IDEA-ISAAC

Diary
青春時代の日記から
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多幡達夫
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Copyright © 2003 by Tatsuo Tabata


目 次


高校生時代(1)
 以下準備中

大学生時代(1)
大学生時代(2)
大学生時代(3)
大学生時代(4)
大学生時代(5) 大学院生時代
 
大学生時代(5)


専門課程の折々

 1957年1月10日(注:大学3回生の冬休み、金沢で)

 人形 "Unsere Lieblinge" の送り主*から先日、喫茶店「芝生」でマッチ棒のクイズを出題された。縦向きのマッチ棒10本が横に平行に並んでいる状態から、それらの棒を1本ずつ移動させて、5組の交叉状態を作り出すのだが、動かそうとする棒は、つねに隣の2本を飛び越え3本目に交叉させるという規則の下に、5回の移動で完成するのが条件である。松村君を訪ねたとき、彼にこれをさせてみた。彼は約30分たってもできないので、
 「左辺イコール右辺という等式を証明することにたとえるならば、君は左辺を変形して右辺と同じ形にすることばかり考えているようだが、まだ、他の方法もあるだろう。」
というヒントを与えた。すると
 「左辺引く右辺が0になることを示すのか。」
と彼はいうのであった。右辺の変形(完成状態から初期状態への逆の移動)は、分解的な過程であって、容易である。

 * 注:私が中学3年から高校2年の間、祖父、母とともに間借りをしていた T 家の娘さんの S 江さん。人形は私の大学入学祝い。彼女は私の母と同じ学校で教員をしていたが、親元を離れての大学生生活に興味があったのであろう。私より数歳年上の彼女は、この冬休みに母を通して私をデートに誘った。にこやかな笑顔の持主の S 江さんに私は何を話したのか、一つ以外は覚えていない。その一つは、その頃下宿でバートランド・ラッセルの「数理哲学序説」を読んでいて、ある個所で、おかしさのあまり独り声を出して笑ったということであった。デート後に彼女は、私が「喫茶店のドアをずいっと押して、堂々と先に入っていった」と、母に報告した。

×     ×

 "I love to peep into the room between the curtain and the window frame, when they are not thinking of me. It gives me happiness to watch them dressing and undressing. First a little round shoulder comes out of the frock, then the arm; or a sock comes peeling off, and a little fat leg shows, with a dear little white foot for kissing, and I do kiss it, too!"

 "It may be a hard nut to crack" と題した高校時代の日記帳に Sam がタイプしてはさんでくれた上の文が誰の書いたものかが、いま分かった。Sam は「この speaker とその対象物を知れば安心できる。」と書いていたが、それらは、それぞれ月と子供たちであり、文の筆者はアンデルセンである。

  注:この頃、京都でミッション系小学校の女児に英語の補習教育をするアルバイトをしていて、勉強の後お話をして欲しいと、その子にせがまれ、岩波文庫の「アンデルセン童話集」を買って読んでいた。後に大学院生のときの論文輪講で、上記の英文を原子核のストリッピング(粒子剥脱)反応の論文紹介用プリントに引用した。

×     ×

 Camus "L'Etranger" (注:カミュ「異邦人」)を読んだ(新潮社版「現代世界文学全集」窪田啓作訳)。この本の解説に
 「カミュは作家には珍しい淡泊さで、先づこの作品の構造と意図を明らかにしている。——私は『異邦人』を二部に分ち、その第一部ではムルソーの見地を書き、第二部では全然同じ行為に対する社会の見地を書き、最後でそれらを一つの悲劇まで持ちこんで行ったわけです。この作で私の言はうとしたことは、うそを言ってはいけない、自由人はまづ自分に対して正直出なければならない。しかし、真実への奉仕は危険な奉仕であり、時には死を賭した奉仕であるといふことです——」
とあるが、真実への奉仕ということは、どこに表わされていただろうか。ムルソーを死へ導いたものは、真実に対する彼の誠実さだっただろうか。作者自身の説明にもかかわらず、この「不条理人」を死刑へ追い込んだものは、むしろ社会と人生の不条理そのものだったようにとれる。
 解説にはさらに、
 「カミュは初めからムルソーを『不条理人』として読者に押しつけてゐるわけではない。できるだけあり得べき人間の感じをこの主人公に与えるために『わざと輪郭をぼかし』て、『不条理人』的な明晰な意識、自己への誠実さを、生来嘘のつけない、そして世間的な利害に無関心な男といふかたちに緩和して描いてゐる。」
とある。この段階では、ムルソーは無意識的な不条理人である。続いての解説にある通り、「誠実への努力といふよりも寧ろ虚栄心の欠如」の状態にあるのである。そして、「太陽のせい」でのピストルの発射、牢獄、「死刑執行より重大なものはない、ある意味ではそれは人間にとって真に興味ある唯一のことなのだ」との考察。
 未来に意味を認めることのできない不条理人としては、ただ一つの確定的な未来である死刑のみに明確な興味を抱き得るのは当然のようである。「死刑」、この「処理済」、「決定的組合わせ」、「協約成立」だけは、同じ未来に属しながら、無関心の対象ではあり得ない。そこに、どうしても感覚的な拒否として、意識の覚醒が生じる。奉仕ということばの根底になければならない意識は、ムルソーの中にここで初めて姿を現すのである。

 1月12日

 Sue( 注:スー、Susan の略称。小学校時代の幼友だちの、この日記上での呼び名)に会う。彼女の話から:——大学における社会学、たとえば工場における人間関係というテーマ、文学的表現による感情の現象的把握にとどまる浅薄さ、階級的側面の掘り下げや、経済的構造の追究もみられない。映画「戦場にかける橋」、機会をうまく利用して安易な道をというアメリカ人的態度、伝統尊重の観念のもとに自らの仕事を完遂しようとするイギリス人的態度、等々の人間のいくつかのタイプをみる。終りの場面における爆破された橋梁を前にしての軍医のことば「全くきちがいじみている!」に表わされているような戦争の狂気を読み取る見方もある。——
 明るい話し方になめらかさが加わってきている。マッチ棒のクイズには、いきなり手を動かし始めたが、解決できない。私の解決方法に対して、「両面的な見方が必要なのね」と。

 1月13日

Minnie
Minnie
 

 Minnie に会うことは、私の頭をしばらくの間、牛の胃袋にする。他方、彼女の前では、息苦しさも感じる。後のことの原因として、私自身の感情のあり方に加えて、彼女が深刻な否定文をたびたび表明するということがある。「パンセ」読書会中に「こうして学んでいることも、実際の役に立てなければダメでしょう」といった彼女は、最近の2回の会見においても、文学研究における「知性の遊戯」的な点を非難し、「作品を読んで感激してばかりいても何にもならない」ともらした。これらの否定を乗り越えてまい進する肯定的意力が、彼女に欲しい。もっとも、彼女の中には、ある量の温和さが存在し、そこからかもし出される微量の楽天性のため、すべてが否定に傾いてはいない。しかし、目下は、否定文にはさまれて佇立気味であるという感じがする。
 否定すべきことがらを発見あるいは意識することは、株を守ってウサギを待つことの愚かさと無意味を知ることに共通する重要なことではある。しかし、発見された誤謬は、それを踏み越えるに必要な、新たな肯定を発見するためのハシゴがそこに立て掛けられるのでなければ、われわれを無活動状態の中に閉じこめる障壁となってしまう。その状態では、われわれは誤謬の船底に鎖でつながれて、時間の大海を漕ぎ進まなければならない漕刑囚に等しいともいえよう。われわれは、むしろ、滑っている氷の下が安全な陸地であるか死の深淵であるかの懸念を忘れて、ともかく、大氷原の自分の進み得る道を滑っていくスケーターでありたい。
 Minnie はマッチ棒のクイズには、しばらく手を出さずに考え込んでいた。このクイズは性格を映し出す鏡になる。

 3月30日(注:大学4回生になる前の春休み、金沢で)

 しのび足で近づきつつあった春の女神が、足下に突然できた寒波という空気のひだにつまづいて、道端にうずくまってしまい、そこへ馬を駆って引き返してきた一年の中の最も暗い季節の支配者が、脇に抱えた袋の口を開いて、思いがけないときの雪を地上にばらまいたここ二、三日であった。

 4月6日

 Roger Martin du Gard "Les Thibault, VII L'Ete 1914" (ロジェ・マルタンデュガール「チボー家の人々、第7巻1914年夏」山内義雄訳)から:

 「おお!」とジャックは叫んだ「そうした貧しい人々!君はたしかに、その本当のことが分っていないにちがいない!…」
 …中略(注:引用全体はノート約4ページ半におよぶ。)
 「…個人にたいし、単に労働の利益の物質的な分け前ばかりでなく、自由と、時間と、安楽の分け前、それなくしては人間としての尊厳を発揮できないものを取り戻させてやらなければならないのだ…」

 4月7日

 Sue の話から:——駆逐艦と潜水艦の秘術をつくしての、艦長同士が互いに相手の力量に感服しながらの果たし合い。…護送すべき白軍の捕虜と恋愛に陥りながらも、白軍の姿が向こうに見えたとき、義務の遂行のため彼を射殺(41人目の射殺)した後、その死骸の上で泣き崩れる赤軍の女狙撃兵マリウ。…満州の炭坑での中国人苦力の非人間的な取扱い、それに対する一日本人の忿懣、人間らしい生活の下限的条件。…K 紡績工場へ女工の仕事のアルバイトに。——ひろやかな逞しさの性格。

 Sam に会う。彼の話から:——先月は12日間しかこちらにいなかった。4回の旅行添乗。帰ってみれば、業務規定などの変化も多く、浦島だ。…添乗旅行中、私鉄ストに合った同僚がいる。——ダニエルとジャック(注:「チボー家の人々」の登場人物)のように十分信頼し合った、しかし、あまり滑らかには話し合わないわれわれの友情。

 6月*日(注:大学4回生、京都で)

 Minnie へ葉書:

 速さというのは進む距離を時間で微分して得られるものですが、人びとが時間の経過の速さということばを用いるとき、彼らは時間の客観的経過量を主観的なそれで微分していることになるでしょう。この dimensionless な微分商のひじょうな大きさが例年の封書の便りを私に書かせないままに、夏休みをすぐそこまで運んで来てしまいました。…

 8月15日(注:大学4回生の夏休み、金沢で)

 Sue への葉書:

 繁った葉の裏でセミの奏でる交響曲「夏」も、第四楽章「残暑」に入ったようですが、お元気ですか。長い間お借りしていた「チボー家の人々」を読み終えたので、お返しに上がりたいと思います。ついでに、あなたの実践的社会学と私のいささかの数理的雑話とを交換貿易することができれば幸いです。あなたのお暇な日をお知らせ下さい。私は二十一日以後今月いっぱいは、いつでも好都合です。「チボー家の人々」は、まず家庭小説的な親しみやすさで始まり、中心部にいたって示される標準テキスト的な思想展開も、迫真の具体性を伴い、状況の漸進的で退屈な長引きも、主人公たちの行動と思惟のからみ合いのうちに滑らかに織り出されていて、終始面白く読むことができました。

 8月18日

 Andre Malraux の "La Condition Humaine"(アンドレ・マルロー「人間の条件」)から:

 彼は泥濘の中を歩いているのではなく、一つの計画(プラン)の上を歩いているのだった。日々のささやかな糧を得ようとする幾百万の生命のその日暮し的な足掻きは、他のもっと精力的な一つの生命によって押しつぶされ、消し去られていた。

 8月20日

 また "La Condition Humaine" から:

 孤独は無数の人間の背後に厳然として存在している。丁度、希望と憎悪に満たされた荒漠たる都会を蔽っているこの深々とした夜のうしろに原初的な大きな夜が存在しているように。

 8月24日

 「チボー家の人々」を読み終えたばかりだが、その作者が死去した。北国新聞から:

 ロジェ・マルタンデュガール(仏作家)は二十三日北フランスノルマンジーのベルレーム村に近い自宅で死去、七十七歳。十二巻の「チボー家の人々」は二十世紀世界の文学の最高傑作の一つに数えられる。同書中の「1914年夏」は一九三七年度ノーベル賞を受けた。[ベルレーム発=共同]

 春休みにこの日記帳に長い引用をした巻は、ノーベル賞の対象になっていたのだ!

 8月28日

 またまた "La Condition Humaine" から:

 今日はきちんとした背広をきているので、自分の思考まで窮屈になったような感じだった。

 8月29日

 Sue の家へ。
 「葉書に書いたかしら、わたし家庭裁判所の試験受けたのよ。調査官補というの。『補』だからねえ、調査官について歩く助手よ。
 「これ、なに?…じゃ早速。
 「社会学の卒論なんて、わたしたちの大学では、みなアメリカの社会学の影響を受けているのよ。宣伝学だとか、マスコミの研究だとか…。人間の心理の一般的観点からだって分かる自明の結論を、統計をとって一生懸命に出しているんだものね。たとえば、テレビが普及し始めてから3年目までに、人びとのテレビに対する関心がどう変化するかというテーマで、最初の強い好奇心は次第に弱まっていくという、ただそれだけの分かりきったことを、複雑な調査から結論するのよ。産業社会学というのは、その名前を聞いたばかりのときには、ちょっと広い問題を含むように思えたんだけど。ところがね、そうそう、チャップリンのモダン・タイムスという映画見た?機械の発達が、工場で働く人間を、機械の一部分にしかすぎない存在にしてしまうのよ。そういうような状況の下での単調な労働が、どうすれば能率的に行われるかという心理学的な問題とか、そんなものばかりなのよ。それだって、もちろん面白いことだとは思うわ。だけど、もっと根本的な社会構造の問題がほとんどやられてはいないのよ。
 「わたしは、文学の卒論を書こうと思っているのよ。一生続ける仕事の、卒業という一時期までの部分的成果として提出したい…
 「ビール飲むでしょう?うちの即製冷蔵庫で冷やしてあるのを持ってくるわ。
 「…その世論調査にわたしも行ったのよ。森本の付近の八田村というところ。2日間で12、3人の人をつかまえなければならなかったんだけど、最初の日に、日照りの暑い田んぼ道を歩き回って、6人までとってねえ、あとは次の日に十分つかまえられると思ってた。ところが、次の日はたいへんだったわ。河北潟の開拓地、あら、干拓地だわね、そちらの方の畑へ出かけている人たちがあってね、その家から1里ばかりも離れてるんでしょう。『あなた独りではとても行けませんよ』といわれたのよ。途中にヒザまで沈むヌカルミがあるんだって。『そこへ行き着いたにしても、独りではとても探せないだろう』ともいわれたわ。広いところにたくさんの農夫がいるんだからねえ。とうとうあと4人というところで、支局へ電話して、オートバイの応援を頼んだわ。誰に投票するつもりかと尋ねると、その村出身の県会議員とかいう人がいて、その人がこんどは誰々にというと、みなその指示に従うことになるというところがあるのよ。それでは回答の記入のしようがなかったから、では、その議員は誰に入れろといっているかと聞くと、『M さんだといっている』といったわ。」
 他に、野上弥生子の「迷路」の筋の詳細な説明、宮本百合子の「播州平野」などの話、その他、二三の女流作家についても。開高健の「裸の王様」について、「絵の具会社の社長の家、"資本家" だから大きな家、…。最近の芥川賞作品はとくに深い掘り下げといったものは感じられないが、みな新しい感覚のものばかりのよう。」

 9月21日(注:京都で)

 真木君へ葉書:

 「空がエーテルのように透明」というプーシキンの表現を想起させるような様子を呈する季節となったが、君がこの一週間欠席されたことは、君の健康状態を表現する波動関数が何かのポテンシャル障壁に出くわしたのではないかという懸念に私を追い立てるので、一筆お見舞い申し上げる。講義は相変わらずの調子で始まっている。来月早々試験期間に入るが、相対性理論、関数論、近代解析、実験法以外の科目はないようである。私はこの夏休みにも精神の散漫さという散乱現象の断面積が大きく、自分で勉強したい本が十分読めなかったので、残念ながら、夏休み以後、近代解析と水曜のロシア語とは出席していない。平生よく勉強している君だから、少し長く休んでも心配はいらないが、ともかく波動関数の波束をふたたび結束して、早く障壁を乗り越えて出て来たまえ。

 11月22日

 伯父・伯母へ葉書:

 木枯らしに吹き払われるのも間近い紅葉が、生命の全余力を燃え上がらせて灼熱状態にあるかのように美しいこの頃です。…

 12月17日

 Minnie へ葉書:

 シュレーディンガー方程式というもので計算されるところの、原子核のまわりの電子の軌道運動までが速度を増すのではないかと思われるような、年末の一般的なあわただしさに加えて、卒論完成の忙しさのため、あなたの頭は目下大きな角運動量で回転中かと思います。私の実験は、今のところ導線や抵抗のハンダ付けばかりなので、大学院の試験後、余暇はもっぱら文学や哲学への徘徊で過ごしてしまいましたが、もうそろそろ物質の微細な解剖の学問への忙しさへ戻らなければなりません。教員試験でのあなたの奮闘を期待します。お邪魔でなかったら、帰省後26日頃におうかがいしたいと思います。


卒業間近

 1958年2月16日

 I 君が最近移った下宿は、離れ部屋である。片隅を階段の底が斜めに走っている四畳半だ。ひまわりに薬品を注入して栽培し、葉緑素に生ずる変化を観察している K 君も来ている。机に布団をかぶせ、中でジュール熱を発生させてこたつとしている。電球、蛍光灯スタンド、手製ラジオなどの間に引き回されている何本ものコードが、部屋にシャーシーの裏側の感じを与えている。
 「これはネコの座布団だが、どうぞ。蛍光灯をこちらへ出そう。」
 「電灯を押しピンでとめなさい、クリスマスのときにやったように。」
 「この辺りは便利なところだ。いろいろな店がある。誰かがいったよ。質屋もあるじゃないかって。」
 「田舎へ帰ったような懐しい感じがする通りだね。」
 「これは、きょう会社から送ってきた新聞。」I 君が「にいはま」紙を差し出す。彼は SK 社に就職が決まったのだ。
 「南極本観測ができないのは残念だね。」
 「トランプはどうです。」I 君、トランプゲームの本を出す。
 「これは人数が合わない。」なるほど、solitaire という題名か。
 「ゲームの名前を読むだけでも面白いじゃないか。永久運動なんてのがある。」
 「罪ですな。」
 「総長暴行事件の判決があったね。」
 「いや、求刑だよ。」
 「なぐったりってことが実際あったのかね。彼らでなくっても…。」
 「ぼくは全然なかったと思うね。考えられないことだ。」
 「判決はあいまいな形で出されるだろうね。」

 2月18日

 そのような大胆な考えが実際に表明されたということは、注目すべきである。一見勇敢でたくましい意力である。しかし、深い泥沼にスネの半分をひたしながらも前進する足に対する感傷的憧憬のヴェールを透して現実を見ていないだろうか、……でも、とは!——が、その危惧はいまは必要ではあるまい、たとえ後に必要になろうとも。軌道運動に達するまでの重力からの脱出過程においては、将来の宇宙旅行において人が見ることを経験できるかも知れない、飲もうとするぶどう酒のグラスからの浮遊を、人間の精神も行わないではいられないのである。

 2月21日

 追い出しコンパ。
 「最後のかた、将来の抱負をどうぞ。」
 「そちらのほうからは、ひじょうに学問的な抱負が述べられましたが、私はきょうは、どうも頭がぼんやりしています。それというのも先ほど映画を見てきたからです。アガサ・クリスティ原作の探偵物の試写会です。原名 "Witness for the Procecution"、『検事側の証人』です。広告に『この映画をご覧になったかたは結末をお話しにならないで下さい。』という文がついています。終りにたいへんなどんでん返しが生ずるからなのですが、私の将来にもどんな逆転が起こらないとも限りません。それで、私の将来についても沈黙を守ることにします。」

 2月22日

 W. Heitler "Quantum Theory of Radiation" から:

 The expression 'simultaneous measurement of two quantities' is not used here in the sense 'measurement at the same time', but means that the reciprocal influence of the two measurements is taken into account.

 2月25日

 International privatel law, "renvoi", "double renvoi"(2国裁判所間のキャッチボール), definition of domicile(選択居住地の体素、心素), notion of marriage (polygamy of the Hindu)。(注:Abe から法律学の話を聞かされたのであったろう。)

 2月27日

 朝日新聞に次の記事:

 [ゲッチンゲン(西独)25日発UP=共同]ノーベル物理学賞受賞者、西独のハイゼンベルク教授は25日ゲッチンゲン大学で「素粒子理論の進歩」と題する講義をし、その中で同教授を中心とする研究グループが故アインシュタイン博士の考えていた「統一場の理論」の研究を発展させ、すべての物理学上の法則を例外なく説明する基本方程式を発見したと発表、…。

 3月4日

 卒業研究レポートから(共同研究者 M さんによる):

 レジスター動かず、レジスターへのコンデンサー0.01μF を0.02μF にとりかえ、一時動いたが、再び動かず、レジスターのネジが切れていたためと判明、ネジを巻く。
 Preamplifier 配線図誤りのため、配線し直す。正しい配線図18ページの如し。完成!
 測定中配線誤り発見、(注:抵抗とコンデンサーが5極真空管グリッドに接続されている図あり)を最終段 (3) へ入れていたのを最終段 (6) へ入れる。

 4回生の手から手へノートが回されている。われわれの受けた講義の批判を書き記すものである。多分この試みの創始者である A 君が、最初に各講義への手の込んだ批評——大部分は欠点の指摘——を書いている。それに続いて、いろいろな筆跡で正当な悪口雑言と、わずかばかりの賛辞が並んでいる。「実験原子核物理学」が最も激しく叩かれている。「浪花節的処世訓だ」などと。湯川教授の講義も好評ではない。「教授の人格の片鱗がうかがわれるだけがミソ」というように。「スレーターのオダンゴとは何のことかわからない。」と誰かが書いている「原子物理学I」には "I like his good English accent." などと、私もところどころに書いた。高校生などに見られる卒業ぎわの乱行的悪趣味。しかし、建設的側面も大いにあるであろう。

 3月10日

 「わたしの中に悪魔がいるの。」
 「追い出しなさい!」(注:家庭教師アルバイト先の小学生との会話。)

 3月11日

 葉書(注:Minnie 宛か。)

 レポート提出日の午後5時まで計算機(注:タイガー計算機という、ハンドルを手で回して乗除算をする装置)を回して実験データを整理し、卒業研究をどうにか完成したところです。卒業式はやはり25日なので、それまで京都の3月の空気を味わいながら、宇宙を構成する粒子とその雰囲気——field(場)と称するもの——との相互作用などの理論を勉強するつもりです。「魅せられたる魂」にちょっと登場する「いや!ぼくたちに何ができるんだ?ぼくはアインシュタインでもランジュバンでもないんだ。彼らにしたところで、彼らの反対が何の役に立つだろう?彼らは科学の内に踏み止まって入る方がいいだろう。」という非社会的態度の硝石有機化合物研究者とは対蹠的であろうとするために必要な社会科学のいくらかをも、できれば摂取したいものですが。

 3月13日

 (注:ハイゼンベルク博士が明らかにした素粒子の基礎方程式を報ずる朝日新聞の囲み記事「これが宇宙方程式」の切り抜きを貼付。)

 3月16日

 文部省教育課程審議会の小・中学校に対する新教育方針に関する答申中に、『体育…戦前の「回れ右」「右へならえ」を復活。』とある。思想の「回れ右」「右へならえ」につながらないかと憂える。

「大学生時代」完
(2003年5月6日掲載)

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