IDEA-ISAAC

Diary
青春時代の日記から
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多幡達夫
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Copyright © 2000 by Tatsuo Tabata


目 次


高校生時代(1)
 以下準備中

大学生時代(1)
大学生時代(2)
大学生時代(3) 大学生時代(4)
大学生時代(5)
 
大学生時代(3)


春のためらい

 1955年3月8日(火)晴

 紫色の印象。

 3月9日(水)雨

 「虞美人草」。高校2年の国語教科書に、川端康成の「小説の構成」という文が載っており、その中に「夏目漱石の『虞美人草』においては複雑なプロットが十八章の三挺の車とともに終結に近づき藤尾の死のクライマックスに達するわけである。」とあった。そのためもあって、宗近家から出る三挺の車は、いかにも結末を目的地として走っていく車という感じがした。場面転換の繰り返しが手際よくなされているところは、小説の世界という構成物を、地球儀を回すようにして見せられているような思いを抱かせた。万人を生のうちに維持する道義という縄の境界線を無視した跳梁。この跳梁は、「己れの為にする愛を解」し、「人の為にする愛の存在し得るやと考へたこともない」藤尾の性格に発する。

×     ×

 「坑夫」。主人公の心理の精緻な分析と、「シキ」の内部の精妙な描写が、この作の迫力を生み出している。主人公が松原を歩いていて、どてらを着た男に呼びとめられたところの、次の言葉を読んだときには、十一月祭での生島教授のジュリアン・ソレルの性格に関する言葉が思い合わされた。
 「近頃ではてんで性格なんてものはないものだと考へて居る。よく小説家がこんな性格を書くの、あんな性格をこしらへるのと云って得意がっている。読者もあの性格がかうだの、あゝだのと分った様な事を云ってるが、ありゃ、みんな嘘をかいて楽しんだり、嘘を読んで嬉しがってるんだろう。本当の事を云ふと性格なんて纏ったものはありゃしない。本当の事が小説家抔にかけるものぢゃなし、書いたって、小説になる気づかひはあるまい。」
 昨年の4月25日に「ジャン・クリストフ」中の記述と自分の経験を結びつけて「同一のものでないかと思う」と書いたものと、また同一ではないかと思われる心理的事象の記述を、「坑夫」の中に見出した。主人公「自分」が汽車から降りて真直ぐな大道に立ち、そのあくまでも長い一本筋の端までを見通したときの次の描写がそれである。
 「此の世でなければ見る事の出来ない明瞭な程度と、これに伴ふ爽凉(はっきり)した快感を以て、他界の幻影(まぼろし)に接したと同様の心持ちになったのである。」
しかし、「但し此の心持ちは起ると忽ち消えてしまった。」というところは、ぼくの場合とは異なっている。
 山の中の破屋(あばらや)に「長蔵さん、自分、赤毛布、小僧」が泊まることになったあたりに、  「よく調べて見ると、人間の性格は一時間毎に変って居る。変るのが当然で、変るうちには矛盾が出て来る筈だから、つまり人間の性格には矛盾が多いと云ふ意味になる。矛盾だらけの仕舞は、性格があってもなくっても同じ事に帰着する。」
とあるが、この作のところどころにこういう考えが顔を出している。先に引用した、小説家に性格が書けるものではないという文は、この後へ適当につなぐこともできるものである。上記の、人間がその性格において刻々同一ではないという見方は、ヒュームの哲学の「自分とか私とかいうものは次々と速やかに現われる多くの表象の複合に他ならず、われわれはこの複合物の下に一つの虚構された基体を置いてそれを心とか、自分とか、私とか呼ぶのである」に通じるところがある。

 3月10日(木)晴れたり曇ったり、一時雨

 風と小雨と、それに一時はあられさえも混じって降った中を、二時間余り徘徊した。入りがたく、去りがたかった。Romeo であった。三度門前を通過した。雨が降りだしたときには、これは好都合だと思ったところ、足の力が抜けたように感じた。が、さして好都合ではなかった。驟雨の豪雨だったならば、決行できただろうに。

 3月12日(土)晴

 「二十の扉」の長島アナウンサーは「弥生の空」を「時間」に関係がないといっていたが、広い意味の時間には大いに関係がある。「ガスではありませんが気体です。」も少し困る。

×     ×

 躊躇した。浮動した。逍遥を重ねた。Sam への葉書投函。
 Octo の訪問を受ける。読書のことを中心に話す。

×     ×

 高校3年のときの英語乙のテキスト中の Poe の次の文を、「盗まれた手紙」の中の「デュパン君」の言葉として昨日見出した(岩波文庫版 p. 168)。
 "I protracted my visit as long as possible, and, while I maintained a most animated discussion with the Minister, upon a topic which I knew well had never failed to interest and excite him, I kept my attention really riveted upon the letter."
過去の英文解釈の素材を、現在の娯楽的読書の中に発見するのは、懐しく楽しい。
 「マリ・ロジェエの迷宮事件」の終りで Poe が誤謬だといっている考え方は、誤謬ではないと思う。Poe が誤謬とする意見が述べている通り、未来に属する3度目の振りは、けっして過去のサイの目の影響を受けはしない。ただ、3度の振りがすでに行われたものとして、その中の第1度、第2度がオール6だったとすれば、振ってしまいはしたが、まだその目を見ていない第3度の結果もオール6である確率は1/63n(n:サイの数)だといえるから「3度目にはまず "出ていない" だろうという方にうんと大きく賭けていい」ことになるであろうが、振りが未来に属する場合には、確率は1/6nより変化しないはずだ。——しかし、3度目だけを問題にするのでなく、1度・2度・3度を一連のものとして考えるとき、未来の振りと過去の振りの区別は取り去り得るであろう。そして、3度目の結果があるものである確率を、そうなった全体の状況の起こる確率と同一視し得るであろう。この点では、Poe の主張も正しいことになる。——パラドックス的である。
 「盗まれた手紙」中の「x2 + px が、絶対無条件に、イークォル q だということを、いわば一種の信条として、ひそかに信じていない人間には、かつて一人として、お目にかかったことがないといってよい。」(p. 162)という記述は何を意味しているのだろうか。「x2 + px が、絶対無条件に、イークォル q 」は、単に信条というものの代表としての表現であろうか。

 3月14日(月)曇ときどき雨・あられ

 昨日 Octo とシネマスコープ "Long Gray Line" を見に行った。ウエスト・ポイント陸軍士官学校で体育助教として長年勤めた主人公マーティ・マーは、彼がそこにおいて institution 的存在になった点において、また、候補生たちをわが子のように愛した点において、チップス先生を思わせるところがあった。彼の妻メリイは、「グレン・ミラー物語」におけるその主人公の妻と同様の役割を果たしていた。

×     ×

 昨年の暮、君が K さんへの手紙をしたためたときの日記に、君は確か「人に読まれる文を書くのだという意識が自分に虚飾的な文章を書かせる」という意味のことを書いていたようだ。これに似たことは、君がぼくとの交換のための日記帳を作った日の最初の記述中にもあったと思う。虚飾は本来無意義なものであり、さらには害悪でさえあるといえよう。しかし、虚飾がその目的を完全に遂げることができれば、それは虚偽の現実化であり、もはや虚飾ではなくなる。このような虚飾の現実化が、純粋な向上意欲と結びついているのであれば、それは善であるかも知れない。(注:この節、若干修正)

 3月15日(火)晴

 金大合格者発表。M、S 両君落ちる。

 3月17日(木)晴

 帰省以来の弛緩が極大値に達した。一連の反省すべきことがらに切断を与えよう。
 「後悔は何の役にも立ちません。後悔とは後に戻ることです。そして善に於ても悪に於ても、常に前へ進まなければいけません。前へ勧め、サヴォア兵!です。」
この「ジャン・クリストフ」中のグラチアからジャンへの手紙の一節が、今のぼくに激励を与える。

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 「罪と罰」読了。「虞美人草」が、道義の縄を跳梁する行為が死をもたらすことの実験的証明であったとすれば、これは、生命を無視しての目的と動機の跳梁が道徳背馳に等しいことの検証だといえよう。一見無関係な彼我の二作品が、テーマの根底においてきわめて類似しているのは、興味深い。

 3月22日(火)曇

 Tom への葉書:
 君がいよいよ学生生活という地面の上の滑走を終えて、社会という大空へ飛翔することになったことを心から祝福し、これからの君の航行が順調な気流に幸いされることを祈る。それとともに、どんな黒雲の堆積の中へ機首を突っ込まなければならない場合にも、正しい方向にばく進するための原動力である分別の方向舵と勇気のエンジンの働きを鈍らせない心構えを持って離陸するように希望する。
 ところで、ぼくは昨晩思いがけなく君の最近の努力の一結晶を鑑賞させて貰うことができたので、ひじょうに愉快だった。関君(注:関は Tom の芸名)のお父さんぶりは、その表情の豊かさといい、音声の迫力といい、火山研究所の万年助手らしい動作の落着きといい、新しいセンスを持った慈父としての話しぶりといい、じつに見事だったと思う。人間的闘争を抑制する理性を舞台の上で追究するという君の一つの大きな願望を、今後も力強く押し求めて行くことが、君の航行の潤いあるレーダーとなるであろうことは、ぼくも共に喜びとするところだ。

×     ×

 Jane Austen "Pride and Prejudice"(岩波文庫版)読了。著者21歳のときの処女作としては、じつにすばらしいものといわなければならない。家庭小説といわれるこの作品には、なるほど幅広さや力強さは少ないが、田園の家族の生活がこれだけ手際よく精神面へ投影されていることには、そこに十分な価値が蔵されているといえよう。「高慢」に包まれて育ったために付着していた冷たさが、愛の対象の出現によって自ずと和らげられて行くダーシー、いつもの適確な判断力が彼の前では一時「偏見」に陥っていた結果、持ち前の快活さも下火になるほどの不安な精神状態を経験しなければならなかったエリザベス、彼女の姉で「寛大」の権化であるジェーン、彼女たちの妹メアリ、ケァサリン、リディア、父のベネット氏およびその夫人、ダーシーの友人ビングリー、ダーシーの叔母ケァサリン・ダ・バーグ夫人、その他の人びと、それにロングボーン、ネザーフィールド、ハンスフォード等々の地名、これらすべての固有名詞が、読み終わって反復してみるいま、ひじょうに懐しいものになっている。このような、固有名詞の読者の心に対する親和力には、英米の女流作家の場合には、何か共通した特別の温かみが加わっているような気がする。女流作家のものだと意識して読んでいることから、あたかもその作家自身の口から語り聞かされているように感じられるという心理現象も影響しているかも知れない。
 岩波文庫解説目録は、この書に関して、「ここにいう『高慢』とは男性が女性に対する優越感であり、『偏見』とは女性が男性に対する劣等感を意味する。」と記しているが、これは少し外れているように思う。この文では「高慢」と「偏見」がそれぞれ男性と女性一般の所有物であるようにとれるが、そうではない。作中では、男性の方に身分的・財産的優位があったから、「高慢」が生じたのである、という点でこの文の非厳密性を責めないまでも、偏見を劣等感と等値した点では、完全に反駁されるべきである。この書には、女性の劣等感などといったものは、少しも述べられていないと思われるからである。エリザベスは、普通の人間が劣等感を抱くべき情況においても、むしろそれを抱かないという性格の持主として描かれている。家族を誇りにできない点が、彼女をいくらか困惑させることはあるが、彼女はけっして劣等感には陥らなかった。第56章におけるケァサリン・ダ・バーグ夫人に対する彼女の応答は、このことの明らかな証拠になると思う。

 4月4日(月)雪のち晴

 休養し娯楽することにおいて、さらには退屈することにおいて、多忙だった。  昨日、映画 "Le Rouge et le Noir" を見た。吉浦の伯母に声をからして読み聞かせながら、一昨日までに第14章まで復読してあったのだが、これだけの部分は映画では、10分足らずで済まされていたようである。原作にある友人フゥケ訪問の個所がなく、ヴェルジー北方の大山脈付近の「広闊壮大な風景」が見られなかったのは残念だ。幼い頃のジュリアンに影響を与えた彼の伯父とかいう老軍医正のことを、ジュリアンがレナール家へ運んだ荷箱に関連させて出したところは、原作の物語形式の劇形式への転換の一例であろう。映画ではデルヴィール夫人も省かれ、「田園の一夜」の章の10時の鐘は10時半の鐘となっていた。ダニエル・ダリューは、河盛好蔵氏の言葉通り、いかにも老けすぎていた。ぼくの脳裏にいままで位置を占めていた豊かな体つきのレナール夫人が、やせて小柄な彼女の像によって邪魔されるのは、あまり好ましいことではなかった。しかし、この映画全体が、ぼくの脳中の「赤と黒」の全イメージの完成に対して添加したものは、この不満を補って十分にあまりがある。

 4月6日(水)晴

 この休暇中の、太陽から地上にふり注ぐエネルギーがきょうのように豊富であった日々、そのエネルギーによって、精神の底部がつり下げている分銅が大きな浮力の作用を受けた日々に感じた、あるいは、感じなければならないと感じて、感じることに努めた、もしくは、自然の勢いで感じさせられた感情について、少し大げさな記述をしなければならない。
 決行すれば決行できた一つのことを、この休暇中にぼくが決行しなかったのは、「罪と罰」の中にラスコーリニコフの思索として出て来る次のような臆病さのためであっただろうか。
 「ふむ…そうだ…一切の事は人間の掌中にあるんだが、ただただ臆病のために万事鼻っ先を素通りさせてしまうんだ…これはもう確かに原理だ…ところで、一たい人間は何を最も恐れてるだろう?新しい一歩、新しい自分自身の言葉、これを何より恐れているんだ…」
 臆病は確かに、ためらいの有力な核心構成物であろう。ぼくの躊躇の中にも臆病が、恐れがなかったとはいえない。しかし、躊躇がかえって上分別であり、不決行がより強いそして有益な決断である場合もある。このような場合の躊躇・不決行は臆病に発するものとはいえない。それは、向こう見ずな勇気を矯正し、無意味な欲望を抑制する知恵と忍耐であろう。ところで、これらが今度のぼくの躊躇の大きな構成要素であったかどうかを判断することは、いまのぼくには、まだできないように思われる。というのは、現在のぼくが、この判断の唯一のそして決定的規準である今回の躊躇の有用性・無用性に対する見極めのできない精神状態におかれているからだ。しかし、いまや不決行は決行された。機会と手段は自ずと次の新しいものへと変更されなければならないのである。
 ためらいについて、もう一言記そう。この種の精神状態(これが何を指すかは君が容易に推察するところであろう)においては、ためらいそのものも、一つの幸福な感情を生じさせる。したがって、ためらいの中止が、突如としてこの幸福を奪い去るかも知れないという考えが、いっそう、ためらいを長引かせるということもあろう。
 しかし、ぼくとしては、もうそろそろこの種の感情の新しい活発な段階へ入らなければならない。ジュリアン・ソレルのように「義務」を感じる。

×     ×

 天なる祖父、ぼくの記憶中のその面影の最も主要な側面は、厳格さの象徴という面である。

===(注:ここでノートを交換)===


 4月8日(金)うす曇

 昨日この下宿へ来て、君の未着を知ったとき、ぼくが受けた衝撃——と呼ぶほどの心理的事象ではないが、より適当な言葉が見当たらない——は宇治に下宿していた頃のぼくに対してならば、おそらくかなりの精神的動揺を与え、内心に不快感の津波を起こさせたであろう。しかしいまや、新しい光明がぼくの心のそうした不安定性を駆逐した。白く柔らかく落ち着いた空気を呼吸しながら、荷を開き、読書し、思索し、精神は時計の針の回転とともに静かに行進した。

×     ×

 休暇中の君の日記は、その記述が君の実際生活と緊密に結びついている点で、ぼくに読む喜びを与えるものであった。

 4月12日(火)快晴

 かつて赤い自転車に期待をかけ、それが家の近くへ来るのに胸をとどろかせ、また、それが何物をももたらさないで行き過ぎるのを見て怨めしく思っていたことのあるこの季節。先日来、すぐ北に横たわる小高い山を望んでいるこの窓辺に、机に向かって坐っていると、この季節特有の柔らかい香りが鼻を微かに撫でる。こちらへ来たばかりのとき、それが彩ることのできる最も大きな容積の空間を淡紅色に染めていた、同じくこの窓から見える疎水べりの桜樹は、もうその空間に五分の若緑色を混入している。
 自覚を要請するような清新さを伴って、新学年の授業が始まった。のどかにくすんだ淡紫色の空を背景にして、えび茶色の建物が緑色の木々をまとっている。吉田分校25番教室からの本学時計台以西の眺めは、この大学に学ぶ誇りを改めて感じさせてくれた。

 4月15日(金)曇・小雨

 「レンズ替え街路をよぎる云々」の替え歌を再び胸中に口ずさむ。
 いくらかの沈滞的な気分、しかし、もう恐ろしくはない。
 数理統計学の講義は、introduction として、その歴史に関するものだったが、高度の有機的結合と称せられるものを自ら構成しようというわれわれ有機的存在の野望についての空想をよび起こさせられるところがあった。

 4月16日(土)雨

 決行しないという態度をとる方がよい行動といえるかも知れないというぼくの考えに、君は反対したが、それは、君が「決行」のもたらすもう一つの別の結果を考慮しなかったために、ぼくの立場を理解できなかったのではないだろうか。ぼくが恐れたのは、必ずしも決行の結果の失敗ではない。成功にも、一時的成功と、永遠的価値のある成功とがあるのであって、後者を求めるには、いくらか慎重にならざるを得ない。

(2000年9月10日掲載)
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同室下宿生活

 4月17日(日)雨

 (注:以下は Minnie への手紙の下書き。)
 水滴が地面に対して攻撃をしている新学年最初の日曜と手紙文を書くことの間に成立していた一種の神聖な(この言葉は、人間の精神的態度のうちの向上希求性側面に付随している形容辞であるとみなして使うのですが)連想に、一方では駆り立てられて、また、他方ではそれをさらに強化することによって一層の神聖さを獲得しようとして、いまペンをとることにしました。
 先日来、御地北陸では真夏にしか見られないような陽光の明朗な輝きが続いていました。そのために、空はあたかも乾燥し切ってしまい、いまや湿気のヴェイルによって潤され、その陰で憩う必要が生じたかのように、その必要の充足物をこの地上で掴まえて、もっぱら安息をむさぼり味わっています。したがって、われわれのこの安息日は、室内で静かに送られるべく余儀なくされていて、午前中もドイツ語のテキストの一つ、ウィーン生れの心理主義の作家 Stefan Zweig の短編小説集の中の "Brief einer Unbekannnnten" (未知の婦人からの手紙)の単語を調べていたところですが、この小説の題名(まだ数ページしか読んでいないので、「内容」とはいい難いのです)も、いまのぼくにペンをとらせた一つの微かな原因であったかも知れません。
 あなたも大学生活の二番目の四分の一の初めを、われわれの生涯の各点においてしばしば見出される精神の清新さを抱いて元気に踏み出されたことでしょう。われわれの大学では二回生としての一年間を、大学本部の正面にある元三高校舎だった吉田分校で学び、三回生になって初めて各学部の学舎へ入ることになっています。それで、今春はまず宇治から京都へという環境の大きな変化を経験しました。そのため、この学年の初めに当って感じた清新さの濃度も、けっして薄くないものでした。
 新しい下宿は市の北部の静かな住宅地域にあり、少し北には小高い山が学習に疲れたこれからの週末のわれわれを散策に誘うような姿で横たわっており、窓からは若緑色の草に包まれた疎水の土手や、そこに黒く突き立っている、花を散らした後もなおその葉の色合いにおいて若々しい桜の樹や、家々の落ち着いた構えの門が、この雨天にもかかわらず、光彩の多い一幅の絵を作り出しています。
 このようなよい眺めの他に、この下宿の部屋には、ぼくの心をつねに愉快さのクリームで満たし、朗らかさの衣で包んでくれる他の存在があります。それは、宇治分校への通学時に知り合って、ジャン・クリストフとオリヴィエの間に生じたような友情に——いま書いたばかりのことを隣の机で "Petits poems en prose" を調べている彼に告げると、彼は苦笑するのですが——到達したので、こちらで同宿することになった法学部の友人です。(上記の二つのセンテンスは、一見不要なもののようですが、この手紙が決して感傷的精神の産物でないことの証明として役立つと思い、あえて挿入しました。)
 下宿の紹介はこれくらいにして、毎年八月十六日の夜それに沿って盂蘭盆の送り火が灯されるという、土壌を掘り返して大きく刻み込まれた「大」の文字を肌に持つ大文字山を東に控えたわれわれの大学(その「大」の字は、望まれる位置の適当さのため、大学の「大」を象徴するように見えるのですが、その文字の本当の意味はまだ知りません)での講義の様子を以下に記したいと思っていました。しかし、この一週間には、まだそれに適した題材が得られませんでした。とにかく、講義が二週目、三週目と本格的になって行くにつれて、われわれの忙しさを表わす曲線も、その導関数の正の値をますます大きくして行くだろうということだけは確かです。
 昨年いただいたお手紙の中で、あなたは読書を一つの大きな楽しみとしていると書いておられましたね。その趣味は、目を媒介として心を他の世界に投入し、そこにおいて新たな経験を得ることができるものであり、また、われわれ人間のみに対して著しく複雑化した性質と機能を帯びて与えられた「考える」という能力を活用し増進させることのできるものといえましょう。それは、ぼくにとっても最も強い親しみを感じる趣味の一つとなっています。ぼくのいままでの読書歴といえば、桑原武夫教授の「文学入門」の巻末にあるリストを参考に(昨年京大文化祭での講演で河盛好蔵氏は、このリストを冗談を交えた口調でですが、あまり有益なものじゃないといっていました。しかし、束縛されることなく一つの指針とするならば、有効に利用し得るものと思います)いくらかの外国文学の古典を読んだのが、その主なものとなるでしょうか。この間の春休みも、読書を第一の仕事として過ごしました。
 読書から受ける収穫や醍醐味にもいろいろな種類のものがありますが、あなたの味わい摘み取っておられるそれらは、どんなものでしょうか。もしもお聞かせいただけるならば、幸せに思います。ぼくの読書論をお聞きになりたいでしょうか。それはいつか気の向いた暇なとき——ちようど、きょうが学年の初めのこちらの情況をお知らせするこの手紙を書くのに似つかわしい日だったように、読書論を書くに適したとき——がありましたら、また書くかも知れないということにしておきましょう。
 網膜の組織が緑色に対する感受性を大にする時刻が忍び寄って来ました。雨はもう止んでいます。"Das Ewige" (永遠なるもの)とつぶやいて、この四枚の紙を一冊の便箋からもぎ離すことにします。お元気で。
 P. S. この手紙は、あまりにも衒った表現を試みましたので、「吾輩は猫である」の中で苦沙弥先生が巣鴨にいる天道公平と称する人物から受け取った手紙のような、奇妙な文の多いものになってしまいました。お許し下さい。

 4月20日(水)曇ったり晴れたり

 アルベルト・アインシュタイン死去。Der Mensch ist sterblich. という単純で明瞭な事実を表わしている言葉を、改めてしみじみと想起させられる。しかし、われわれが sterblich な3次元空間における生物ではなく、時間を見下ろすことのできる、また、その時間的超越性のため unsterblich な4次元的生物であったとしても、アインシュタインの考え出した理論をより容易に知ることができたかどうか疑問である。かえって、われわれは4次元的存在であることによって、脳細胞の3次元的組み合わせが作り出している思考作用にはあずからないという不幸な状態の中にいたかも知れない。

 4月21日(木)晴

 「死せる魂」読了。社会における人間の矛盾的行動の戯画と呼ぶことができようか。チチコフがその遍歴において求めるものが(直接的には死せる農奴であるが、究極的にいって)単に物質的なものであるために、彼はわれわれが親しくなりたいと思うような種類の架空の人物ではない。

 4月22日(金)快晴

 Das Geheimnis——君がそれを保持しない場合に、他人に何らかの害が生ずることがない限り、それを保持する必要はないと思う。そして、この場合、害が生じないことは明らかである。なぜならば、害が生じるためには、その Geheimnis の内容(それに関係ある人物があれば、それも含めて)とその内容を知りたい人物の間に、何らかの変化を起こす媒介となる糸がなければならないが、いまの場合はそうしたものが見出されないからである。(注:Abe と同室の下宿生活に入ったため、この頃、日記帳は交換することなく、随時見せ合っていた。したがって、以下には Abe との日記帳上の論争がひんぱんに現われる。)

 4月23日(土)晴のち曇

 ぼんやりとした温かさと君がいったもの。The fair sex のこの特性がわれわれの中におけるある感情、「若きヴェルテルの悩み」中の表現によれば「空想の羽を借りて大空を翔ける」感情の上に、一つの大きな支配力を持っているのであろう。体育の時間、細胞の温かな構成から来る光線の柔らかさをときどき目でとらえてみた。

 4月24日(日)雨

 変化を起こす媒介となる糸の他端の可能なありかとして、ぼくは Geheimnis の保持者自身を考慮することを忘れていた。それは、ぼく自身の生活態度が、君が第三の領域と呼んだ、自己以外の誰の介入をも許さない領域の必要性を認めない傾向を持っているからだ。しかし、君はその領域を必要とし、また、理論によらず、感情のみによらず、「生来の規定と約束」による「運命的」なものとして、それに固執している。そして、その領域が中心となって作り上げている五つの判然とした領域による地方分権主義によって、秘密公開要求者に対抗し、問題の糸の一端をみごとに第一の領域に握らせてしまった。この分権主義に対する君の執着が消滅しない限り、ぼくは公開要求を取り消すのが当然だろう。
 ところで、君は生来の生活主義を妨げようとする理論を無条件で退けている。しかし、もしもその主義が完全に不合理性を指摘されても、なお理論に対する屈服を承認しないとするならば、それは自然と理性のあらゆる秩序に反するものであり、たとえそのまま君自身の内部にとどまっていようとも、宇宙における不当な存在に過ぎなくなり、それが直面するあらゆる事象の前に矛盾を感じなければならないことになるのではなかろうか。

×     ×

 ビョルンソン「アルネ」。農村で成長する少年の心の輝きの時間的前進の詩的点綴。

 4月28日(木)うす曇

 「完全に不合理」「自然」「理性」などの言葉は、実はそれに付与すべき「判然とした意味」を自覚しないで、言葉の持つごく常識的な内容だけを念頭において用いたものだった。(と書くと、また、常識とは何かが問題になるかも知れないが、いま、そちらへ問題を発展させることは適当ではあるまい。)しかし、君はこれらの言葉を深く究明しようとして、ここに新たな哲学的問題を提起した。君は人間が普遍的認識を持つことはないという考え方のもとに、「完全に不合理性を指摘されるということがあり得るかどうかに疑念を抱い」ている。君のこの考え方は、認識内容に関する相対主義と呼ばれるべきものであろう。なるほど、宇宙は相対性によって支配されているかも知れない。しかし、われわれは万物が相対的に運動する空間中に、一つの座標系を考えて、それを頼りに考察あるいは判断の半ば絶対的な性格を打ち立てる必要があるのではなかろうか。もしも、認識が放縦な個人的差異を許すならば、人間は社会的動物であり得ないであろう。
 次に、君は「自然の秩序に反する」生活主義といったものがないといっている。自然という言葉の広い意味においては、まさに人間もその中に含まれ、その思惟や行動さえも、さらにそれらがもたらす諸結果さえも、自然的現象や自然的事物であるといわなければならない。しかし、狭義の自然は、人間をその外におくものである。といっても、それがけっして不都合な境界の設け方でないということは、必ずしも保証されてはいない。この境界設置の適否をめぐって考えられるべきことがらは、「自由意志」の問題であろう。なぜならば、人間の思惟・行動と狭義の自然の色分けは、前者のみが自由意志によるものだということになれば、自ずと明瞭になるからである。したがって、この問題を論議することは容易ではない。

 4月29日(金)曇

 先日からの問題がひどく抽象化してきたが、その契機となった具体的なことがらに対するぼくの態度を、最終的な形で明記しておこう。その後で、抽象的な問題をそれ独自の形式において発展させることにしよう。もしも、不合理の完全な指摘が可能であったとしても、いまのぼくは君の生活主義の不合理を指摘しようとするものではない。したがって、ぼくは君の内部の領域をかき乱すような要求を撤回する。——これで、この問題の具体的な側面が落着したことになろう。この要求で君の心情を煩らわせたことを謝っておく。
 他方、この問題の抽象的側面の出所は、君の23日の記述の「これは私のいわば生来の生活主義なのであって、その不合理さをたとえ何人が理論をもって指摘することがあるとしても、私のこの区分法は先ず崩れ得ないものであると確信する。」というところである。この文のいっているところが、君のきょうの記述では認めている「人間の規律した法律に反するという不合理性の指摘」をも退けようとしているようにとれたのだ。そして、このことを指摘しようとする試みが、ぼくの24日の「もしもその主義が完全に不合理性を指摘されても」という文となったのである。したがって、抽象的側面も、その一部はもう片づいたわけである。

 4月30日(土)晴のち曇

 Sam への葉書:
 君がそれに対して常に Yes と答えられる状態にあることを期待しまた希望しながら、三つの「かい」(注:「元気かい。忙しいかい。愉快にやっているかい。」)を再び君に投げかける。ぼく自身についていえば、忙しさについての「かい」に対してだけは、まだ本格的にその状態になっていない。けれども、明日からの休みの多い1週間が終われば、逆方向へ流れ去っていく時間という板の上で前進しようと足踏みしているわれわれに足の動かし方の速さを要求する圧迫現象が、ぼくにもすぐに起こってくることだろう。昨日は理学部1回生から3回生までの合同ピクニックがあった。銀閣寺のやや北方の山中を北東へ延びている道をたどって、山やまを越え、大津まで行くというコースだった。道がかなり単調だったことと全くの曇天だったことのために、自然条件において快適な歩行だったとはいえないが、歌を唄いながら楽しく歩いた。昼食をとった場所から見下ろした眺めは、一面の曇り空の下で遠景に対して白色のヴェイルの作用をする空間を通して、琵琶湖、その沿岸の自然、密集または散在する建物などが、白と銀灰色と黄緑色のさまざまな組み合わせとなって拡がっていた。友人と同宿という下宿方法もきわめて愉快にやっている。先日などは、4次元世界について話し合ったあげく、時間が3次元の存在物に対して必然的に経過するということが、2次元の世界においてはどのような現象になるかという考察から、一度経過した時間の逆行の可能性へ議論が進展し、そのことの空想がもたらすさまざまな珍奇な出来事を述べ合って、苦しいほど笑ったものである。——休暇中に君に渡した手紙の回答を待っている。

 5月3日(火)雨

 いくらかの不便を感じないこともなかった。しかし、その大きさをゼロに収束させる努力は、する価値があり、また、それほど困難でもないと思う。けさは新鮮さが失われたときに人びとを襲う感情が迫ってきたのかと思った。が、全くそうではなかった。どんな精神的重荷という名の自動車がいかなるスピードで向こうから突っ込んで来ようとも、いまの自分の心は動揺しない。Safety zone に立っているのだから。これだけでも大きな収穫といわなければならない。

 5月4日(水)曇ときどき雨

 返信をしたためることに対する中国人的悠長さ。ところが、最近の自分は、そのことからある種の感傷に陥るにはあまりにも安定した精神状態にある。

 5月6日(金)快晴

 君はいまの生活様式を不便だといったが、ぼくは全くその反対に感じている。そのことは、こちらへ来て以来のこのノートの各所に表わしても来た。しかし、この状態がぼくにとっていかに有益であっても、この状態の半分を構成しそれに与っている君が些細な不都合をでも感じるとすれば、われわれは現在の方式を不可としなければならない。とはいえ、君の感じる何らかの不便さが、われわれ自身の努力によって克服できるものであり、また、その克服の後には、われわれの様式が君にとっても光輝の多いものになる可能性が十分にあるならば、われわれのとるべき最良の手段は、君の感じている障害を除去するよう努力することであろう。そのためには、除去の対象が具体的に明らかにされなければならない。それを表明することが、はなはだしい不快をぼくに与えるだろうと君が思うようなことであっても、君は躊躇する必要はない。

 5月7日(土)曇

 書き遅れたが、「夏空に輝く星」の感想を記しておいてくれてありがとう。「心理的内面の展開されるのを見つめながら、理論によって打ち建てられた偉大な高層建築に発展する土台たるべき緻密にして正確な思考作用に驚きの念を抱いた。」とは、しかしながら、過大評価であろう。「下層の内面が緻密過ぎるだけに、一度狂い出したら手のつけられない大きな故障に迄拡がりはせぬかという懸念」とは、なかなかうがった懸念である。あの作品が君にそういう懸念を感じさせたとすれば、それは、まさにあの作の無数の欠点の中の一つの重要な欠点といわなければならない。
 ところで、建築下層内面の緻密さの議論を他の一般的場合へ推し進めるならば、その内面的緻密さのみをもって故障拡大の危険性を推論することはできないのではないだろうか。下層に設備される緻密な装置の、配置と保護のための強固な骨組みと外壁が用意されるならば、精密機械の一部が故障しても、他の個所への波及は小さく食い止めるられるであろう。また、その精密さのゆえに、整然とした手順によって、もとの高等な性能を取り戻すことが容易にできるであろう。(上記の三つのセンテンスは、君が故障拡大の危険について記したすぐ後で「感情という部屋」の働きについて述べていたことを忘れて記したものである。しかし、忘れていたことによって、君が感情に付与した機能を、ぼくは、ぼくなりに自由に考えようとしている。)そして、上に記した「強固な骨組みと外壁」は「強固な意志」とみることができよう。といっても、ぼくは、この建築物の下層から感情を駆逐しようとするのではない。むしろ、それは理論の歯車の一つひとつに親しく付着して、その回転を円滑にしている油だとさえいうべきだと思っている。しかし、それは緻密な装置の運転——思考作用——においては、あくまで潤滑油であって、歯車自体ではないことに注意すべきである。
 「夏空に輝く星」の多くの技術的な欠点について君が記してくれなかったことは、君の感想のささやかな瑕疵といえようが、それについては、ぼく自身、脱稿直後にかなり反省したので、改めて考え直す機会を君が与えてくれなかったことを特に不満には思っていない。

×     ×

 君の4月29日の日記の最後の5行。いままでの1年間にもしばしば口頭で聞かされた妹さんに対する簡明で力強い賞賛の言葉。ぼくの経験できない感情であるだけに、いっそう好ましいものとして感じられる。君が「夏空に輝く星」のヒロインに対して抱いたような「淡い憧憬の念」は浮かばないが…。
 5月1日のこと。君がそういう感情の中にあったとは知らないで、単なる遠慮からだと思い、執拗に誘おうとして悪かった。が、そういうセンチメンタリズムにはあまり襲われないようにした方がよくはないだろうか。

 5月10日(火)快晴

 一昨夜の事実が、6日の夕食からの帰路に君が持ち出した問題に焦眉性と具体性と現実性を与えたかのような感じになったが、少し冷静に考えてみると、これは、けっしてそのような性格のものではないと思われる。一昨夜の事実は、確かにわれわれの生活様式における障害ではあろう。しかし、ぼくとしては、その様式の利点と比較・秤量するとき、様式自体の改変よりも、この単なる一つの障害(いまのところ他に障害はないものと思う)を除去する努力の方が、はるかに貴重であると思う。問題の具体的解決方法は、——ぼくから君への注文という一方的な形式になるので、はなはだ恐縮だが——じつに簡単な次の一事で十分であろう。つまり、ぼくが寝床に入ってから眠り込むまでのわずかの間、何らかの方法で君が静かに勉強するという工夫と努力をしてくれさえすればよいのだ。君は、そういう工夫と努力が必要なくらいならば、様式の改変の方がはるかにましだというかも知れない。その可能性のまえには、ぼくは君がこれくらいのことをやってのけるだけの精神の広闊な柔軟さの持主であってくれることを期待するより他ない。
 いま、「他に障害はないものと思う」といって一つの障害の除去に必要と思われる一方的な要請を記したが、もしも、この他に君の方で感じている不便があったならば、どんな注文でもしてくれ給え。

×     ×

 重力加速度ベクトルとは逆向きの彼方に拡がる空間が、散乱光の無限の貯蔵所となっているきょうのような日には、空想の翼が最も軽やかで自由な羽ばたきを行って、優雅と甘美の極致である部分空間をどこかに作り出す。女神 Freia の真の姿を自分はまだ知らない。そのためにいっそう、彼女のもてあそぶ糸のきらめきが神秘に見える。われわれがその神秘の光線の間を縫って翔ることのできる翼——空想力——を持った動物であることは何と幸せではないか。しかし、この動物は翼で翔るだけでは飽き足りないのだ。地上に舞い降りて、その光線によって生ずるわれわれ自身の影を踏みしめてみる——空想を実現する——必要があるのだ。鉄イオンのしみをのせた4枚の紙として放たれた矢は、どうなっていることだろう。

(2000年9月17日掲載)
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真摯で優雅な魂

 5月16日(月)晴

 昨日のこと。賀茂祭の勅使行列は、その眺めに対する期待があまりに大き過ぎた。
 シネマスコープ "A Star is born"。鑑賞の正攻法的感想ではないが、たぶん、ぼくの特異な精神構造のため、かくべつ心を揺すられた場面があった。この心の揺すられ方は、「死せる魂」の中にあった「人にはおのおのその人によって或る種の言葉が他の如何なる言葉にもましてしみじみと身につまされて感じられるのである」という心理現象によるものであろう(次に述べる映画のシーンが、ぼくに対してそういう効果を持った理由は分からないが)。それは、競馬場で殴られてようやく起き上がったばかりのノーマンが、再びビールか何かを注文しているところだった。そのときの彼はうつむき加減にしていたので、表情が印象的だったわけではない。ただ、なぜか茶色のソフトハットと空色の洋服を身につけた彼全体の雰囲気が、人間の底なしの墜落ということの恐怖を漠然と、しかも切実に感じさせたのである。——成功と不幸の交錯。信念の重要さ。

 5月21日(土)曇

 Jack への手紙:
 従事していることの共通性のために、われわれはほとんど同じ頃に手紙を書こうという気分にさせられるようだ。今度もまた、行き違いになるような気がしないでもないが、書くべきことが少しばかり集積されてきたので、今学期の第2信をいまから記すことにする。
 「穴ぐらの中にいるように写っている」と君が表現した写真を送ってくれてありがとう。背景の写り具合はともかく、休暇中の精神的のびやかさも手伝って、ぼくがひじょうに明朗な顔をしていた一瞬に、君の家の前に漂うある種ののどかさを合わせて、巧みに永遠性を賦与してくれたことを満足に思う。——君への手紙にしては少し気取り過ぎた書きぶりになってしまったが、こういう表現をいまのぼくに試みさせたものは何かといえば、われわれが使っているドイツ語のテキストの一つが、晩年の Goethe の円熟した作品 "Novelle" であるということになるかも知れない。この作の中では、すべての表現が言葉の適確な配列によって生ずる輝きの極大値を示している。短い一節の間で、望遠鏡のことが、das treffliche Teleskop、die annahernden Glaser、das Fernrohr、(die Klarheit und Vergrosserungsfahigkeit) des Instrumentes などと、各個所に応じて使い分けられた言葉になっているのは、このことを君に示す適例となろう。
 ドイツ語のテキストを一つ紹介したついでに、語学の他の教科書のことを書こう。もう一つのドイツ語は、Stefan Zweig の短編小説集 "Phantastische Nacht"(Fischer 文庫というドイツ製の本を使っている)で、いま習っているところは、"Brief einer Unbekannten" という作品だ。ある婦人が、13歳のときに住んでいたアパートの前の部屋へ越してきた若い独身の作家に対して抱くようになり、また抱き続けた感情を、彼女がしたためた彼への最初にして最後の手紙の形で読者にたどらせるもので、心理の分析的な投影がみごとになされている。
 英語は J. K. Jerome の "The idle thoughts of an idle fellow" と C. D. Lewis の "Poetry for you" だ。前者はユーモアに富んだ随筆で、後者は少年少女向きに書かれた詩の手引きだ。"A face that you could easily light a cigarette at" とはどんな顔だと思うかね。"The idle thought" の方にあった表現だ。
 問題を書いたので思い出した。君のこの間の出題は「女性の数が小である」の間違いではないだろうか。(いま Abe に尋ねたところ、彼がそういっている。)理由は、性染色体の種類とその受精の機会の多少に関係するのである。ところで、われわれの方にも数理統計学の講義がある。今週は normal distribution のところまで行った。Bertrand の逆説というのを聞いたかね。もしも、知らないならば、問題の形で書いておくから、考えてみ給え。一つの円があって、それと交わる直線を at random に引くとき、その直線の円によって切り取られる部分の長さが、その円に内接する正三角形の一辺より長くなる確率として、"equal likelihood" の基準の取り方によって、異なった2通りの値が得られるのだ。昨年ぼくが出したマッチ棒の問題で君がπ/4 という値を出したことも、この逆説に似ているが、これは何か他の理由によるものであろう。
 君は習っている教授の顔つきをいつも面白く書いてくれるが、芸能関係の人物を引き合いに出されたのでは理解しかねる。ぼくならば次のように書く。——われわれの Stefan Zweig の方のドイツ語の教官は「知的精力の充満を伴った完全な肉体的健康」という言葉(ぼくが「新樹」第5号に載せた「ヘンリィ・ライクロフトの手記」の訳で用いた言葉だ)を思い出させるような体格の人物で、多量の細胞を含有している褐色の右頬を、内部の筋肉と神経の働きによって顔全体に対して独立に上方へ歪めるのが癖である。——
 君が書いていた四十七士のかしらと同性同名の教授は、Abe が最も尊敬している先生だ。先ほども、彼は大石教授の天皇に対する考え方等々の講義内容を面白く聞かせてくれた。
 話がどれも断片的になるが、今学年の物理のゼミナールは岩波講座「現代物理学」の中の相対性理論をやることになった。先々週の第1回では、最初のページの「惰性系というのは、質点が力の作用をうけないとき、それに関して等速度運動をする座標系である」というところが議論の対象になった。「力の作用をうけない」と判断するためには座標が必要ではないかというのである。とすれば、その座標はどうして設定するのだろうかという疑問が生じ、無限に新しい座標を求めて行かなければならないことになる。ところが、ニュートン力学には絶対的なものの設定があったわけだ。それをくつがえそうとするこの疑問とその解決の要求は、相対性原理を求めることに等しいといわなければならない。したがって、それがこれから学ぼうとすることではないかという愉快な結論に達した。
 今回はこれだけにする。

 5月23日(月)雨

 "Die Hollenqual der Erwartung" (Brief einer Unbekannten)

 5月25日(水)雨のち晴

 「あゝ待つ身の何と疲れることよ!……」(La Porte Etroite)

 5月29日(日)雨のち晴

 休講の時間と休憩時間を利用して "La Porte Etroite"(狭き門、岩波文庫版)を読み上げた。この本のはしがきで訳者は「作者ジイドは、アリサへの共鳴と同情の涙とを期待してゐるのであらうか?更に言ふならば、アリサの踏んだ道を真理として提唱しているのであらうか?」と、この作の中心的興味に対するわれわれの考察を喚起する言葉を記している。人間の歩みの、真理を基準としての判断は、その中に含まれ、あるいはそれがもたらした幸福の質と量の全体によってなされるべきものであろう。(以下後述予定。)

 5月31日(火)晴

 全くけしからん。—— Athene(注:知恵の女神)のことだ。

 6月7日(火)曇

 われわれの現在の生活様式は、ぼくに何と多くの利益をもたらしていることか。この様式に対して、いままでにも倦怠に似たものとある不自由さを全然感じないことはなかった。しかし、それらはすべて克服可能であり、また、利点を太陽とすれば、それらは、道路の小さなくぼみに過ぎなかった。ぼくが精神の安定性を表わす potential 関数の極小値付近に自分を位置させることができるようになったのは、全く君との生活のお陰だ。
 しかし、君がこの状態からの脱却を必要と考えるならば、ぼくも直ちにそのために必要な努力に協力し、脱却を完成させることを拒まない。いまや必要なのは君の決断である。現在の状態に君自身を適応させるための努力をすることにするか、どのような困難をも突破してこれを変改することにするかの断固とした決定が必要である。熟考のために多くの時間をかけることは、もちろん、悪くはない。しかし、決断だけが必要となった段階での停滞をぼくは好まない。

 6月12日(日)晴

 Jack の問題を昨夜解き、けさ投函。

 6月17日(金)雨

 (注:以下は Octo への手紙の下書き。)
 夜のとばりの下に静かに横たわっている空気の深淵から湧き上がってくる、あたかも幾百匹という大勢の合唱隊員が発しているような蛙声を一瞬遮って、高く澄んだ何かの鳥の声が、漆黒の虚空を二、三度鋭く突き刺した。
 長い間失礼した。君は相変わらず、毎日熱心に仕事をし、余暇には健全な趣味によって常に情操に磨きをかけ、そして、ずっと元気でやっていることだろう。ぼくも大学生活の2年目を、宇治の分校から京都へ移って来たために得られた新鮮な気持とともに送り始めて、微分可能的に(微分可能な関数は連続であるという数学の定理から思いついたこの形容の言葉は「連続的に」すなわち「ずっと」という意味だ)元気でやっている。今学年は、英語とドイツ語の他にフランス語もとっているし、ドイツ語は難しいゲーテの作品をやらされているので、語学だけでも忙しくてたまらない。「死せる魂」 の中に「或る大作家の極めて難解な一句が解けて、その思想の本義が明瞭になったとき、学生が狂喜するにも増して」という表現があったが、こういう狂喜はまさに語学の予習において学生が味わうことのできる一つの特権である。
 最近君は何を読んだだろうか。ぼくは休講の時間などを利用して短いものを2冊読んだだけだ。ジイドの「狭き門」とビョルンソンの「アルネ」だ。いまケラーの「緑のハインリッヒ」にかかっている。「狭き門」と「アルネ」は、全く詩的な性格の作品だったので、それらの砂糖味のお菜を挟んだ箸で、今度は社会的な背景といったものを強く織り込んだ「戦争と平和」のような、いささか辛い別種のお菜をつまんでみたい気持にもなっている。「緑のハインリッヒ」は、退学になったハインリッヒ少年が田舎の伯父の家で画家になろうと決心した辺りまで読んだが、今後の彼の生き方が興味をそそる。
 ところで、多くの文学作品が主題として、あるいは主題に関係する重要な精神的事件として、あるいはまた、作品を楽しいものとする華麗な装飾物として取り扱っている、若人の旺盛な感情を快く、また悩ましく揺すぶる心の虫を持つという経験を、君もそろそろ味わってはどうだい。いや、君はすでに味わっているかな…。おやおや、とんだ冗談を書いてしまった。
 今度の「京大事件」のことを君は新聞で読んだだろうか。新聞の報道は君にどんな印象を与えたか知らないが、あの日、執拗に総長と交渉しようとした学生の態度に行き過ぎはあったにしても、それまでの創立記念祭問題の交渉における、また「事件」直後における滝川総長および大学側の態度にも、それに幾倍する不合理な、非難されるべき点があったといわなければならない。お陰で明日から3日間行われる予定だった記念祭が、明日の記念式だけになってしまったので、がっかりしている。
 まだ書きたいのだが、空間とともにカント哲学におけ先験的直観形式の一つを構成しているものがもう大分回ったので、これくらいにするとしよう。

 6月25日(土)晴

 "Brief einer Unbekannten" を調べ終わる。最後の文の簡単な前半 "Er spurte einen Tod und spurte unsterbliche Liebe: . . ." は、この短編を清らかに締めくくっている。

 6月27日(月)晴

 以下は、真摯で優雅な一つの神聖な魂を第二人称として記す(注:Minnie への返信の下書き)
 「ちっぽけな人間のつまらぬ問題」と書いているところだけが、現実の問題を相手としての貴い苦闘の率直な報告であるあなたの手紙の中の誤謬だといわなければなりません。いや、もう一ヵ所ありました。ぼくのことを「豊かな才能に恵まれ」と書いているのもそうです。あなたの手紙がきょうぼくに語ってくれた問題、それはなぜか、今初めて聞いた問題ではないような気がします。こういう種類の心理現象に関する文学上の表現は、あちらこちらで収集することのできるものですが、いまぼくにこういう感じを抱かせる原因となったものは、あなたの手紙の中に流れている真剣な調子と、最近のあなたを鍛え上げている二つの問題が含み持つ人生上の普遍的な意味だと思います。ぼくも、その二つの問題について少し考えてみることにしましよう。
 あなたが社会を前進させるための義務を痛切に感じて、自分の傑出している能力の一つを武器に(平和のための運動に武器という言葉を用いるのはよくないでしょうか。「道具」と書いてもよいところですが、武器の方がいかにも敢然とした様子を表わすのにふさわしいように思います)早速その義務の遂行に向かってふるいたったことに対して、心から拍手を送ります。われわれが社会のためになし得る仕事には、active な性格のものと comtemplative な性格のものがあります。(Comtemplative なものといえども、それは活発に行われ、また実際的効果をもたらすもでなければなりませんから、この点でこれも active といえますが、上記の分類での active は「行動的」の意味とします。Actional という言葉が欲しいところですが、そういう単語は辞書に見当たりません。)ぼくが現在いわばそのための個人的準備過程のみを行っている仕事は、後者に属するものでしょう。しかし、active な仕事にたずさわる人に、異なった立場から意見を述べることも、いくらかは、お役に立つものと信じます。
 あなたが第一の問題として書いていることは、"Chaque homme a ses defauts." (あなたの手紙を読み終えた後、予習するために開いた仏文法の教科書の、ちょうどやり始めようとするところにこの文があったことは、やや奇跡的です)云々という先輩幹部の方の助言で、一応解決できたそうですが、ぼくはそのやや消極的な考え方の助言に積極的なものを付加することによって(次に述べることを、あなたは決して疎んじてはいないだろうと思いますが、念のために付加することによって)、それを改善したいと思います。われわれの不完全さは、無限の努力によって、少しでも完全さに近いものへと変えられて行く必要があるでしょう、というのが私の付加したいことです。完全無欠な人間というものは、かえって社会における disagreeable な存在であるというようなことがときどきいわれますが、これは明白な矛盾です。もしも、ある人が社会において disagreeable であれば、その人はすでにその点において完全さを欠いているのですから。極限的完全さは、われわれがそれに向かって無限の努力を払う価値のある目標なのです。——抽象的な表現になりましたが、上記の理論(?)のもとに、あなたに要請される具体的事象は、容易に察知できるでしょう。——
 次に第二の問題に入りましょう。それは重要な岐路ですが、「一生の最後の」と呼ぶことには疑問があります。一人の人間の将来までをも見通すことのできる存在物からみれば、あるいはこの問題は、あなたのいう通りの意味を持つものかも知れませんが、われわれ自身は未来に起こることがらのすべての重みを知り、比較することはできません(あなたへの年賀状に書いた湯川博士の言葉とよく似たものになってきました)。心のどこかで「もしかすると、これは一生の最後のともいうべき重大な岐路になるかも知れない」と想像することまではよいでしょう。しかし、その後にさらに大きな岐路が待っているかも知れないことをも同時に予想し、直前の大問題には、もちろん、精いっぱいの力でぶつかりながら、もっと大きな艱難に耐えて突き進まなければ自分の望む道へと進めないような岐路が将来現われようとも平気だという心構えを養いたいものです。——これも、あなたがよく承知していることに違いないと思いますが、もしもぼくだったら、上記のような思いのために、この問題について「一生の最後の岐路」とは書かなかっただろうということを説明してみました。——
 希望や自信は、天がわれわれに与えてくれるものではありません。われわれ自らが、われわれの情意機能を構成する一成分である「意志」によって、それを獲得しなければならないのです。そして、この心理的要素が行う獲得作業は、何らの媒介も必要としないで、直ちに開始できるのです。ほら、もうあなたはそれを獲得したことでしょう。

 6月28日(火)晴

 行間に潜んでいる frauenhaft な呼吸が、ぼくを leidenschaftlich にした。

 7月1日(金)晴

 先日来、全く「イカレて」いる。数理統計学の時間の「X1、X2、 . . . Xk の k 個の確率変数があって」という言葉が出てきたときに限らず、考えていた。

 7月12日(金)晴(注:夏休み、帰省して)

 「神殿」(注:Minnie の家を指す)を訪れた。女神と2時間半を過ごした。あの特徴的な微苦笑は、何という味だ!
 ああ、狂える魂よ!帰宅後、時間の中を漂うのみ…。
 さあ、落ち着こう。読書会の件は、「後でゆっくり」考えよう。

(2000年9月27日掲載)
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夏休みの読書会

 (注:前章までの初期掲載時に「Minya」と書いていた呼び名は「Minnie」に変更することにした。)

 7月13日(水)晴

 Minnie への葉書:
 昨日は、時の一様な流れの中をいたずらに流される小舟に、あなたを長い間乗せていて失礼しました。4次元世界の第4の軸に沿ってのあの散漫な浮遊が、はたしてあなたに何らかの収穫をもたらすことができたかどうか、はなはだ不安です。
 読書会にはやはり「パンセ」を取り上げたいと思います。この書はぼくにとって、「狭き門」の中でアリサとジェロームがパスカルの説く天上の至福について議論していた場面を連想させるものであるばかりでなく、Sam との交友の初め頃に「"人間は考える芦である" とは誰がいったのか」と彼に尋ねられたことがあったのを思い出させるものでもあり、数学・物理学の分野において大きな仕事をなし遂げた偉人が、3世紀前にとはいえ、その頭脳から生み出した深遠な思索を読むのだという点で、特別な興味を感じさせられるものでもあるのです。自分にばかり都合のよい推せん理由になってしまいましたが、この書の一般的効能書きは、あなたもご存知でしょうから、省略します。
 新潮文庫で上下2巻ありますので、とうてい全部はできませんが、内容は短い節からなっていますから、できるところまでやればよいでしょう。方法としては、予め各自で読んでおくことをしないで、朗読をしながら、その間に討議を挟むようにしてはどうでしょうか。この書の形式とわれわれの忙しさからいっても、また、会の進行から考えても、その方がよいと思います。会は1週に1度ぐらいにしたいと思います。ぼくには、それだけの時間を作る用意は十分にありますが、あなたや他の人びとには、少し忙しすぎることになりはしないかとも思いますが。あなた方にとって具合が悪ければ、適当に考えて下さって結構ですが、ぼくとしては、Sam の参加を考えて、一応金曜の午後3時半頃から行うことを提案します。それでよければ、来週から、もし何か問題があれば、それを考え直してから、始めることにしたいと思います。

 7月14日(木)晴

 Sam へ:
 恋愛が価値の認識だという考えを述べている「知性」誌のあの記事から、君は何を考えたのだろう。君が一つの部屋へ入ろうとすることにたとえて何かいおうとしたときには、一つの部屋のドアのハンドルに手をかける前に、その一つの部屋と他のいくつかの部屋の十分な比較検討を無視する危険についていおうとしているように感じられた。その危険を駆逐するものは、価値認識力高揚の努力であろう。君が自我との関連というような言葉をもらしたのは、価値認識の主観性に関係してのことなのだろうか。もちろん、完全に客観的な判断力というものは、われわれは獲得できないであろうし、また、存在するはずもない。したがって、われわれの行う認識は、この点で自我的であることは明らかである。ただ、その自我は、つねに向上を目指そうとするものでなければならない。われわれがしばしば要請する「客観的基準」は、この向上作業の、推定される極限的到達点をもとにしての基準であるべきであろう。(注:この日記の前後関係からは、Sam が私に対して忠告をしようとしたようにとれるであろうが、いま振り返ってみると、Sam 自身が問題を抱えていたのかと思われる。)

 7月15日(金)晴

 イカレている?いや、大いに朗らかになっただけだ。
 厄介なところもありそうだが、面白いところも、かなりあるようだ。(注:「パンセ」について。)

 7月16日(土)晴

 Pallas.

 7月19日(火)晴れたり曇ったり

 自分に信をおこう。

 7月22日(金)晴、晩一時雨

 Sam はいろいろ有益な話をして、理解を助けてくれた。(注:「パンセ」読書会について。)
 「赤い顔をしないで」?

 8月3日(水)曇ときどき雨

 きょうをわが精神の洗礼の日にしよう。

 8月6日(土)晴 〜8日(月)

 Abe への手紙:
 暑中見舞いの葉書を貰いながら長い間失礼した。いまペンをとっているぼくの感覚器官を取り巻いている、あるいはそこへ侵入してくる自然の諸事物、諸事象は、やはり君への手紙を書いていた昨年のいまごろにおけるそれと全く同様だ。——こういう書き方をしたのは、ぼくが手紙の冒頭に記す、どこで区切って読んだらよいかに苦心して貰わなければならない、面倒な修飾関係を含んだ自然描写の文を、ここで工夫することを怠ろうという気持からではない。この手紙では、精神的なことについて昨夏よりずっと多くのことを書かなければならないと思われるので、前文は短く切り上げたいのだ。——
 ちょうど帰省以来、こちらは連日30度を越える猛烈な暑さだが、ぼくの生活の規則正しさは、その前に敗退してはいない。だが、学習計画の進行ぶりの遅さには、いつものことながら歯がゆい思いでいる。政治学の宿題の論文を先日書き上げて、少しほっとしたところだが、力学の演習問題や、臼井先生のドイツ語 "Phantasie uber Goethe" などはなかなか難物だ。君はまたアルバイトをやって、貴重な経済的・精神的収穫を得つつあることだろう。ぼくもこの休暇にはぜひやりたいと思っていたが、適当な口がなかったので、そちらへ向けられるべく予定されていた時間と精力をすべて他の方面へ当てることにした。
 ところが、かえってこのことが一つの原因となって、また、帰省直後の Minnie 訪問における彼女との会話から知ったこと——彼女が少なくともぼくほど文学作品を読んではいなかったということ——が付加的原因となって、これまでの休暇には学習と並んで常に主要な仕事であった読書に対する気乗りが、以前よりは薄くなった。しかし、「赤と黒」の中の「その日一日の彼の唯一の仕事は、自己の魂に活力を与えるかの霊感的な書物(セント・ヘレナ日記)に読み耽って自分を強くすることであった。」というくだりをもじっていうならば、「休暇中のぼくの主要な仕事の一つは、自己の魂に栄養を与える幾多のすぐれた書物に読み耽って自分を豊かにすることである。」ということになる従来の主義と方針は変えたくないと思っている。
 ところで、(以下の内容は多少小説じみてくるが、納涼読み物のつもりで読んでくれ給え。)「緑のハインリヒ」にあった言葉(岩波文庫版第2巻、p. 236)を借りれば、「一種のロマンティッシュな義務の観念にかられて」行った先月12日のぼくの行動は、4巨頭会談におけるアイゼンハワー大統領の提案にも似た破天荒なものであった。他でもない、上にもちょっと記した Minnie 訪問がその行動である。が、これだけでは、まだ君を驚かせるニュースのすべてではない。その時 Minnie のところで2時間あまり快活におしゃべりした後で、休暇中に読書会をしようということを決めたのだ。書物は「パンセ」を選び、Sam と Jack を誘って毎週金曜日に「神殿」(彼女から交換写真を貰おうとしたころ Sam との間に定めた彼女の家の呼び名だ)で、愉快に議論をしている。「パンセ」が未完成の作品であって、切れぎれの覚書きからなっているということが、この会をわれわれにスムーズに運ばせてくれる。しかし、あまり切れぎれにでき過ぎていて、1行足らずしかない断章もいくつも含まれているのは、議論のしようがなくて困る。
 "46 「口のうまい人」、悪いしるし。"
という極端に短い断章を朗読したときに、Sam は「カルタをとっているようだ」といって笑わせた。
 "11 大がかりな娯楽はすべてキリスト教徒の生活にとって危険である、が世人の作り出したそれらの娯楽のうちでも、演劇ほどおそるべきものはない。演劇は情念の大そう巧妙な表出であるから、もろもろの情念をうごかし、それらを、殊に恋愛の情念を我々の心に生ぜしめる。…"
という断章のところで議論が十分に尽くされなかったことは、ちょっと名残惜しい。「パスカルは恋愛なんかしなかったの?」と Minnie がいったのに対して、「いや、しているはずだ」と、むきになって答えたのは変な気持だった。また、われわれの性質とわれわれの気に入る事物の間に存在するある関係になり立つ快適と美のある原型、それに基づいて作られたものはすべてわれわれの気に入る、ということが書かれているところでは、Minnie に向かって、「君はそのような原型に基づいて作られている」といいたい気持を抑えていなければならなかった。"Si le nez de Cleopatre avait ete plus court, . . ." の章では、どんな議論がたたかわされるか、いまから楽しみだ。
 義務の観念というものは、人間をかりたてるための実に大きな力を発揮することのあるものである。この観念は、人間が自己の「能力」という器を「真摯」という角度に傾けて注ぎ出す「努力」の露滴の核を構成するという役割をさえ、しばしば担うようだ。——というような分析をしてみても、われわれの行動の動機のすべてを、一つの言葉によって理解されている互いに独立な概念のいくつかに帰着させることは不可能なようである。いろいろな精神要素の作用力の大きさを発見して、その一つひとつに対して驚異の目をみはるまでのこともなかろう。——
 「パンセ」に「おもふに邪欲は我々のあらゆる動きの原動力である」とあって、その次に「そうして人間性」という加筆があった。ここを読んだとき、次のような議論が出た。パスカルは「邪欲と人間性」の二つだけが「あらゆる動きの原動力」と考えたとみてよいのだろうか。もっとも、「人間性」という言葉を、「人間の持つあらゆる性質」という広い意味にとれば、すべてを遺漏なく尽くしていることになる。しかし、その場合は、邪欲も人間性に含まれるから、「邪欲」という言葉の方が不要になる。…
 こうした精神要素の分類に関するパスカル自身の感想を、われわれは同じ日の最初に読んでいたのだった。そこのところを分かりやすく書き直してみると次のようになろうか。「あるものが、これこれの言葉でいい尽くされているといっても、そういう言葉は、それに解釈を与えないと役立たない。さて、それを解釈するとなると、解釈のための言葉自体がいろいろな意味を含んでいることから、言葉を正確に把握することによって避けたいと思った最初の混乱状態に舞い戻ってしまう。」(注:「分かりやすく書き直してみる」といいながら、十分に分かりやすくなってはいなかったので、掲載に当って少し書き換えたが、原文のいうところと合っているか、チェックする必要がある。)読書会の話は前々節で打ち切るつもりだったが、つい逆戻りしてしまった。
 考えが言葉に変るままに、秩序立てることもなく、それをすぐに記してきたので、奇妙な手紙になった。最後になったが、同宿するようになって、新たにいっそう深く君から受けた種々の感化とお世話に、ここで厚くお礼をいうとともに、ご迷惑をかけた点もお詫びしておきたい。休暇後は、また明朗に影響し合おう。お家の皆様によろしく。

 8月15日(月)晴

 冷厳なる理性よ、銃をとれ。
 「パンセ」断章88をくつがえしてみせるのだ。

 8月19日(金)晴

 (注:読書会をわが家で行った。)コップに飲み残された麦茶…。ルソーの「懺悔録」の一場面を思い出す。
 Jack は実によい提案をしてくれた。
 もっと闊達で活発な話術を獲得しよう。
 断章144の「人間のしなければならない真の学問は人間の研究であるということになるのではなかろうか。そして、幸福になるためには、むしろ、みずからを知らないのが、人間にとりいっそうよいことになるのではなかろうか。」という結論には、全く賛成できない。人間は多様な活動を行うべき動物であって、その活動に充実があれば幸福なのではないだろうか。(これだけでは、表現が不完全かも知れないが。)

 8月21日(日)雨

 金沢が背景になっているからといって Jack が貸してくれた中野重治の「歌のわかれ」を、1時20分から5時まで、40分の休憩を挟んだだけで、一気に読んだ。この作のモチーフの一つは次の言葉に表わされている。
 「結局おれは、精神の貧弱さから知らず知らずどたん場を避け、また他の場合には、外からの偶然がどたん場につき当ることを自分からよけさせ、かうして『窮地』に落ちることなく一生過ぎてしまうのではないか?幸福といへる幸福、不幸といへる不幸を経験することなく、時々の小さな幸福を感じつつ、特に時々の小さな不幸をいくらか勿体ぶって不幸と感じつつ、人間として低い水準をずるずると滑って行くのではなからうか?」
 主人公がのみを握った出来事を回想してのこの感想には、「罪と罰」のラスコーリニコフに斧を握らせた彼の懸念と、事件の後か先かという差はあるが、通じるところがあるようだ。
 意志に拍車をかけての、どたん場への衝突がもたらすものは、それがもたらされた後でなければ、われわれの想像力および理性によっては、完全には把握できないであろう。ちょうど、未知の領域の開拓が与える産物を、すでに獲得された知識が正確に予測できないように。
 昨年の8月10日に醸成という言葉の派生的な意味は、消滅的結果をもたらすものであるというようなことを書いたが、いまはそう考えてはいない。このことに関する考え方の変化は、この休暇における行動が如実に裏書きしている。

 8月26日(金)晴一時小雨

 手取峡谷(注:読書会メンバーによるピクニック)。ぼくはもっと周囲の空気を振動させるべきだった。しかし、専門家の Sam による道案内と、Jack の一瞬間に永遠性を与える器械(注:カメラ)と、その持主の心の平明な朗らかさは、われわれに楽しい一日を提供してくれた。
 感動にブレーキをかけよう。理性。

 8月27日(土)雨

 イロヤ書店で林君に合う。白い顔。

×     ×

 "Lasst mich bitten, von der Gunst, von der Gnade, die Ihr mir zuwendet, in diesem Augenblick versichert zu werden."

×     ×

 制御し難きものの制御。
 青年の理想像。それを自らの中に打ち建てよう。

 8月28日(日)曇

 Katastrophe。
 あまりに早かった。が、想像が現実を把握し、それ自身の徒労を食い止めたことはよかった。しかし、無上に神聖で「あった」。その神聖さに対して、この終局はいかなる始末をつけるのか。
 Die Entsagenden の王国、その中を無限の彼方へと延びている道。それに意味があろうか。
 Ewigkeit の確約、グラチア。………
 白い帽子の下の少年のような顔。
 とにかく、悩ましさを跳梁させてはならない。理性よ。

(2000年10月6日掲載)

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