IDEA-ISAAC
ファインマンさんと私の無関係な関係
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写真はファインマンの切手
USA, 2005
Feynman stamp  多幡達夫
 
旧トゥヴァ友の会機関紙「のるかそるか通信」Vol. 3(1994年6月)〜Vol. 15(1995年12月)に連載の記事から修正転載
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Copyright © 1997 by Tatsuo Tabata
 
目 次

おかしな写真
なかがき
ファインマンさんと「自然界における左と右」
似たもの3人
ただ面白いから
再び湯川さんを媒介に
その他の無関係な関係
  付 記

1 おかしな写真

湯川さんを媒介に

 ファインマンさんの写っている写真で、かつて私がかすかな関係を持ち、最近また同様な関係を持つ機会がありながら、それを怠っているものがある。James Gleick 著 "Genius: The Life and Science of Reichard Feynman" (Pantheon Books, New York, 1992) に掲載されている写真の一つだ(写真略)。「ファインマンと湯川秀樹、1956年京都で」との説明がついている。この写真はどこかおかしい。Gleickの著書で、すでにお気づきの方もあるかも知れない。そうでない方は、しばらく写真とにらめっこしていただきたい。

 お分かりになっただろうか。裏返しにプリントされているのだ。向かって右の背景にある立看板の文字で、そうと分かる。

 実は、私はこのことを Gleick の著書が出るちょうど10年も前に「発見」していた。私に千里眼的能力があるからではない。American Institute of Physics の出している雑誌 Physics Today の1982年4月号に、同じ写真がやはり裏返って載っていたからだ。

 この写真を使った論文は Laurie M. Brown と Lillian Hoddeson の書いた "The Birth of Elementary-Particle Physics" と題するものだ。そこでの写真説明には、「湯川秀樹とリチャード・ファインマン」となっている。両者が素粒子物理学上果たした重要な役割の、歴史的順序にしたがっているのだ。続いて「ファインマンが1954年夏に京都を訪問した際。左から、湯川夫人、早川幸男、ファインマン、湯川、不詳、小林稔(早川幸男提供)」との説明がある(この文を書きながら、私はまた発見をしてしまった。 Gleick の本とこの記事とでは撮影の年が違っており、あとで述べる別の文献では、さらに別の年が書いてある!)。

 1954年といえば、私が大学に入った年だ。翌々年、この写真の小林さんから力学を、湯川さんから量子力学を習った。Physics Today 誌にこの写真が載ったとき、すでにそれから28年たっている。私は、たいへん懐かしい思いで、写真をしげしげと眺めた。そして、「発見」にいたったという次第である。

 当時、私のファインマンさんに対する思い入れは、その後 "Surely You're Joking, Mr. Feynman!" などの本を読んでからほど、深くはなかった。それで、 私がファインマンさんにも関係のあるこの発見をしたのは、核力の媒介者としての中間子の存在を予言した湯川さんを媒介としてなのであった。

先を越された発見

 この発見のあと、筆まめな私はすぐにタイプライターに向かって、Physics Today 誌のレター欄へ送る手紙を書いた。「物理法則が鏡像の世界で同じでないことを予言したリー、ヤン両教授はこの写真を見て大喜びするだろう。なぜなら、湯川秀樹やリチャード・ファインマンの髪形その他がほとんど左右対象であるにもかかわらず、この写真は現実世界の鏡像であることが分かるからだ。…」

 この写真(あるいはもっと鮮明な Gleick の本の中の同じ写真)で皆さんにもう少し楽しんで貰うために、私の投稿の後日談を書いておこう。何週間かのちに Physics Today 誌の編集者から手紙が来た。「レター欄へのご投稿ありがとうございました。残念ながら、同封の校正刷りの通り、同一趣旨の投稿が先にありましたので、貴殿のご投稿は没にさせていただきます。」

 私の発見の先を越したのは、ローレンス・リヴァモア国立研究所の Peter H. Y. Lee という中国系物理学者だった。研究上の発見で先を越されたのではなくてよかったといわなければならない。

 Physics Today 1982年9月号に "Backwards Photo" の見出しで掲載された投稿で、 Peter Lee は「(漢字の反転以外に、裏返しになっていることを知り得る)手がかりは全部で五つある。男性の上着やシャツのポケットが反対側についている。残りの四つは読者への問題にしよう」と書いている。私はまだ残りの四つを見つける努力をしていない。お分かりの方はトゥヴァ友の会まで。正解者には抽選で賞品を...上げられないと思うが、正解者名の紙上発表ぐらいはあるかも知れない。

 Physics Today 誌へ私の投稿には、さらに後日談がある。ファインマンさんのことから遠くなるが、ついでに書いておこう。私は同誌の編集者に対して、ていねいにも礼状を書いた。「私のと同一趣旨の投稿が先にあったとのご連絡、ありがとうございました。ところで、裏返しの写真中の漢字についての Peter Lee 氏の解釈は正しくありません。それは "Urgent Notice"(緊急連絡)ではなく、一定期間運行する予定の "臨時特急" 列車の時刻を知らせるものです。」

 私のこの手紙の「裏返しの写真…」以下の部分が、意外にも "Chinese vs. Japanese" の見出しで、Physics Today 1983年4月号レター欄に掲載された。「著者のコメント」としての Peter Lee の感謝のことばとともに。

いまからでも

 ちなみに、Brown と Hoddeson の論文の、より詳細なバージョンは、両氏の編集したシンポジウム報告集 "The Birth of Particle Physics"(Cambridge University Press, 1983)の序論文となっており、同じ写真は、同書中の "The Development of Meson Physics in Japan" と題する早川さんの論文中に正しく掲載されている。そこでの写真説明には1955年となっている。

 私は Gleick の本のペーパーバック版が出るまでに、彼に写真が裏返っていることを知らせようと思いながら、怠ってしまった。少し筆無精になったのかも知れない。先日、洋書店で立ち読みならぬ立ち眺めをしたところ、ペーパーバック版でもやはり裏返っていた。Peter Lee はこの本を読んでいないのだろうか。いまからでも Gleick に手紙を出すとすれば、撮影年の間違いについても書かなければなるまい。写真原版の所有者だった早川さんの書いている1955年が正しいかと思うが、確認の必要がある。

 早川さんも故人となったが、正しい年を考証するヒントはありそうだ。まず、"Surely You're Joking, Mr. Feynman!" の中に、ファインマンさんが日本を初めて訪れたときの話があったことが思い出される(第5章の最初の節)。しかし、残念ながら、そこには年が記されていない。

 つぎのヒントは、そのときのファインマンさんの講演記録である。ファインマンさんの論文目録を見ると、湯川さんの編集していた Progress in Theoretical Physics 誌の14巻261ページ(1955年)に1篇、"The Character of the Roton State in Liquid Helium" (M. Cohen と共著)という論文が掲載されている。これに違いない。しかし、会議の報告集はその開催年のうちに発行されるとはかぎらないので、同誌同巻がいつ開かれた会議の報告集に当てられているかをチェックする必要がある。私の手近には同誌がないので、どなたか、この点を調べてご連絡いただければ幸いである。*

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2 なかがき

 本誌前々号から連載されている「ファインマンさんに会いたい」は、たいへん面白い。挿入されているイラストも楽しい。前号では、多少ユーモラスに書いたつもりの私の随筆の対向ページにそれがあって、軽妙さ、面白さの点では歯がたたないことを痛感した。それだけでなく、私の随筆は「無関係な関係」の題ながら、かならずしも無関係ではない話をかなり書けそうに思っていたのだが、「関係性」の点でも、「ファインマンさんに会いたい」にはかなわないことが分かってきた。したがって、私としては、私なりのしかつめらしい話を、なんとか会員のみなさんにそっぽを向かれないようにつづっていくしかないと、心をきめた。

 ところで、この会の中心的な意義は(さっそく、しかつめらしい話である)、一つはトゥヴァという国を対象としての異文化間の交流であり、もう一つは、ファインマンさんの愉快で優れた人柄を追想し、そこから何かを学ぶことであろう。ファインマンさんは、物理学のむずかしい内容を分かりやすく語ることを得意とした。C. P. スノーは「二つの文化と科学革命」の中で、伝統的な文化と科学的な文化との間の溝について論じている。ファインマンさんは、この溝に橋をかける達人であったとうことができよう。

 こう考えると、この会の二番目の意義も、伝統的な文化と科学的な文化という異文化間の交流に関係している。私の随筆は、ファインマンさんからは、しばしば脱線するかも知れない。しかし、上に述べた二つの意味での、そしてまた、より一般化した意味での異文化交流ということには、深くかかわるものにしていきたいと思ている。

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3 ファインマンさんと「自然界における左と右」

 前回の私の原稿への法貴さんからの礼状に、鏡像の写真に関連して、マーティン・ガードナーの「新版・自然界における左と右」の読破に挑戦していることと、やっとファインマン・ダイヤグラムが出てくるところに到達したことが書かれていた。彼女はなんと、この本の旧版に小学校5年生のときに接したとのことである。私が旧版を読んだのは、社会人になって何年もたってからだった。法貴さんと同じぐらいの年の私の娘たちには、むずかしすぎるだろうと思って、すすめてみようともしなかった。

 それはともかく、私は新版の英語版を買っていながら「積ん読」していたのを思い出し、少し目を走らせてみた。すっかり忘れていたが、ファインマンさんはこの本の中でも、彼らしい登場の仕方をしている。そのことは、旧版のまえがきにも、次のように紹介されている。

 「1958年にジュネーブで学会があったとき、粒子物理学における『一小発見』が報告された。…『この発見を聞いたとたんに、ファインマンは、食べ物の行列から抜け出して、おどり出した』と、ニューヨーク・タイムズは報じている。」(坪井忠二、小島弘訳による)

 また、著者ガードナーは、ファインマンさんに対し、この本の草稿に目を通して貰い、多くの助言を貰ったことに感謝している。

 ところで、私が持っている「(旧版)自然界における左と右」の、訳書の奥付けよりさらに後ろのページには、一枚のはがきが貼ってある。訳者の一人、坪井さんからのものだ。私が3箇所ばかりの誤訳を指摘して出した手紙に対する丁重な礼状である。脱線したつもりだったが、話は自然にファインマンさんにもどる。坪井さんは「ファインマン物理学(力学)」の訳者でもあった。

 誤訳といえば、異文化の交流あるいは紹介のむずかしさに関係している。誤訳などについての私の指摘癖は、ふたたび、湯川さんを媒介とした少しばかり長い話を経て、ファインマンさんの写っているもう一枚の写真に結びつくことになる。この話は次々回ぐらいに書く予定だが、そのきっかけは、坪井さんから礼状を貰った喜びにあったといえようか。

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4 似たもの3人

 ジュリアン・シュウィンガーさんが、さる7月16日、膵臓がんで死去したと、先日の新聞で報じられた。量子電磁力学の研究業績で1965年度のノーベル物理学賞を分けあったファインマンさん、朝永さんとあわせて3人が、天国に勢ぞろいしたことになる。死因もみな仲よく、がんであった。

 シュウィンガーさんと朝永さんの類似点は、シュウィンガーさん自身が、1980年に東京で行った朝永さん追悼講演の中で述べている。研究歴が似ていただけでなく、名前にも共通点があると、シュウィンガーさんはいう。朝永さんの名前、振一郎の振と、シュウィンガーさんの姓の初めの部分Schwing(ドイツ語)は、どちらも「揺する」を意味している。そこで、シュウィンガーさんは、そのときの講演を「物理学をゆるがした2人」* と題した。この「2人」の中の1人は、シュウィンガーさん自身を指している。超一流の学者でなくては、使用できない題名である。

 この講演記録を何年も前に読んだ私は、題名とそれが意味するところだけを、かすかに記憶していて、講演者は量子電磁力学の発展にやはり大きな貢献をしたフリーマン・ダイソンさんあたりだったかと思い違いしていた。それで、いま、蔵書中から注記の文献を見つけるのに少し手間取った。

 朝永さんとファインマンさんにも、研究歴以外に類似点があるようだ。朝永さんは落語を愛好した。ファインマンさんも、自ら、外国語の特徴を巧みにまねるなど、おどけた演技を得意とした。ファインマンさんの録音テープの一つ、"Safecracker Suite" の中に "Sensei Samurai (Imitation Kabuki theater)" という一幕が入っていることは、本会のみなさんは、とっくにご存じかも知れない。

    * J. Schwinger, "Two shakers of physics: memorial lecture for Sin-itiro Tomonaga." In: The Birth of Particle Physics, eds. L. M. Brown and L. Hoddeson (Cambridge Univ. Press, Cambridge, 1983) pp. 354-375.

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5 ただ面白いから

 本誌 Vol. 4 に BBC クリストファ・サイクスのドキュメンタリー「アインシュタイン以来最高の頭脳」を日本で放映してもらうよう嘆願しよう、とのお知らせが載っていた。そのサイクスの一連のドキュメンタリーをもとにした本* が最近発行された。この本には100枚以上の写真が使用されており、本文は、ファインマンさん、その家族、友人、同僚のことばでつづられている。全10章からなり、第9章にはトゥヴァ探検計画の話がある。ファインマンさんとトゥヴァに興味をもつ人の必読書といえよう。

 「ファインマンさん最後の冒険」では、著者レイトンの熱意がかなり前面に出過ぎている感じがなくもなかったが、サイクスの本では、ファインマンさん自身のことばで、トゥヴァへの熱い思いが語られている。

 ついでながら、私はこの本の出版を、とり始めたばかりのアメリカから出ている本のカタログ誌 "Reader's Catalog" で知り、この随筆の一つのネタにもなろうかと、航空便でとりよせた。

 第9章のおわりには、ファインマンさんの次のようなことばが載っている。

 「たくさんの探検家たちが奇妙な場所へ行きたがるが、それは、ただ面白いからだ。わたしも、『われわれのしていることをよりよく理解する』というような、哲学的解釈みたいなものをもって行くのではない。われわれのしていることに対する理解など、ありはしない。そんなことを理解しようとすれば、気が変になるよ!」

 前回、私がこの会の「意義」など、さしでがましく書いたことが反省させられる。

    * C. Sykes ed., "No Ordinary Genius: Illustrated Richard Feynman." (Norton, New York, 1994) pp. 272.

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6 再び湯川さんを媒介に

小沼さんからの電話

 そろそろ、私がファインマンさんと同じ国際学会に参加したという、とっておきの話の導入に移ろう。

 1985年の3月末ごろのことである。素粒子物理学者の小沼さんから私に電話がかかってきた。

 「あなたは今月なかごろ、ノースウエスタン大学のブラウン先生に手紙を出されましたか。」

 私は、「はい」とこたえながら、内心どきんとした。失礼な手紙を出したとの、お叱りをうけるのではないだろうかと思った。小沼さんのそれに続くことばは、「私は、ちょうどブラウン先生のところへ行っていたのですが、先生はたいへん喜んでおられまして、日本へ帰ったら、ぜひ、よろしく伝えて下さいといわれました。」ということだったので、ほっとした。私のブラウンさんへの手紙というのは、湯川さんの自伝「旅人」の英訳書* 中のたくさんの誤訳や誤植を指摘したものである。

 小沼さんの話によると、ブラウンさんは、日本での素粒子物理学の歴史を研究しており、その参考資料として、学生の吉田さんに「旅人」を翻訳させた原稿を持っていたので、小沼さんが、せっかくだからと、出版をすすめたとのことである。ブラウンさんは英文には手をいれたが、吉田さんは早くからアメリカへ渡っていたせいか、あるいは地理や歴史に興味がうすかったせいか、地名や人名をいくつも読み違えていて、これは、どうしようもなかった。

 「旅人」を世界に紹介する大役をブラウンさんといっしょに果たした吉田さんにはちょっと悪いが、読み違えの例を挙げれば、明治時代の外交家小村寿太郎が Ikataro Komura、中国の天津が Amatsu、哲学者西田幾太郎が Ikutaro Nishida、西行法師が Seiko-hoshi などとなっている(えっ、それでよいのではないですかって)。

    * Hideki Yukawa "Tabibito" (The Traveler), translated by L. Brown and R. Yoshida (World Scientific, Singapore, 1982).

「移し絵」か「映し絵」か

 小沼さんの電話がきっかけで、ファインマンさんと同じ国際学会に参加することになった本論は先送りして、「旅人」の誤訳について少し話を続けたい。

 湯川さんの幼年時代の思い出に、縁日の露店の話が出てくる。そこで売られていたものとして、ほおずき、金太郎あめと並んで、「うつしえ」が挙げられている。その訳が shadow pictures となっていた。私はブラウンさんに、「Shadow pictures は売るというより、演じて見せるものであり、ここでは transfer pictures とすべきではないか」と書いたが、自信がない。私の子供のころは、確かに、裏を向けてこすると、絵が転写される「移し絵」がはやったが、湯川さんの子供時代はどうだっただろうか。いまのスライドに相当する、ランプの光を当てて影絵を映写するための「映し絵」が売られていたのかも知れない。

 シュレーディンガーの「波動一元論」がunified wave theory(統一波動論)と訳されているところもあった。「波動一元論」は光の波動・粒子二重性のなぞのあったなかで、自然の連続性を強調し、波動の方がより基本的であるとしたものであり、wave monism とすべきであろうという趣旨のことを、私は書いた。Unified wave theory という妙な訳が、物理学史を研究しているブラウンさんが手をいれたあとでも残っていたとは不思議である。

 前述の電話のあと、私は小沼さんの研究室を訪れる機会があり、その年の夏京都で開かれる湯川さんの中間子論50周年記念シンポジウムにブラウンさんが来ることや、日本に長く滞在したドイツの先生が「旅人」のドイツ語訳を準備中であることを教えてもらった。

ノーベル賞物理学者が4人

 小沼さんに教えてもらった中間子論50周年記念シンポジウムは、私の専門とはかけ離れたものだったが、ブラウンさんに会うために参加することにした。時は1985年8月15日、場所は京都国際会議場。早く会場に着いた私は、ホール前の廊下で、つぎつぎに来場する海外からの学者の胸の名札に注目した。

 そのうち、やはり比較的早く到着したブラウンさんを見つけることができた。会期中のブラウンさんは、物理学史を専門にするだけあって、参加者中の大家達に対する取材に忙しい様子だったが、私は幸い、このときを含めて3回ばかり、彼と話しをする機会を得た。

 私が後にも先にもただ一度ファインマンさんの姿にふれたのは、この会議においてであった。参加者の中には、パリティ非保存を提唱したリーとヤン、プサイ/J粒子の発見者のひとりのチン、それにファインマンさん、合わせて4人のノーベル賞物理学者が含まれていた。ファインマンさんは、第1日目に、最初のセッションの座長をつとめた。

 ひとつの休憩時間に、私の大学の同期生で素粒子論を専門にしているN君が、ファインマンさんと何か楽しそうに話していた。あとでN君に聞くと、「ご冗談でしょうファインマンさん」の感想を話したとのことであった。同書を注文中で、まだ読んでいなかった私は、感想を述べに行くことができず、たいへん残念に思った。しかし、この会議に参加したおかげで、私はファインマンさんと同じ一枚の写真に姿をとどめることができた。といっても、参加者全体の記念写真なのだが。

 ここに示す写真は、その一部のコピーで、ファインマンさんと私が両端ぎりぎりにおさまるように、なかほどの約1/3だけを切り取ったものである。ファインマンさんは、向かって左端の最後部に、私は右端の後ろから2人目にいる。最前列右から3.5人目は伏見さんで、ここがもとの写真のほぼ中央になる。ファインマンさんの立っているさりげない位置が、いかにも彼らしい性格をしのばせるものとなっている。

Symposium photo

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7 その他の無関係な関係

「ご冗談でしょう、森永先生」

 ファインマンさんを物理学に疎い人びとの間でも有名にしたご承知の本の題名にあやかった上記の題名は、日本物理学会誌41巻12号1040ページ(1986年、「会員の声」欄)に掲載された私の投稿につけたものである。これは、ミュンヘン工大の森永晴彦氏が同誌同巻10号852ページの同欄に寄せた「物理学のモチヴェイション」という文に対する感想をのべたものである。これもファインマンさんと私の無関係な関係のひとつに数えられようか。

 ちなみに、森永氏は、「文部省管轄下の巨大科学研究所を防衛庁に移管すること」を提案し、必要ならば「高エネルギー研→ビーム兵器研、プラズマ研→水爆研、宇宙科学研→SDI研」と名称変更すればよいとの案も示していた。

 これに対して私は、「わが国の政府が防衛予算を大きく増大させてきたこと、そしてまた、SDI研究への参加を決めたことに対する優れて痛烈な風刺になっている」としながら、他方で、「この提案は、H.G.ウェルズの『宇宙戦争』の迫真的なラジオドラマが、ある都市の多くの人びとに本当に火星人が来襲したのかと思わせたという古い出来事に似た、人騒がせな面も持っている」と述べた。

 そして、「たまたま最近読んだドイツ語訳の『湯川秀樹:旅人』に『あとがき』を執筆されている森永氏が、このような提案を本気でされるはずはなかろうと思いをめぐらせてはじめて、これが冗談であるとの結論を私は下し得たのである」と結んだ。  余談ながら、私の投書文の整理にあたった物理学会の女子職員から「H.G.ウェルズとありますが、オーソン・ウェルズではありませんか」とのお尋ねがあった。彼女は原作者よりも、迫真の演技をした声優の方をよく知っていたのである。

"What Do You Care What Other People Think?"

 ファインマンさんのひととなりを伝える2冊目の本の上記の題名は、1冊目の "Surely You're Joking, Mr. Feynman!" にくらべると、たいへん覚えにくい。ファインマンさんとの無関係な関係を誇る私でも、というか、無関係な関係しかない私は、その題名をここに書くために、書棚からその本を取り出してみなければならなかった。

 しかし、私を Friends of Tuva に結びつけてくれたのは、この本である。その末尾に、「レイトン宛に10ドルを送れば、ファインマンさんの "Safe-Cracker Suite" と題するカセットテープをお送りします。収益はすべて UCLA のジョン・ウェインがんクリニックに寄付します。そこの医師たちは、ファインマンさんの命を6年間ながらえさせてくれたのです」との旨の文があった。私は、推定送料2ドルをつけ加えて、レイトンさんに手紙を出した。

 Safe-cracker Suite" が届いてからも、私は長い間、このテープの題名に "Suite" という語がなぜついているのか分からないでいた。ある日、リンガフォンのカセットテープを聞き流していると、"Nut-Cracker Suite" ということばが耳に飛び込んできて、ハタと了解した。チャイコフスキーのこの有名な組曲の題名を連想させる形にしてあったのだ。

注文ついでに指摘

 レイトンさんへの手紙に、私は例のくせで、次のような指摘をしておいた。

 「"What Do You Care What Other People Think?" 中の『彼と握手しちゃったよ、信じられるかい』という物語に、ファインマンさんは、1986年の夏に東京で開催された会議で、名誉座長をつとめたと書かれていますが、それは、1985年8月15日から17日まで京都で開かれた中間子論50周年京都国際シンポジウムのことではないでしょうか。私はそのシンポジウムに参加し、ファインマンさんが座長をつとめられたのを拝見しました。

 「彼が座長であったセッションの最初の(注。物語にあるように何人目かではなく)講演者は、京都大学名誉教授の小林稔さんでした。小林さんは、『湯川理論の誕生』と題する論文を日本語で朗読し、一人の若い物理学者が段落ごとに英訳を読み上げました。したがって、小林さんは論文の終りに達する前に時間を使い果たし、ファインマンさんを困惑させたということになったかと思います。私は、その点をはっきりとは覚えていないのですが。」(1989年2月20日付けの私の手紙の控えから和訳)

 先にも書いた「N君がコーヒーブレイクの間にファインマンさんに"Surely You're . . ." の感想を述べていたが、私はまだ読んでおらず、ファインマンさんと話をする機会を永久に失う羽目になり、残念だった」との話を、この後に記し、レイトンさんへの手紙の結びとした。

一通の怪しげな封書

 それは、1992年の秋のことだった。アメリカから一通の封書が届いた。封筒の左、差出人住所の下には、三角形の切手様シールが貼ってある。差出人はフレンズ・オブなんとか。新興宗教への勧誘だろうか。それにしても、アメリカからわざわざ?

 開封してみる。出てきたのは、二つ折り、二枚重ねのワープロ印刷物。称して、なんとか友の会ニュースレター日本語版第2号。最初の見出しにいわく、「日本のなんとか友の会のみなさん。」私はいつの間にか会員にされてしまっている。そして、次に「エキイ!」という奇妙なあいさつ。ますますもって怪しい。

 続く見出しにも、わけの分からない「なんとか」の片仮名が連続登場。それから、「フーメイニュース」「パレード計画」「新なんとか国歌と国旗」ときた。「なんとか」が国の名前らしいと分かる。一枚目の裏はほとんど飛ばして最後を見る。「イジグ バイアルリグ!」のあいさつ。

 二枚目を見る。「なんとかトレーダー」と称し…、あっ、「セーフクラッカー組曲」が。ここでようやく、私の送ったカセットテープ送料の残金で、レイトンさんが私を"Friends of Tuva" の会員にしてくれたらしいことに気づく。当時、私はまだ「ファインマンさん最後の冒険」を読んでいなかったのである。

 こうして、ファインマンさんと無関係な関係しかなかった私とFriends of Tuva、そしてまた、「のるかそるか倶楽部」との関係が始まることになったのである。

「のるかそるか倶楽部」の名が国際的出版物に

 近年、私のところへ外国の人名録出版社から、経歴などを書いて送れという勧誘の手紙がよくくる。経歴書は審査の上、一定レベル以上の活動をしていると認められれば、掲載されるとのことである。あまり期待もしないで、Marquis Who's Who 社の "Who's Who in the World, 1995 edition" へ回答を出しておいた。

 出版社としては、たくさん採用すれば売れ行きがよくなる可能性が高まるのであろう。私のようなものでも、採用になった。1996年版にも載せてもらえるようである。そこで、"member, Friends of Tuva Japan" という事項を追加してもらうことにした。「のるかそるか倶楽部」の名も、国際的出版物に載ることになる。

"Oh, no! It should read "No"!

 最近、超天才ファインマンさんが「並みの天才」呼ばわりされているのを発見した。といっても、「のるかそるか倶楽部」会員としては、がまんできない!と、いきまくほどの状況ではないのだが。

 この文が皆さんの目に入るころには出版されている予定の「ファインマンさんは超天才」の原書、"No Ordinary Genius" のペーパーバック版の紹介が Reader's Catalog 社の新刊書案内に載っていて、"An Ordinary Genius" と誤植されているのである。ファインマンさんは天国で苦笑していることであろう。

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 ファインマンさんの写っている写真が裏返っていたことの発見の話から始まったこの随筆を、前記の誤植の発見で一応終りとしたい。

 といっても、次回からは「ときおりファインマンさん」と、題名をよりいっそう気楽なものに変えるだけのことで、相変わらず、雑然とした文章をときどき(気が向けば、そして時間が許せば、ひんぱんに)寄稿し、会員のみなさんのお目を汚したいと思っている*。ひき続きご愛読、ご声援を乞う。


付 記

 初回の文中、裏返しの写真の撮影年に三通りの記述があり、ファインマンさんの1955年の論文が正解を知るカギになるかも知れないという意味のことを書いた。その論文の載っている雑誌を図書館で調べたところ、同論文は1995年8月3日に受理されており、著者名に次の脚注がつけてある。

Presently visiting Yukawa Hall, Kyoto University. This author wishes to express his gratitude for the kind hospitality he experienced during his visit to Japan.

 これでみると、やはり、写真の提供者である早川さん自身の書いた論文中の1995年が正しいようである。

(完)

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