IDEA-ISAAC

Diary
青春時代の日記から
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多幡達夫
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Copyright © 2003 by Tatsuo Tabata


目 次


高校生時代(1)
 (2)以下は準備中

大学生時代(1)
大学生時代(2)
大学生時代(3)
大学生時代(4)
大学生時代(5)
大学院生時代
 
大学院生時代


「人は歳月を待たず」

 1958年4月18日

 「おはがきありがとう。桜の花(一つの希望)は先日の埃っぽい嵐(社会矛盾)とその後の冷たい雨(苛酷な現実)に会ってはかなく散りうせたかも知れないが、自然のふところ(一人間の生涯)には、まだこれから花開くいろいろな "the fruit tree yielding fruit after his kind, whose seed is in itself (Gen. 1)" も多いのだ。つねに太陽と空気を求めよう! 入学式の後で研究室へ行くと、すぐその日のうちに輪講と実験の課題が定められ、忙しい大学院生活を始めている。これからは、今までよりずっと完全な形で、自らの積極性と努力と熱意とで進むべき段階なので、大いに張りきってやるつもりだ。ではまたそのうちに。お元気で。」

 4月19日

 ススを塗ったガラスをかざしては見なかったが、木もれ日が無数の三日月模様を地上に落とすのと、晴天の白昼の薄暗さとで、きょうは荘重な天体の行事を感じとった。

 5月15日

Minnie へ
 「その後どのような生活を生活し、どのような考えを考えておられるだろうか。
 「先日われわれの研究室の以前の教授、荒勝先生を囲むパーティがあり、研究室の先輩で会社、研究所、大学等で研究している人たちも大勢集まった。そのとき、和とじの大きな帳面に出席者は墨で記念の署名をしたが、現在のわれわれの教授、木村先生は『歳月は人を待たず、人は歳月を待たず』と書いておられた。陶潜の詩からのこの第一のセンテンスは、ニュートン力学的近似においての(相対論的現象においては、あなたが新聞で読まれた早川教授の『今様浦島』の随筆にあったように、ある系に比べて他の系では時間経過がよりゆるやかということも起こるから)真理であるのに対して、木村教授がつけ加えられた第二のセンテンスは、人間の生き方の運動方程式に対して課せられるべき一つの望ましい条件を示している。
 「大学院生活ももう一カ月を過ぎた。実験の方はまだ、電子回路をいくつも積み重ねた煩雑な測定器械の整備段階で、もっぱら雑然とした仕事ばかりだが、その中にも、勉強になることや勉強しなければならないことが多い。電子回路の一つを新しく組み立てて揃える必要があるときには、シャーシと呼ぶアルミニウム製の箱形の台を、『工場』と呼んでいる何台もの旋盤が並び、沢山のベルトの回っている部屋へ持って行き、手をドリルに塗られている油で黒く汚しながら、ソケットやネジをはめ込む穴を開けたりする。こうして手や身体を大きく動かしていると、奇妙な話だが、実験物理学というものが、古代ギリシャ人的な調和のとれた健康な実体であるというような感じが起る。優雅という連想の伴う理論物理学(優雅という言葉は物理法則そのものに対しては当てはまるかも知れないが、その理論的探究は必ずしも優雅な仕事ばかりではないので、とくに『連想を伴う』と書いた。複雑で煩わしい方程式の取扱いや、いろいろな考え方のどれによってもうまく説明できない現象に対する暗中模索的考察など、優雅さから遠い活動もあるのである。)にも十分魅力を感じていながら、思いきって実験の方に踏み切れた理由は、案外、実験物理学の与えるこの調和観というようなところにあるのかも知れない(何だか、湯川先生の自伝じみた文になった)。
 「大学院の過程では、勉強には多いに積極的に力を入れなければならないのは勿論だが、それと両立させてアルバイトの方もどれ位できるものか、今年は試してみたいと思っていたところ、来月から東洋レーヨン染色試験所勤務の大人たち八名の集まりに対して英語と科学のそれぞれの初歩を講義するという風変わりなのを、大学の厚生課であっせんして貰うことができた。
 さる三、四日には、KJ 君の招きを受けて、初めての神戸見物をした。以前から彼の吹聴によって好ましい秒像を頭に植えつけられていた神戸をまのあたりに見、社会人としての第一歩を元気に踏み出した彼の新しい経験を聞き、湊川神社、元町通り、市役所横の花時計、須磨浦公園等々を見物し、山の近くのよい環境の彼の家へ案内され、全く楽しい二日間を過ごした。神戸の町を流れる生命と、その周囲の眺望の軽快な明朗さが彼の epicurism による洗礼を通して、清澄な印象を私の心にとどめた。

×     ×

 Camus "L'Etranger" [注:カミュ「異邦人」]を読んだ(新潮社版「現代世界文学全集」窪田啓作訳)。この本の解説に
 「カミュは作家には珍しい淡泊さで、先づこの作品の構造と意図を明らかにしている。——私は『異邦人』を二部に分ち、その第一部ではムルソーの見地を書き、第二部では全然同じ行為に対する社会の見地を書き、最後でそれらを一つの悲劇まで持ちこんで行ったわけです。この作で私の言はうとしたことは、うそを言ってはいけない、自由人はまづ自分に対して正直出なければならない。しかし、真実への奉仕は危険な奉仕であり、時には死を賭した奉仕であるといふことです——」
とあるが、真実への奉仕ということは、どこに表わされていただろうか。ムルソーを死へ導いたものは、真実に対する彼の誠実さだっただろうか。作者自身の説明にもかかわらず、この「不条理人」を死刑へ追い込んだものは、むしろ社会と人生の不条理そのものだったようにとれる。
 解説にはさらに、
 「カミュは初めからムルソーを『不条理人』として読者に押しつけてゐるわけではない。できるだけあり得べき人間の感じをこの主人公に与えるために『わざと輪郭をぼかし』て、『不条理人』的な明晰な意識、自己への誠実さを、生来嘘のつけない、そして世間的な利害に無関心な男といふかたちに緩和して描いてゐる。」
とある。この段階では、ムルソーは無意識的な不条理人である。続いての解説にある通り、「誠実への努力といふよりも寧ろ虚栄心の欠如」の状態にあるのである。そして、「太陽のせい」でのピストルの発射、牢獄、「死刑執行より重大なものはない、ある意味ではそれは人間にとって真に興味ある唯一のことなのだ」との考察。
 未来に意味を認めることのできない不条理人としては、ただ一つの確定的な未来である死刑のみに明確な興味を抱き得るのは当然のようである。「死刑」、この「処理済」、「決定的組合わせ」、「協約成立」だけは、同じ未来に属しながら、無関心の対象ではあり得ない。そこに、どうしても感覚的な拒否として、意識の覚醒が生じる。奉仕ということばの根底になければならない意識は、ムルソーの中にここで初めて姿を現すのである。

 1959年1月12日

 Sue[注:スー、Susan の略称。小学校時代の幼友だちの、この日記上での呼び名]に会う。彼女の話から:——大学における社会学、たとえば工場における人間関係というテーマ、文学的表現による感情の現象的把握にとどまる浅薄さ、階級的側面の掘り下げや、経済的構造の追究もみられない。映画「戦場にかける橋」、機会をうまく利用して安易な道をというアメリカ人的態度、伝統尊重の観念のもとに自らの仕事を完遂しようとするイギリス人的態度、等々の人間のいくつかのタイプをみる。終りの場面における爆破された橋梁を前にしての軍医のことば「全くきちがいじみている!」に表わされているような戦争の狂気を読み取る見方もある。——
 明るい話し方になめらかさが加わってきている。マッチ棒のクイズには、いきなり手を動かし始めたが、解決できない。私の解決方法に対して、「両面的な見方が必要なのね」と。

(2003年5月6日掲載)

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