕掛けには、科学的「正直さ」が欠けていたというと、多少奇妙な表現になるが、その仕掛けは、われわれの目から見れば、まがいものであり、彼らは科学的無知ゆえに、無自覚裏に自らをだましていた、つまり科学的「正直さ」が欠けていたといえるであろう。

 科学者は意識的にも無意識的にも正直であることが必要である。意識的正直さは、部分的には道徳の問題でもあろう。無意識的正直さは、専門知識の十分な習得によってのみ達成される。

ページトップへ


6 "Golem" とファインマンさん

 ファインマンが「着荷願いのまがい科学」で科学者の卵たちに求めている integrity は、先に「ファインマンさんの難しい注文」として紹介したことと共通している。これらの二つの話にあい通ずるファインマンの助言なるものが、Harry Collins と Trevor Pinch 共著の "The Golem: What Everyone Should Know about Science" (Cambridge Univ. Press, Cambridge, 1993) という本に紹介されている。

 この本の題名にある golem とは、ユダヤ神話に登場する生きもので、人に似せて粘土と水から人間が作ったものである。その生きものは力が強く、また、日毎にその力を少しずつ増していき、人間の命令に従い、人間に代わって仕事をし、人間を敵から守ってくれる。しかし、それは不器用で危険であり、いったん手に負えなくなれば、主人をも打ち殺してしまう。

 著者たちは、科学を golem にたとえながら、科学実験の結果が必ずしも明快な解釈を許すものばかりではなく、相異なる主張が、すぐれた理論や判断をよりどころにして、淘汰されていくことにより、初めて解釈が確立される場合が多いことを、実例によって説明する。取り上げられている実例は、相対論の確認実験、常温核融合から、トカゲの生殖行為の研究にもおよぶ。それらの話のうち、ファインマンのことばが出てくるのは、太陽からのニュートリノの欠損に関する最終章である。

 太陽エネルギーの源である核融合反応の結果、ニュートリノという素粒子が発生して、地球にふりそそいでいる。この粒子は電荷を持たず、質量もない(ごくわずかの質量があるかも知れないとの説もある)ので、物質との相互作用をすることがきわめて少ない。したがって、検出がひじょうに困難である。

 アメリカのブルックヘブン国立研究所の Ray Davis のグループは、20年におよぶ努力を重ねた末、1967年に太陽から地球へとどくニュートリノの量についての最初の測定結果を得た。しかし、それは、当時カルテックのポスドク(博士研究員)だった John Bahcall らの理論家が予想した値よりも、かなり小さかった。

 バコールは、当初実験計画に協力していたこともあって、入力データを新しいものに置き換えるなどして、理論値をできる限り修正し、理論が実験と矛盾していないとの立場をとろうとした。その頃、彼はファインマンから、「理論値が実験値とずれているからといって、君が何も悪いことをしたってわけじゃないんだ。もし、両者の間に違いがありゃ、その方が問題をもっと重要にするってもんだ。」との助言を得、それに大いに影響されたようだと、"The Golem" の著者たちは記している。

 それ以後、バコールは太陽ニュートリノ問題の重要さを主張し続けることになった。そして、実験とのくい違いゆえに彼の仕事が過少評価されることもなく、むしろ彼は、いくつかの賞も得、現在プリンストン高等研究所の天文学・天体物理学教授という輝かしい地位を得るにいたっている。ファインマンの助言のよさがうかがえるエピソードである。

 太陽ニュートリノに対する実験と理論のくい違いは、その後行われたより感度のよい実験によっても、まだ解決されていない。なお、"The Golem" の和訳は「七つの科学事件ファイル—科学論争の顛末—」(福岡伸一訳、科学同人、京都)の題で出ている。

ページトップへ


7 科学の終末とファインマンさん

 John Horgan の "The End of Science" という本については、「ファインマンさんとナノテクノロジー」の話でふれたが、同書の要約版のような文がアメリカ物理学会発行の "APS News" Vol. 5, No. 11 (1996) の "Back Page" 欄に載っていた。この欄には、毎号、物理学の社会とのかかわり等についての議論を喚起するための小論文が掲載される。ホーガンは、その主張の一つの支えとして、ファインマンのことばを引用しているので、ここにその要約をさらに要約し、紹介したい。

 ホーガンの文の題名は「科学は自らの成功の犠牲となるか」である。彼はまず、基礎的研究への投資の増大を困難にしているいろいろな情況や、科学が進歩するにつれて見出してきたそれ自身のさまざまな限界について述べる。しかし、科学の将来にとっての最も大きな脅威は、過去の成功である、と彼は主張する。そして、応用科学は別として、宇宙とその中におけるわれわれの位置づけを理解したいという人類の基本的な欲求としての純粋科学においては、もはや、大きな啓示あるいは改革はなく、小刻みな収穫があるのみであろう、と予想する。それは、Thomas Kuhn がいうところの、先駆者たちの仕事に磨きをかけるだけ、既存の大きなパラダイムの中でささいな繕いをするだけといった研究になる。

 一部には野心的な科学者がいて、ダーウインの進化論や、量子力学のような、知識の革命を目指すであろう。しかし、そのための手段としては、推論的、非経験的な方法しか残されていない状況になる、とホーガンはみる。そして、彼はそのような科学を "ironic science"(皮相科学)と呼び、これは、うまく行けば興味深く、一層の議論を誘起するものとなるが、真実へと収束するものではない、と説く。

 皮相科学の例として、ホーガンは物理学の統一理論の有力な候補である超弦理論を挙げる。この理論は、宇宙のすべての物質とエネルギー、それに空間や時間でさえも10あるいはそれ以上の次元の超空間で振動している極微のひも状の粒子から成っていると仮定する。不幸にして、超弦の世界を探るには、円周が1000光年もある加速器が必要で、人間の実験対象にはなり得ない。このため、ノーベル賞物理学者の Sheldon Glashow は超弦理論家たちを「中世の神学者たち」になぞらえる発言をしている(S. Glashow and P. Ginsparg, Phys. Today, 1986, p. 7)。

 ホーガンは続いて、科学の限りない可能性を主張する楽観主義者たちへの反論を展開し、ファインマンの次のことばを引用する。

 「われわれの時代は、自然の基本的な法則を発見しつつある時代であり、このような日は二度と来ないであろう。」

 このことばは "The Character of Physical Law" (BBC, London, 1965; MIT Press, Cambridge, Ma, 1967) からの引用である。ホーガンは次のように結論する。現代科学は解答不可能な問題のみを残す運命になりつつあり、それらの問題が超弦理論その他の皮相科学を生み出している。皮相科学は文学や芸術や哲学と同様、宇宙の神秘の前にわれわれが驚異を感じるのを助けてはくれるが、真実を与えてはくれない、と。

 これに対して投稿された4通の反論と、それらに対するホーガンの回答がその後APS News に掲載された(Vol. 6, Nos. 3 and 4, 1997)。そこでも、われわれはファインマンの別のことばに出会う。

ページトップへ


8 ファインマンをもってファインマンを制す

 ホーガンの科学終末論に対して反論を投稿した一人、ミシガン大学の Gordon Kane["The Particle Garden" (Addison-Wesley, Reading, Ma, 1995) の著者]は、超弦理論がテスト不可能というのは作り話にすぎないと述べ、理論が間接的に検証されてきた例を列挙している。さらに彼は、Physics Today 誌 1997年2月号にも、そのような例を示した論文を発表している。

 もっと面白いのはサンディエゴの F. R. Tangherlini の反論である。彼はホーガンが引用したファインマンのことばを信用すべきではないと主張するために、ファインマン自身の別のことばを引用する。そのことばは "Surely You're Joking Mr. Feynman!" の中の "The 7 Percent Solution" にある「それ以来、私は『専門家』のいうことには耳を傾けない。私はすべて自分で計算する。」というものである。タンゲリーニはいう。ホーガンの引用したことばは、ファインマンが「専門家」として語ったものであり、私の引用したことばは、ファインマンが最もすぐれた現役科学者の一人として語ったものである。したがって、世の現役科学者たちは、先の引用を無視し、後の引用を信奉することを旨とすべきであり、ホーガンのいうことには、なおさら耳を貸すべきではない、と。

 私もホーガンの著書は、多くの著名な科学者とのインタビューの記録としては面白く読んだが、彼の主張するところは、受け入れがたいと思った一人である。日本物理学会誌の1997年9月号にもホーガンの著書の批評が掲載されていたが、評者の長谷川晃氏は、この本は「私が最近読んだ中で最も退屈で内容のない」ものであると、手厳しい態度である。

 4通の反論に対してホーガンが与えた回答は、一見、論点が十分かみ合っていないように思われる。ただし、タンゲリーニには直接反論せず、「先に私の引用したグラショウは『論理と無矛盾性は実験データの代用にはならない』ともいっているが、これも『専門家』の意見だから、無視してよかろう」と受け流しているのは興味深い。上記の無視は、理論の検証に実験データが不要との主張につながるが、ホーガンの説に反論した人たちは、だれもそういう主張はしていない。タンゲリーニ自身の論旨を逆手にとり、自らは主張していない主張に彼を陥らせる高等戦術と見える。このように鋭く、またユーモラスなやりとりは、わが国の学会誌などでは、残念ながら、ごくまれにしかみられないものである。

ページトップへ


9 鏡像と朝永さんとファインマンさん

9.1 鏡像ではなぜ左右が逆に

 私のファインマン随筆の先のシリーズは、裏返しの写真、つまり鏡映状態の写真の話で始まった。これに関連して、法貴さんが私への礼状に、ガードナーの「自然界における左と右」について述べていたことも記した。今回の一章は、その時点ですぐにも書くつもりだったテーマにようやく取り組むことにしたものである。

 朝永振一郎の随筆集「鏡のなかの世界」(みすず書房、東京、1965)の中に、この書名と同題名の短文がある。その文では、鏡像において右と左が逆になることについての説明を求めて、かつて理研の研究室仲間が議論したことが紹介されている。ファインマンも同じ問題について語っているのだが、それについては、もっと後で触れたい。

 私は、朝永さんの話の中に「心理空間」ということばが出てくることや、そもそも物理学者たちがこの問題について不思議を感ずること自体を奇異に思った。文末近くに「何かもっと一刀両断、ずばりとした説明があるのか、数学セミナーの読者諸兄に教えていただきたい。」(この文は最初、1963年に「数学セミナー」誌に掲載された)とあったので、私は自分なりの説明方法を朝永さん宛の手紙文にまとめ、みすず書房へ送った。

 朝永さんからの直接の返事はあまり期待していなかった。その証拠には、「もしも他の読者からもっと明快な説明が寄せられていましたら、先生がいつかまた、どこかの小うるさい雑誌社から原稿を依頼された折にでも紹介なさることによって、お教えいただければ幸いです。」と末尾に書いた。とはいっても、みすず書房の出している宣伝用の小冊子にでも紹介されれば、とも思っていた。しかし、残念ながら、それもなかった。朝永さんは1979年7月に亡くなられた。

 それから6年近く経ったある日(1985年3月12日)朝日新聞夕刊の「こちら科学部」という科学質問欄に、この問題について一読者から質問が寄せられたことが紹介され、編集委員は「鏡のなかの世界」と「自然界における左と右」に触れたあと、「どなたか明快に解説していただけませんか。」と結んでいた。私は朝永さん宛の手紙と同様の趣旨を、もう少し簡潔にまとめて投稿した。

 同年4月16日付け夕刊に、かなりのスペースをさいて、読者からの反響の一部が紹介された。便りは全部で186通あったとのことである。私の説明はそこでも紹介されなかった。しかし、編集部から「まことに恐縮ながら、紙面スペースの関係で同封のような記事になりましたが、お便りは十分参考にさせていただきました。」との丁重な礼状と、記事掲載の夕刊一部が送られて来た。

 紹介された中で私の答に近いものは、多摩市の主婦・橋詰節子さんが20年前に滝沢精二著「代数学と幾何学」で出合って目からウロコが落ちるような気持ちがしたという記述で、次のように引用されていた。

 「鏡に映すと、前後が変わる。われわれの日常用語では、前後を指定して初めて左右が定義されるので、前後を逆にすれば、左右は逆になるとみなされる。これに対して上下の定義は前後の指定に関係しない。」

 この原稿をここまで書いて、私はこの引用は多少簡略化されていないだろうかと思いながら、上記の著者と書名をもう一度よく見直した。たいへんうかつだった。滝沢精二先生は私の大学1年のときの先生の一人だったのだ!早速、丸善のオンライン・ブックショップでこの書を見つけ、発注した。

 先の引用文は、「1次変換」の章中の「ベクトル空間の向き」という節の一つの問題に対する答として、巻末にのっている。その問題は「鉛直に立てられた鏡に向かうと、左右が逆になって写ることはよく知られている。では、なぜ上下が逆にならないか。」というものである。滝沢先生の教科書の中では、ほとんどすべての問題が、数式を使って答を出すようなものなのに、これだけが異色の問題である。滝沢先生のユーモア心の発露であろうか。

 ただし、私はこの問題と答(朝日新聞の上記の引用はほとんど忠実である)には若干異議がある。この問いには、上下が逆にならないというのと同じ意味では、左右も逆になってはいない、と答えることもでき、また、鏡像自体の左右が逆になるのは、鉛直に立てられた鏡に向かうときにはかぎらない。鏡を頭上にかざしたり、足下においたりしても、常に実物のあなたの右手は、鏡像のあなたの左手になっている。そして、「左右が逆になって写ることはよく知られている」といっても、その理由は、むしろ知られていないのである。

 さらに、解答では自明のこととして省略されたのかも知れないが、左右の定義には、前後だけでなく、上下の指定も不可欠であり、このことは重要である。たとえば、鉛直方向にかざした円盤においては、前面と後面が色で区別がつくようになっていても、それ固有の上下がないため、あなた、あるいは他の誰かから見てのではなく、それ自体の左右というものを決めることはできない。左右は、第三の向きとして、3次元的に定義され、その定義が、ある対象物に適用できるかどうかは、そのものの対称性にも関係しているのである。

9.2 心理が関係するのか

 朝永さんは「鏡のなかの世界」において、理研の研究室仲間との議論では、心理空間に上下と前後の絶対性があるらしいことが分かってきたと書いている。もう少し議論を進めれていれば、朝永さんとその同僚たちは、心理空間と呼んでいるものが実は心理とは関係なく、ものに固有の座標系を指しており、上下と前後の絶対性とは、左右に比べての定義の先行性であることに気づいたであろう。

 朝永さんは「右と左とが逆になっているとか、…(略)…そういう判断は、鏡のうしろに実さいにまわって立った自分の姿を想定して、それとの比較の上での話であろう。…(略)…しかし、どうもおく歯に物がはさまったような感じである。」と記している。

 私のファインマン随筆の先のシリーズ「ファインマンさんと私の無関係な関係」中で、朝永さんとファインマンさんの類似点にふれたことがあるが、ファインマンさんも鏡像の左右逆転について、心理をもち出しての、朝永さんと類似の(私の見解では間違いということになる)説明をしているのが面白い。

 ファインマンさんのその説明は、彼がマサチューセッツ工科大学の学生時代に考えたもので、Gleick が "Genius" の中で、「明快さの典型」として、次のように紹介している。

 「実さいには前後が逆転しているが、われわれ自身が前後に押しつぶされた様子は考えにくいので、あたかも自分が鏡の向こうへまわって向きをかえたかのように、左右を入れかえた自分を想像する。左右の入れかえは、この心理的な回転にある。」

 Gregory は "Mirrors in Mind" という著書の中で、このくだりを引用し、この説明は一向に明快ではないと述べている。彼は心理学者であるが、鏡像の左右逆転に心理は関係しないとの見方をしている。  これに反し、同じ心理学者の高野陽太郎さんは、その著書「鏡の中のミステリー」で、心理的要因を含む「多重プロセス理論」という、かなり込み入った考え方で左右逆転の謎が解けたとしている。同書は、この随筆の前号掲載分を書き終えた一昨年に出版されたが、その理論は昨1998年、"Psychonomic Bulletin & Reviews" (PB & R) という心理学の専門誌に論文として掲載された。

 私は「鏡の中のミステリー」についての簡単な感想を高野さんに書き送り、その論文の別刷りを貰った。その際、高野さんは、東大名誉教授の小亀淳さんという方が、同論文に対する反論を岩波書店の出している雑誌「科学」に投稿されたが、同誌は依頼論文ばかりを掲載する編集方針なので、採用にはならない見通しだと教えて下さった。

 小亀さんは私の出身研究室の先輩なので、早速電話してみたところ、原稿のコピーを送って下さった。鏡像の問題についての小亀さんの説明は私が考えているところと少し異なっていた。私は小亀さんと何回か手紙で議論をしたのち、ついに PB & R 誌に投稿することになった。

 鏡像で左右が逆になることに対する私の説明は、次のようになる。空間には三つの互いに垂直な向き(たとえば、上下・前後・左右、あるいは、上下・東西・南北)があるが、現実世界を鏡に写すと、鏡面に垂直な方向の向き一つだけが逆になる。三つの向きのうちの一つだけが逆になることは、反転と呼ばれ、その性質は数学者・物理学者にはよく知られている。その反転の影響が鏡像の左右逆転として現れるのである。

 一つの向きの逆転が、上下・前後・左右の3方向のうちの左右に押しつけられる理由は、滝沢先生の解答にあった、定義の順序にある。人体の場合、上下と前後はまずその明らかな特徴によって判断するので、鏡像の方でも実物と同じように決まってしまう。それらを基準に、実物に対してと同じ左右の決め方をあなたの鏡像に当てはめれば(空間反転したものに、空間反転していない決め方を適用)、腕時計をしているあなたの左手が、鏡像のあなたにおいては右手にならざるを得ない。

 このようにして、人体でなくても、それ自体の上下・前後がその形態からきまるもの(3次元的実体)においては、鏡像ではその左右が逆になるのである。紙などに書かれた文字は、一見2次元的実体であるが、紙に裏表があることから、実は3次元的実体の仲間である(時計の文字盤の逆転)。

 ここで反転の説明を少ししておこう。右手の親指、人さし指、中指を互いに直角方向に向くように伸ばした状態を作ってみよう。このとき親指を人さし指に重ねる方向へ回転すると、中指は普通のねじ(右ねじ)が進む向きをさしている(この指の配置は、数学あるいは物理学で右手直交系とよばれる座標系に相当する)。空間反転は、この状態で一本の指だけ、無理に逆に向けることに相当する。実験して指を折らないように!

 この、一本の指を逆にした状態を右手自体で作ることはできないが、左手で先に述べたと同様に3本の指を互いに直角方向に向くように伸ばせば、そのときの3本の指の関係は、右手でできなかった状態に自然になっている。親指を人さし指に重ねる方向へ回転すると、中指は逆ねじ(左ねじ)が進む向き(右ねじが抜けてくる向きといってもよい)をさしている(左手直交系)。

 つまり、鏡映が起こす反転は、現実空間の中では回転等の操作で決して実現できない、右手を左手に変え、また、右利き用のグラブを左利き用のものに変える手品なのであり、そのタネは、三つの向きのうちの一つだけが逆になるという、光の反射則に由来する立体幾何学的原因にある。

 光学的に逆になるのが、直接的には、鏡面に垂直な方向の向きである(このことは高野氏も認めている)にもかかわらず、これが空間反転という現実空間内では起こりえない変換を鏡像にもたらすところに、この問題の分かりにくさがあるのではないだろうか。

*   *    *

 私がもと同僚を共著者に引っ張り込んで、高野さんの論文に対する反論を PB & R 誌に投稿した話も書くつもりだったが、「のるかそるか通信」が廃刊となったので、その件は別の文にまとめて私のウエブサイトでご覧いただくことにし(注)、「いつでもどこでもファインマンさん」は以上で終りとしたい。また、第4章でお約束したファインマンのノーベル賞受賞講演の紹介もウエブサイトの別のページにゆずりたい。

(注)『「鏡の中の左利き」へのコメント』参照

(完)


ページトップ |  ホーム |  Home (English) |  ファインマンさんと私の無関係な関係

inserted by FC2 system