IDEA-ISAAC
文化をそだてる (2)
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多幡達夫

Copyright 1999-2000 by Tatsuo Tabata
 
 
文化をそだてる(2)

目 次

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中国訪問記

近いお隣

 昨1988年10月31日から9日間にわたって、仕事の関係で上海と北京を訪れた。広大な中国のほんの一部をかいま見たに過ぎないが、滞在の少し長かった上海での印象を中心に、多少なりともお隣の国の文化に関連した感想を記してみたい。

 13時15分に大阪空港を飛びたった中国民航機は約2時間後には、もう上海上空にさしかかっていた。乗っている時間だけでいえば、新幹線で東京へ行くよりも早い。一面の農地の所どころに白壁、黒屋根の長方形の家いえが、適当な間隔をおいて整然と並んでいるのが見え、学校や工場らしいものがいくつか小さく見えたと思っているうちに空港へ進入していた。密集した人家の上にごう音をまき散らしながら大阪空港へ滑り込むのとはだいぶん様子が違う。

 上海の空港は、市街部の南西のはずれにある。上海科学技術大学の F 教授が同僚の W 女史とともに、大学の古びた公用車で出迎えてくれた。大学は市街部の北西のはずれ、嘉定県というところにあり、上海市立である。中国では市の中に県があるのだ。大学までの道中、機上からみた農村風景が車窓に展開する。江南の穀倉地帯を形成する広びろとした田は、刈り入れ期であった。農家は日本の小さな建て売り住宅を2、3軒合わせたほどの大きさの2階建てで、大きいものは12部屋からなるそうだ。

高速道路に自転車

 沿道には、ずっと並木が続いている。自転車に乗った人びとがたくさん行きかう眺めは和やかだ。さらに工場地帯などを走って、約1時間後に大学の近くまで来た。ところが、当日は上海に初めてできた高速道路の開通日で、その入口付近の交通渋滞をさけるため、回り道をしなければならなかった。大学の宿舎に到着したのは、空港を出てから約1時間半後だった。後日 F 教授と市街部へ出るときに高速道路を通ったが、何台もの自転車が高速道路をゆう然と走っているというのんびりした情景を目にした。

 上海科学技術大学の外来者用宿舎は、寝室に書斎、浴室、トイレが付属しており、日本の大学ではお目にかかれない立派なものだ。寝室には、日本製らしい電気蚊取り器があった。次に訪れた北京師範大学の宿舎も、寝室と書斎は別室にこそなってはいなかったが、広い部屋にどっしりとした書斎机が備わっていた。

 ただし、トイレツトペーパーはどこへ行っても粗末なものだった。上海の最後の夜は、国際飯店という古くからある一流ホテルをあてがってくれたが、そこに備わっているトイレットペーパーも同じだった。ティッシュペーパーをたくさん持って行くといいといってくれた友人の忠告に従ってよかった。

 宿舎での食事は豊富だった。たとえば、上海での最初の夕食には、小エビとカリフラワー、肉、白菜それぞれの油いため各一皿、キノコのスープ、ライス、かんづめのナシ、それにジュースが出た。全部は食べきれず、「私には多過ぎました」と料理人に英語で伝えると、彼はそれに相当する中国語を教えてくれた。翌朝は、かゆ、だんご、たまご、つけもの、かんづめの果物、牛乳、コーヒーであった。ボール箱ごと食卓におかれた角砂糖の上を、アリが一匹はい回っていたのも、おおようで自然な感じがした。

お互いの伝説

A shop in Shanghai

上海第3の繁華街、ユイユアン商場の店の一つ。昔の寺の建物を利用したもの。
 

 しかし、4日目に F 教授と S 講師の案内で観光させて貰ったユイユアンという庭園の近くの食堂にハエがたくさんいたのは、ややうるさかった。とはいっても本場のギョーザやシューマイの味は格別であった。S 講師に「お宅には車が何台ありますか」と尋ねられ、車を持たない日本人もいることを知って貰うことができた。それと引きかえに私のほうは、革命後の中国にはハエやカがいなくなったとの話が伝説に過ぎないことを知ったわけである。

 中国では土曜もまる一日労働日であるが、昼の休憩時間が11時から1時までと長い。昼食後、午後の労働時間まで昼寝をする人たちもいる。男女平等は徹底しており、大学の教官、研究所職員もほぼ男女同数である。北京師範大学へ私を招いてくれた C 教授も女性で、東京での国際会議でちょっと声をかけたのが縁で知己となった人である。

 上海科学技術大学では、1日半講義と討論をした。到着の日を入れて3日目の午後は、市街部にある上海輻射中心という、ガンマ線照射による食品の保存期間の延長などを研究している施設を訪れ、4日目には同じく市街部にある上海計量研究所で講義をする予定だった。しかし、大学の車の都合や先方の都合で、これらの予定が全部5日目にずれ込んでしまった。

 計量研究所のことを、私はうかつにも前日まで気象研究所と思い込んでいた。F 教授からの手書きの英文手紙にメトロロジーとあったのを、その言葉になじみがなかったため、メテオロロジーの書き間違えだろうと早合点してしまったのである。私が計量学という言葉の英語になじみがなかった理由のひとつに、日本の国立研究機関では、放射線の計量についてだけ電子技術総合研究所の担当になっているということがある。訪問の前日「気象研究所がなぜ放射線の線量測定に興味を持っているのですか」と F 教授に尋ねて、ようやく思い違いが判明した。

歴史は変わらない

 F 教授はアメリカの大学で学んだ人で、「租界」時代の西欧風建築物の並ぶ上海のまちを、彼の流ちょうな英語に耳を傾けながら歩いていると、アメリカヘ来ているような錯覚におちいりそうになる。しかし、彼の上海や中国の歴史についての的確な説明や、路上の多くの人びとの流れが、すぐにその錯覚から引き戻してくれる。

 彼はふと、「まちのたたずまいや人びとの服装、さらには顔かたちも時代とともに変わる。しかし、歴史は変わらない」という言葉をもらした。この言葉は私に、最近日本の歴史の教科書から第2次世界大戦中の日本の悪事についての記述が消されつつあることを連想させたので、それについて話し、これはたいへん具合の悪いことだと思っていると述べた。F 教授は「大切なのは、各国の人びとがお互いに理解を深め、協力し合って行くことだ」と答えて、慰めてくれた。

 上海のまちは、交通や産業構造の面で難問を抱えているように見うけられた。しかし、そこにあふれうごめく無数の人びとのエネルギーが、街角でよく見かけた国策のいろいろな標語の実現に向かって結集されて行くならば、その将来の発展は目覚ましいものになりそうな気がした。おびただしい数の自転車の流れが、車の流れに変わるようなことのないように望みたい。

No. 74(1989年1月)

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ヨーロッパ訪問記

 4月20日から約3週間、仕事の関係で、といっても私費・休暇で、ヨーロッパを訪れた。仕事としては、オランダで開かれた放射線利用の国際会議に参加し、ロンドン病院医療物理部で講演し、いくつかの研究機関を訪問した。その合間に休暇としての観光や私的訪問も楽しんだ。

文化の香り高い都市

 アムステルダムの空港に比較的近い国際会議場に一週間いたほか、アムステルダム、ロンドン、ミュンヘン、ウィーンの諸都市に滞在した。これらの都市の名を挙げると、「文化の香り高い所ばかりですね」という人がいた。東京、大阪、堺と並べたとき、そのような応答が期待できるだろうか。たしかに、これらのヨーロッパの都市には、古い建造物などの文化的遺産が多い。この点では、建築材料の相違や戦災に会ったことなど、日本の都市に不利な面がある。だが、美術、演劇、音楽などを手軽に鑑賞できる点でも、私が今回訪れたヨーロッパの都市はより文化的であるといえよう。

British Museum

大英博物館
 

 私も、アムステルダムのゴッホ国立美術館、ロンドンの国立美術館と大英博物館、ミュンヘンのアルテ・ピナコテークを見物した。これらは、私の滞在した都市の美術館、博物館のごく一部に過ぎない。ロンドンの美術館や博物館は無料で入場できる。しかし、大英博物館が誇る古代のエジプト、西アジア、ギリシャなどの豊富な美術品のコレクションを見ていると、これらの文化財を持ち去られた国ぐにでは、いかにも残念がっているのではないかと思わないではいられなかった。

歴史的建造物

Bridge

マヘレの跳ね橋
 

 古くて立派な建造物もたくさん見た。アムステルダムでは、ゴッホの絵でなじみの深いマヘレの跳ね橋、赤レンガ造りでゴシック風のアムステルダム中央駅や国立博物館の建物。ロンドンでは、大時計ビッグ・ベンで名高い国会議事堂、エリザベス女王が住むバッキンガム宮殿、歴代国王・女王の戴冠式の行われたウェストミンスター寺院、中世紀以来多くの政治犯が幽閉・処刑されたロンドン塔、テムズ川を航行する大型船のために中央が開閉するタワーブリッジなど。

 ウェストミンスター寺院は外壁の修復のため覆いが掛けられていて、その美しい外観を眺めることができなかった。帰国してから新聞で見たところによると、ロンドンのセントポール大聖堂の石材は過去250年に3センチ近い浸食を受けたが、その3分の2以上は最近50年以内に生じたもので、近年の酸性雨の影響の深刻さを物語っているそうだ。せっかく長い年月を経て残されてきた歴史的建造物が、環境汚染のために短期間で破壊されて行くことは、何としても防がなければならない。

歩ける箱囲に

 ミュンヘンでは、尖塔が二つ並ぶフラウエン教会、鐘楼に人形の仕掛け時計のある新市庁舎、広い庭園のあるニンフェンブルク城などを見物した。ウィーンでは、ルネサンス様式の国立オペラ座、大尖塔とモザイク屋根が印象的なシュテファン寺院(これらは第二次世界大戦後、復元・修復された)、歴代ハプスブルク王朝の宮殿であるホーフブルクなどを眺めて歩いた。ミュンヘンとウィーンの市内の名所の多くは、徒歩で回ることのできる範囲内にあって、観光上とても便利である。

 また、私の見た各都市とも公園や緑地が多いことでも、日本の大都市に少ないうるおいが感じられる。アムステルダムでフォンデル公園を訪れた日には、あいにく、ベアトリクス女王の誕生日の祝いで、露店と人の波で大混雑していて、すぐに飛び出してしまった。しかし、ロンドンではバッキンガム宮殿近くのセント・ジェームズ公園、ミュンヘンでは王宮庭園とイギリス庭園、ウィーンではヨハン・シュトラウスやシューベルトの像のある市立公園ほかいくつかの庭園の散策を楽しんだ。

 これらの都市を観光していて残念に思ったこともいくつかある。アムステルダムの方ぼうの建物には、噴霧式のペンキを使って書いたらしい、奇怪な文字の大きな落書が見られ、目ざわりだった(似たような落書がニューヨークの地下鉄の車両にあったが、最近全部消して美化したそうだ)。ロンドンでは、空気が汚いため、市内を歩き回って帰ると鼻の穴が真っ黒になった(これは東京や大阪でも同じである)。漱石がロンドンに留学していたころ、マスクを着用することが流行したそうだが、現在ますますそれを必要とする。

Dr. K

K博士とその家族
 

東洋文化好むK博士夫妻

 今度の旅行中、外国人の家を訪れる機会も何度かあった。その一例について記そう。ロンドンに到着した4月30日の晩、ロンドン病院医療物理部長のK博士が自宅へ夕食に招いてくれた。博士の家の近くには、マルクスの墓地があるそうだ。その日のロンドンは、まだうすら寒く、博士の家の応接室には、暖炉に火が焚かれていた。夕食の席には博士夫妻に、グラフィックデザイナーをしている子息夫妻も加わり賑やかだった。

 食堂には、博士が日本、中国、タイ、インドなど、アジア諸国へ出張したときに買い求めた壁掛や置物がたくさん飾ってあった。博士はジェームズ・クラベルの「将軍」を、夫人は「源氏物語」や三島由紀夫の作品の英訳を読んだそうだ。博士は、キモノを着る習慣など、日本の伝統的なものが次第になくなって行くのは残念だと話していた。

イギリスにも「行革」

 仕事で訪れた所の感想も少し書いておこう。オランダの国際会議場には宿泊設備のほか、幾室もの食堂やバーが付属していて、豊富な食事と飲み物を楽しみながら、各国からの参加者たちとゆっくり交流と討論ができるように配慮されていた。

 ロンドン郊外のテディントンにある国立物理学研究所を訪問したとき、イギリスでも「行革」に似たことがあるのを知った。私の応対にあたってくれたM博士が次のように話していた。

 「政府はこの研究所が本来の研究をすることをやめさせ、産業界等のどこにどのような委託研究をさせればよいかを調査するだけの機関にしたいとの意向を持っている。これに抵抗するため、この研究所でいままでにやってきたことがいかに重要であったかを、約半年がかりでまとめたところだ。」

 同様な研究機関の「改革」が日本でも起こりつつある。経済的効率化だけを、それも歪んだ形で考えていたのでは、真の文化や科学は育つまい。

 オーストリアの1000シリング紙幣(約1万円相当)は、ノーベル賞物理学者シュレーディンガーの肖像が描かれており、同じ物理の分野で仕事をしている私は感激した。しかし、記念に持ち帰るには、やや高価過ぎた。

No. 77(1989年7月)

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上海再訪

 さる10月22日から出入りを入れて5日間、2年前に続いて2回目の上海訪問の機会を得た。ちょうどその週、NHK テレビのモーニングワイドの時間に、最近の上海の様子を紹介する特別企画があった。それをご覧になった方がたは、それを見ないで現地のごく一部を覗いてきた私よりも上海について多くをご存じかも知れない。しかし、なまの見聞からは、また別の印象も伝えられるかと思い、あえて上海再訪記をつづることにした。

研究室に国の縮図

 2回の訪間の間には1989年6月の天安門事件があった。しかし、私たちの職場では、すでに89年10月、こんども私を招いてくれた F 教授のほか2人の放射線専門家を招いて、科学・技術の交流を行なっている。そのとき、高齢者に属する F 先生は、その頃一英文誌に掲載されていた天安門事件の記事も一べつした上で、中国の若者たちがあまりにも急激な変化を求め過ぎるので、強く取りしまられるのも仕方がないとの見方を述べていた。しかし、今回の帰国前夜に一時間あまり話し合った F 先生の助手の、まだ若い X 博士は、中国政府が軍隊を使って弾圧をしたことに対しては批判的であった。ひとつの研究室内に中国の縮図を見る思いがした。

 私の乗った中国東方航空の便は、出発から到着まで予定よりかなり遅れていたが、出迎えの F 先生の到着のほうが遅かった。中国語の話せない私は、英語で話し合える F 先生をみつけたときは、本当にほっとした。私たちの研究に最も関心を持っているのは F 先生のところの W 副教授だが、彼女は北京へ出張中で、翌日はまだ帰らないとのことだった。それで F 先生は、私が第一夜を市街部の北西にある金沙江大酒店というホテルで過ごし、翌23日に市内見物をしたあと、夕方、郊外にある上海科学技術大学の室舎に移るよう計らってくれた。

A view of Shanghai

金沙江大酒店の窓から見える団地。向こう左手に中山公園、遠方にたくさんの超高層ビル。手前は小学校。
 

 金沙江大酒店の付近は高層アパートの建ち並ぶ住宅地で、夜はたいへん静かだった。F 先生は、日本のある女優が結婚後、夫とともにこのホテルに泊まったと話し、独身時代にはみな、もっと賑やかな場所のホテルを好む、とつけ加えた。朝、窓外を見ると、団地の向こうに中山公園と思われる緑地帯が望まれた。

服装の現代化

 市街には相変らずたくさんの人びとがうごめいていたが、前回の訪問時よりも服装の現代化がかなり進んで、若い人たちのほとんどは日本の町で見かける人たちと変わらない格好をしているようだった。そういえば、前回、人民服に似た紺色の上着とズボンを着用していた W 先生も、今回は青い上着の内側に真っ赤なジャケットをのぞかせていた。また、X 博士は私に「ひとつお願いがあるのですが」といって、彼の夫人のために日本のドレスメーキングの本を2、3冊送ってほしいと頼んだ。

 24日は土砂降りの雨となった。宿舎の窓から見ると、自転車で通勤通学する人びとが、みな一様に、帽子つきのうす青色の雨ガッパを着て、ゆう然と進んで行く。自転車に乗った人たちが片手で傘をさし、足早にペダルを踏んで、あっという間に駆け抜けて行く日本の雨の朝の光景とは、だいぶん趣きが異なっている。

 この雨の中を私に研究室まで来て貰うのは気の毒だといって、その日の午前は F 先生、W 先生、それにもう一人の女性の副教授が宿舎の私の部屋へ研究の討論に来てくれた。宿舎の部屋には、寝室のほかに、書斎用の机・いすと応接セットの備わった別室が付属しているので、そこでゆっくり討論することができた。午後は、いくらか小降りになった雨の中を F 先生の研究室へ出かけ、一時間半ばかりの講義をした。

放射線照射果実を試食

 翌25日は、市街部にある上海輻射中心(日本風にいえば、放射線センター)と上海計量研究所の放射線部門を再訪した。前者では、貯蔵期間を延ばすためにガンマ線を照射した果物の試食にあずかった。ここでは、食品保存の研究がおおむね目標達成に近づいたので、新しく低エネルギー電子線加速器を設置して、放射線化学的技術の開発に向う予定とのことだった。

 日本では企業の研究所で行なっているような開発研究も、中国では大学や国の研究機関で進めなければならず、F 先生は大学間の交流に加えて、今後は日本の企業の技術的指導や援助を大いに期待したいといっていた。私は、わが国では政府の進める「産官学共同」の科学技術政策のもとで、基礎研究の枯渇の恐れがあることや、わが国の企業はその豊かさにもかかわらず、長期的視野での投資を好まない傾向にあることの具体的な例(本紙83号「灯台」欄参照)を話した。あとの話に対して F先生は「いつどこでも、金持ちは近視眼的なものだ」といって笑った。

敗戦直後の恩

 敗戦後しばらく中国に残留した私の知人が中国の大学で学んで帰国し、そのすぐあとで、同じ経験をした人たちとともにその思い出を執筆し出版したことを、私は最近知った。その本の中で、執筆者たちは異口同音に、少し前まで敵国民であった自分たちに対して、中国の先生や学生たちがいかに温かく親切であったかを印象深く記していた。それを読んだ私は、中国の人たちが困っているときには、われわれ日本人はできる限りの援助をしなければならないと強く感じだということを、25日の上海輻射中心主催の昼食会の席で話した。

 到着した日の夕食時、F 先生は東欧の政治的変化に触れ、「それは決して社会主義の崩壊を意味するものではない。伝統あるものがたやすく崩壊しはしない。人類の太古の暮らしは社会主義的だったのだから」との彼の考えを語った。中国の政治が、人類のよい伝統を正しく発展させる方向に進むことを心から望みたい。

No. 85(1990年11月)

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中国再々訪記—ちらりと見た科学・技術事情—

天安門事件のとばっちり

Meeting site

会議の開かれた香山飯店の正面
 

 さる1992年9月13日から18日まで、第8回放射線プロセス国際会議に参加するため北京を訪れた。たまたま最近の5年間に、1年おきに3回中国を訪問したことになる。会場は北京北西の郊外にある香山飯店(飯店=ホテル)で、市街からは遠く、宿泊・滞在も同飯店だった。したがって、会議のプログラムに含まれていた半日のバス旅行以外の時間は、ほとんど会場に閉じ込められていて、中国そのものについては、ほんの瞥見したに過ぎないが、日中国交回復20周年(9月29日)、憲法上疑義のある形での天皇訪中など、この秋に関連話題の多かった中国について、前2回同様とりとめのない感想を記してみたい。

 そもそも今回の国際会議は、1989年にオランダで開かれたあとを受けて、その2年後の昨年開かれるはずのところ、天安門事件の余波で準備が遅れ、今年にずれ込んだのである。あの事件は、研究者の国際交流にまで、とばっちりを与えたことになる。

 国際会議の開催準備は、開催国の研究者を中心に、各国からの代表を加えた委員会を作って進められる。先の私の訪中時の招待者であった上海の F 先生と北京の C 先生も、中国からの4名のプログラム委員のうちの2人として活躍していた。彼らは会議中もかなり忙しく、おかげで私は彼らと十分旧交を温める時間がなかったが、中国の友人たちが国際的な場で活躍しているのを見るのは快かった。

「核平和利用誓う中国」から半数近い発表

 研究発表プログラムの編成や所定事項の発表者への連絡などには、大陸的なおうようさが現れているというか、ちみつでない点が散見された。しかし、同伴者を含めて約500人の参加者のあった大きな国際学会が、これといった混乱もなく無事に進められたことに対して、中国の委員たちの功績が称賛されなければならない。

 放射線プロセスというのは、ガンマ線や電子線などの放射線を利用して、高分子の性質の改変、塗料硬化などの表面処理、医療用品などの滅菌、食品の保存性の改善などを行う技術である。今回は、排煙や都市廃棄物中の有害物質を放射線照射によって無害化するといった、環境問題への応用についての発表数が増えていたように見受けられた。

 全体で300件近い発表のうち、半数近くが中国の研究者によるものであった。これは、開催国であるための参加しやすさを割り引いても、この国が放射線利用にかける熱意のかなり強いことを示している。

 香山飯店の宿泊客は、英字新聞「チャイナ・デイリー」を毎日貰うことができた。会議初日の9月14日付け同紙は、第1面のトップ記事のすぐ下に、短くではあるが、「中国、核技術の平和利用を誓う」との見出しで関連記事をのせていた。その記事は国際会議に直接触れてはいないが、当日午前に行われた総合講演のひとつとして中国核公社の黄博士が紹介した、中国での放射線研究と同利用の状況についての報告の要点を記していた。

2400万ドルの放射線産業

 それは、会議の要旨集中の同博士の要旨よりも、ある意味ではよくまとめられていて、参加者にとって有用な記事であった。その記事によれば、中国の放射線化学反応を利用した産業製品は、500トン以上の熱収縮材、9000キロメートル以上の電線など、年間2400万ドルに達しているとのことである。

 また、会議期間の中ほどの9月16日付け同紙は、「専門家、北京で核技術の平和利用を討議」と題して、会議そのものを紹介する記事を第2面中央にかなり大きく掲載した。この記事も、約半分が中国の放射線利用技術の現状と、その政策の紹介に当てられていた。これは、いかにも国柄を反映しているものといえよう。

 そこでは、中国政府が放射線技術・放射線産業の推進において、常に安全を第一としてきたことと、中国が昨年12月、核兵器非拡散条約に加わったことが述べられていた。先の記事の見出し中の、いささか奇妙な「誓う」という言葉は、この条約への加盟を背景にしたものと考えられる。

 続いて、これも黄博士の報告にあったことであるが、現在国内に100カ所以上のコバルト60ガンマ線照射施設と30台以上の電子線加速器が稼働していることや、年間4万トン以上の照射食品が出荷され、消費者の間で好評であることが紹介されていた。

 なお、9月14日付けのチャイナ・デイリー紙第三面の科学欄では、次のような記事も目をひいた。ひとつは、21世紀に中国が競争力を持つようになるには、科学教育を強化し、優秀な科学者を産み出す必要があるが、そのためには、いまどのような困難があるかを分析したものである。もうひとつは、1986年3月にスタートした政府のハイテク研究「863計画」の進展状況を速報するため昨年から刊行され始めたレター誌を紹介するものである。

文革の影響

 先に述べた放射線プロセス会議の話題から推定できるように、参加者の専門分野としては化学系、次いで農学系の人が多い。私のような物理系の人間は、わずかに放射線計測に関する部会への参加者にほとんど限られる。したがって、私自身の研究に参考になる他の研究者の発表はこの会議では大変少ないのだが、今回は非常に関係の深い研究が一報、ポスター・セッションの中にあった。

 それは、中国四川大学の L 教授のグループによるものだが、L 教授自身はこの会議の間、海外出張中で参加できないと、あらかじめ聞いていた。それでも、彼の共同研究者と討論したいと思い、彼らのポスターの前へ何度も行ってみたが、一度もその姿を見かけなかった。たぶん、英会話が苦手なので、質問者につかまるのを避けているのだろうと思った。

 国際学会のポスター・セッションでは、関心のあるポスターのところに名刺をおいておけば、あとでその発表の論文コピーを送って貰えるという慣習がある。L 教授のグループのポスターのところには、とくにたくさんの名刺が集まっていた。

 私も名刺をおいたが、ポスター取りはずし予定日の朝、自分たちの論文に署名したものも、彼らのポスターのところにおいてきた。ちょうどその日の午前、私の口頭発表があったので、L 教授の共同研究者のひとりが私の顔を覚えてくれたらしい。午後、彼が私を見つけ、彼らの論文のコピーを渡してくれた。

 彼は案の定、L 教授はいまどこへ行っているのかとの私の質問にも英語ではうまく答えられず、同じ大学から来ている大学院生らしい若い女性を手招きして通訳を依頼したのであった。現在40歳台の働き盛りの中国の研究者たちの中には、若い頃の文化大革命の影響で英語を習っていない人が多いようである。敗戦後かなり長い間、英会話がさまにならなかった日本の研究者たちの様子をほうふつとさせる。

毛沢東の詩に励まされ

Teiryo

明の13陵のひとつ、定陵
 

 会議第2日午後のバス旅行では、明の13陸のひとつの定陵と、万里の長城中の名所、八達嶺長城を訪れた。13台のバスをパトロールカーがサイレンをならしながら先導する国賓なみの扱いであった。ガイド役を務めるのは北京の外語学院の学生たちで、日本からの30余名の参加者は、日本語を学んでいる学生が案内するため、1台のバスに集められた。

 香山公園のひとつの入口、東門を少し入ったところにある会議場の香山飯店を出て、まず南下する。それから、市街地の中の一直線に伸びた広い道路を東進し、その後また、郊外を北上する道をとった。

 市街部でも自動車の流れは少なく、自転車の後ろに荷車をつけて走っている光景も見られる。少し郊外に出ると、レンガを積み上げた昔ながらの平屋の民家が、のんびりとした風情で散在している。八達嶺へ向かう郊外の道路沿いには、たくさんの桃畠があった。

 明の十三陵の近くまで来たところで、交通事故のため道路がふさがれており、担当の警察が来て処理をするまで、小一時間待たなければならなかった。その事故とは、自動車と馬車の衝突であった。

 定陵は、明の第13代万暦帝と2人の皇后の墓である。地下20メートルのところに、宮殿のような壮麗な部屋が巨石で造られている。政治にあき、自分の墓作りに熱中した暴君が、そこに16世紀末中国の芸術水準の高さを示す豪華な副葬品を集め、はからずも後世までの文化財保存の一役をになうことになったのは、死後のいくらかの罪滅ぼしといえようか。

The Great Wall

万里の長城の名所、八達嶺長城
 

 八達嶺長城では、ガイド役の学生が毛沢東の詩の一節「長城に到らざれば好漢にあらず」を繰り返し口ずさんだ。これに励まされるようにして、かなり傾斜の急な長城の上を、二つ目の見晴らしのよい望楼まで歩き、いい運動になった。長城は、月から見える唯一の地球上の建造物とか。峰みねに沿って城壁が延えんと続く眺めは、まさに、雄大という形容を受けるのが最もふさわしいもののひとつであろう。

「中国では何事も遅いのです」

 香山飯店のある香山公園は、広大な山林公園で、北京市民の恰好のハイキングコースとのことだ。毎日暇をみて飯店の近くを散策した。一度はかなり高いところまで登ったように思って帰った来たが、後で地図を見ると、ほんのふもとをうろついていただけのようだった。

 春山飯店のフロントの片隅に、参加者のための旅行案内の窓口が臨時に設けられていた。中国では、帰路の航空券の再確認は航空会社へ電話するだけではだめで、券を持参して判を押して貰わなければならないことになっている。この手続きも、その窓口へ券をあずければ代行してくれるとのことで、到着翌日の月曜日午前中にそこへ頼んでおいた。

 ところが、水曜日の午後になっても券が戻って来ない。担当者は、晩の9時まで待ってくれという。国内の旅行社の作ってくれた旅程表には「火曜日までに再確認をすること」とあったので、一旦無効になり空席待ちになっているのではないかと心配になる。

 なぜそんなに遅いのかと、詰問するように窓口で尋ねると、担当の青年は平然として、「中国では何事も遅いのです」と答えた。航空券は水曜の夜10時頃ようやく私の手に戻ったが、手書きの数字が記入されているだけで、判がない。念のため翌日、北京師範大の C 先生に事情を話し、くだんの青年に中国語で談判して貰ったが、「再確認はできています。心配ならば航空会社へ自分で電話して聞いてみて下さい」との返事である。

 青年の教えてくれた番号に電話すると、いま、コンピュータが故障中で確認できないという。この再確認はどこまでてこずるのかと思いながら、なおも電話の相手に話し続けてみると、それは私のかけたい中国民航ではなく、日航であった。青年から電話番号を聞き直し、ようやく「再々確認」をすることができた。

 帰途北京空港で、2000年の北京オリンピック開催へ向けて、中国はますます開放的になることを目指すという意味の標語が大書されているのを見た。この大きな隣国が「天安門」の過ちを二度と繰り返すことなく、悠然と発展することを祈りながら機上の人となった。

No. 97(1992年11月)、No. 98(1993年1月)、No. 101(1993年7月)

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劇団潮流「つづみの女」

—大岡さん追悼し好演—

 1999年9月9日から11日まで、93年大阪新劇フェスティバル参加・劇団潮流49回公演「つづみの女」が、大阪市中央区南本町のテイジンホールで行われた。一昨年亡くなった劇団潮流演出家、大阪新劇協議会代表幹事で、本会代表世話人でもあった大岡欽治さんの追悼公演と銘打っての上演であった。

 「つづみの女」は潮流創立10周年記念公演の折(1971年)に、大岡さんの演出で好評を得たものとのことである。今回は、初演時に謡の指導をした狂言師、茂山千之丞さんが演出を担当した。

 この芝居は、近松門左衛門の浄瑠璃「堀川波鼓(ほりかわなみのつづみ)」をもとに、作家田中澄江さんが書いたものである。近松の原作は、当時(18世紀初め)実際にあった女敵討ち(めがたきうち、自分の妻を奪った男を討ちとること)に題材をとったもので、事件の原因を封建の武士社会に求め、下級武士の悲哀を描いたものとのことである。近松のこのような描写自体、現代に通ずるものをもっているが、田中さんは見方を変え、「当事者同士の心の内側に」素因を求める形で書いたとのことである(公演パンフレットの田中さんのことばによる)。

 公演のちらしに印刷されていた女主人公おたね(金子順子さん)の「男という男の、自分をはかり大事にする根性が、きょうほどようわかったことはござんせん」とのせりふは、いまの世の多くの男性の胸にも、鋭く突きささるものではないだろうか。おたねの夫彦九郎(藤本栄治さん)の「めんと向かってわしを罵ってくれたのは、あれ一人じゃったな。もっとゆっくり、わしは聴いてやるつもりじゃったに」という幕切れのせりふも、意志の疎通が不十分になりがちな現代の人間関係を指摘しているようである。

 茂山さんの「深刻にならないように、古典的な絵空ごととして舞台化してみたい」との意図による演出は、物語の筋としては暗くて不条理な悲劇を、楽しく観賞できる芝居に仕上げていた。大岡さんの遺志をひきついで行こうとの決意に燃えた出演者たちの力強い演技とあいまって、十分間の休憩を挟んだ2時間半の公演が短く感じられた。

 上演の前後にいつも会場の入口で来客にあいさつをしていた大岡さんの優しい笑顔がみられなくなったのは、さびしいかぎりであるが、今回は、ふだん劇団潮流の稽古場で練習を見守っているという大岡さんの大きな肖像画が、会場のロビーに飾られていた。筆者は、その前で内心会釈をし、潮流のますますの発展を祈りながら会場を出た。

No. 104(1994年1月)

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