IDEA-ISAAC |
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多幡達夫 |
高校生時代(1) 以下準備中 大学生時代(1) 大学生時代(2) 大学生時代(3) 大学生時代(4) 大学生時代(5) |
大学生時代(3) 春のためらい 1955年3月8日(火)晴 紫色の印象。 3月9日(水)雨 「虞美人草」。高校2年の国語教科書に、川端康成の「小説の構成」という文が載っており、その中に「夏目漱石の『虞美人草』においては複雑なプロットが十八章の三挺の車とともに終結に近づき藤尾の死のクライマックスに達するわけである。」とあった。そのためもあって、宗近家から出る三挺の車は、いかにも結末を目的地として走っていく車という感じがした。場面転換の繰り返しが手際よくなされているところは、小説の世界という構成物を、地球儀を回すようにして見せられているような思いを抱かせた。万人を生のうちに維持する道義という縄の境界線を無視した跳梁。この跳梁は、「己れの為にする愛を解」し、「人の為にする愛の存在し得るやと考へたこともない」藤尾の性格に発する。 「坑夫」。主人公の心理の精緻な分析と、「シキ」の内部の精妙な描写が、この作の迫力を生み出している。主人公が松原を歩いていて、どてらを着た男に呼びとめられたところの、次の言葉を読んだときには、十一月祭での生島教授のジュリアン・ソレルの性格に関する言葉が思い合わされた。 3月10日(木)晴れたり曇ったり、一時雨 風と小雨と、それに一時はあられさえも混じって降った中を、二時間余り徘徊した。入りがたく、去りがたかった。Romeo であった。三度門前を通過した。雨が降りだしたときには、これは好都合だと思ったところ、足の力が抜けたように感じた。が、さして好都合ではなかった。驟雨の豪雨だったならば、決行できただろうに。 3月12日(土)晴 「二十の扉」の長島アナウンサーは「弥生の空」を「時間」に関係がないといっていたが、広い意味の時間には大いに関係がある。「ガスではありませんが気体です。」も少し困る。 躊躇した。浮動した。逍遥を重ねた。Sam への葉書投函。 高校3年のときの英語乙のテキスト中の Poe の次の文を、「盗まれた手紙」の中の「デュパン君」の言葉として昨日見出した(岩波文庫版 p. 168)。 3月14日(月)曇ときどき雨・あられ 昨日 Octo とシネマスコープ "Long Gray Line" を見に行った。ウエスト・ポイント陸軍士官学校で体育助教として長年勤めた主人公マーティ・マーは、彼がそこにおいて institution 的存在になった点において、また、候補生たちをわが子のように愛した点において、チップス先生を思わせるところがあった。彼の妻メリイは、「グレン・ミラー物語」におけるその主人公の妻と同様の役割を果たしていた。 昨年の暮、君が K さんへの手紙をしたためたときの日記に、君は確か「人に読まれる文を書くのだという意識が自分に虚飾的な文章を書かせる」という意味のことを書いていたようだ。これに似たことは、君がぼくとの交換のための日記帳を作った日の最初の記述中にもあったと思う。虚飾は本来無意義なものであり、さらには害悪でさえあるといえよう。しかし、虚飾がその目的を完全に遂げることができれば、それは虚偽の現実化であり、もはや虚飾ではなくなる。このような虚飾の現実化が、純粋な向上意欲と結びついているのであれば、それは善であるかも知れない。(注:この節、若干修正) 3月15日(火)晴 金大合格者発表。M、S 両君落ちる。 3月17日(木)晴 帰省以来の弛緩が極大値に達した。一連の反省すべきことがらに切断を与えよう。 「罪と罰」読了。「虞美人草」が、道義の縄を跳梁する行為が死をもたらすことの実験的証明であったとすれば、これは、生命を無視しての目的と動機の跳梁が道徳背馳に等しいことの検証だといえよう。一見無関係な彼我の二作品が、テーマの根底においてきわめて類似しているのは、興味深い。 3月22日(火)曇 Tom への葉書: Jane Austen "Pride and Prejudice"(岩波文庫版)読了。著者21歳のときの処女作としては、じつにすばらしいものといわなければならない。家庭小説といわれるこの作品には、なるほど幅広さや力強さは少ないが、田園の家族の生活がこれだけ手際よく精神面へ投影されていることには、そこに十分な価値が蔵されているといえよう。「高慢」に包まれて育ったために付着していた冷たさが、愛の対象の出現によって自ずと和らげられて行くダーシー、いつもの適確な判断力が彼の前では一時「偏見」に陥っていた結果、持ち前の快活さも下火になるほどの不安な精神状態を経験しなければならなかったエリザベス、彼女の姉で「寛大」の権化であるジェーン、彼女たちの妹メアリ、ケァサリン、リディア、父のベネット氏およびその夫人、ダーシーの友人ビングリー、ダーシーの叔母ケァサリン・ダ・バーグ夫人、その他の人びと、それにロングボーン、ネザーフィールド、ハンスフォード等々の地名、これらすべての固有名詞が、読み終わって反復してみるいま、ひじょうに懐しいものになっている。このような、固有名詞の読者の心に対する親和力には、英米の女流作家の場合には、何か共通した特別の温かみが加わっているような気がする。女流作家のものだと意識して読んでいることから、あたかもその作家自身の口から語り聞かされているように感じられるという心理現象も影響しているかも知れない。 4月4日(月)雪のち晴 休養し娯楽することにおいて、さらには退屈することにおいて、多忙だった。
昨日、映画 "Le Rouge et le Noir" を見た。吉浦の伯母に声をからして読み聞かせながら、一昨日までに第14章まで復読してあったのだが、これだけの部分は映画では、10分足らずで済まされていたようである。原作にある友人フゥケ訪問の個所がなく、ヴェルジー北方の大山脈付近の「広闊壮大な風景」が見られなかったのは残念だ。幼い頃のジュリアンに影響を与えた彼の伯父とかいう老軍医正のことを、ジュリアンがレナール家へ運んだ荷箱に関連させて出したところは、原作の物語形式の劇形式への転換の一例であろう。映画ではデルヴィール夫人も省かれ、「田園の一夜」の章の10時の鐘は10時半の鐘となっていた。ダニエル・ダリューは、河盛好蔵氏の言葉通り、いかにも老けすぎていた。ぼくの脳裏にいままで位置を占めていた豊かな体つきのレナール夫人が、やせて小柄な彼女の像によって邪魔されるのは、あまり好ましいことではなかった。しかし、この映画全体が、ぼくの脳中の「赤と黒」の全イメージの完成に対して添加したものは、この不満を補って十分にあまりがある。 4月6日(水)晴 この休暇中の、太陽から地上にふり注ぐエネルギーがきょうのように豊富であった日々、そのエネルギーによって、精神の底部がつり下げている分銅が大きな浮力の作用を受けた日々に感じた、あるいは、感じなければならないと感じて、感じることに努めた、もしくは、自然の勢いで感じさせられた感情について、少し大げさな記述をしなければならない。 天なる祖父、ぼくの記憶中のその面影の最も主要な側面は、厳格さの象徴という面である。 4月8日(金)うす曇 昨日この下宿へ来て、君の未着を知ったとき、ぼくが受けた衝撃——と呼ぶほどの心理的事象ではないが、より適当な言葉が見当たらない——は宇治に下宿していた頃のぼくに対してならば、おそらくかなりの精神的動揺を与え、内心に不快感の津波を起こさせたであろう。しかしいまや、新しい光明がぼくの心のそうした不安定性を駆逐した。白く柔らかく落ち着いた空気を呼吸しながら、荷を開き、読書し、思索し、精神は時計の針の回転とともに静かに行進した。 休暇中の君の日記は、その記述が君の実際生活と緊密に結びついている点で、ぼくに読む喜びを与えるものであった。 4月12日(火)快晴 かつて赤い自転車に期待をかけ、それが家の近くへ来るのに胸をとどろかせ、また、それが何物をももたらさないで行き過ぎるのを見て怨めしく思っていたことのあるこの季節。先日来、すぐ北に横たわる小高い山を望んでいるこの窓辺に、机に向かって坐っていると、この季節特有の柔らかい香りが鼻を微かに撫でる。こちらへ来たばかりのとき、それが彩ることのできる最も大きな容積の空間を淡紅色に染めていた、同じくこの窓から見える疎水べりの桜樹は、もうその空間に五分の若緑色を混入している。 4月15日(金)曇・小雨 「レンズ替え街路をよぎる云々」の替え歌を再び胸中に口ずさむ。 4月16日(土)雨 決行しないという態度をとる方がよい行動といえるかも知れないというぼくの考えに、君は反対したが、それは、君が「決行」のもたらすもう一つの別の結果を考慮しなかったために、ぼくの立場を理解できなかったのではないだろうか。ぼくが恐れたのは、必ずしも決行の結果の失敗ではない。成功にも、一時的成功と、永遠的価値のある成功とがあるのであって、後者を求めるには、いくらか慎重にならざるを得ない。 (2000年9月10日掲載) |
同室下宿生活 4月17日(日)雨 (注:以下は Minnie への手紙の下書き。) 4月20日(水)曇ったり晴れたり アルベルト・アインシュタイン死去。Der Mensch ist sterblich. という単純で明瞭な事実を表わしている言葉を、改めてしみじみと想起させられる。しかし、われわれが sterblich な3次元空間における生物ではなく、時間を見下ろすことのできる、また、その時間的超越性のため unsterblich な4次元的生物であったとしても、アインシュタインの考え出した理論をより容易に知ることができたかどうか疑問である。かえって、われわれは4次元的存在であることによって、脳細胞の3次元的組み合わせが作り出している思考作用にはあずからないという不幸な状態の中にいたかも知れない。 4月21日(木)晴 「死せる魂」読了。社会における人間の矛盾的行動の戯画と呼ぶことができようか。チチコフがその遍歴において求めるものが(直接的には死せる農奴であるが、究極的にいって)単に物質的なものであるために、彼はわれわれが親しくなりたいと思うような種類の架空の人物ではない。 4月22日(金)快晴 Das Geheimnis——君がそれを保持しない場合に、他人に何らかの害が生ずることがない限り、それを保持する必要はないと思う。そして、この場合、害が生じないことは明らかである。なぜならば、害が生じるためには、その Geheimnis の内容(それに関係ある人物があれば、それも含めて)とその内容を知りたい人物の間に、何らかの変化を起こす媒介となる糸がなければならないが、いまの場合はそうしたものが見出されないからである。(注:Abe と同室の下宿生活に入ったため、この頃、日記帳は交換することなく、随時見せ合っていた。したがって、以下には Abe との日記帳上の論争がひんぱんに現われる。) 4月23日(土)晴のち曇 ぼんやりとした温かさと君がいったもの。The fair sex のこの特性がわれわれの中におけるある感情、「若きヴェルテルの悩み」中の表現によれば「空想の羽を借りて大空を翔ける」感情の上に、一つの大きな支配力を持っているのであろう。体育の時間、細胞の温かな構成から来る光線の柔らかさをときどき目でとらえてみた。 4月24日(日)雨 変化を起こす媒介となる糸の他端の可能なありかとして、ぼくは Geheimnis の保持者自身を考慮することを忘れていた。それは、ぼく自身の生活態度が、君が第三の領域と呼んだ、自己以外の誰の介入をも許さない領域の必要性を認めない傾向を持っているからだ。しかし、君はその領域を必要とし、また、理論によらず、感情のみによらず、「生来の規定と約束」による「運命的」なものとして、それに固執している。そして、その領域が中心となって作り上げている五つの判然とした領域による地方分権主義によって、秘密公開要求者に対抗し、問題の糸の一端をみごとに第一の領域に握らせてしまった。この分権主義に対する君の執着が消滅しない限り、ぼくは公開要求を取り消すのが当然だろう。 ビョルンソン「アルネ」。農村で成長する少年の心の輝きの時間的前進の詩的点綴。 4月28日(木)うす曇 「完全に不合理」「自然」「理性」などの言葉は、実はそれに付与すべき「判然とした意味」を自覚しないで、言葉の持つごく常識的な内容だけを念頭において用いたものだった。(と書くと、また、常識とは何かが問題になるかも知れないが、いま、そちらへ問題を発展させることは適当ではあるまい。)しかし、君はこれらの言葉を深く究明しようとして、ここに新たな哲学的問題を提起した。君は人間が普遍的認識を持つことはないという考え方のもとに、「完全に不合理性を指摘されるということがあり得るかどうかに疑念を抱い」ている。君のこの考え方は、認識内容に関する相対主義と呼ばれるべきものであろう。なるほど、宇宙は相対性によって支配されているかも知れない。しかし、われわれは万物が相対的に運動する空間中に、一つの座標系を考えて、それを頼りに考察あるいは判断の半ば絶対的な性格を打ち立てる必要があるのではなかろうか。もしも、認識が放縦な個人的差異を許すならば、人間は社会的動物であり得ないであろう。 4月29日(金)曇 先日からの問題がひどく抽象化してきたが、その契機となった具体的なことがらに対するぼくの態度を、最終的な形で明記しておこう。その後で、抽象的な問題をそれ独自の形式において発展させることにしよう。もしも、不合理の完全な指摘が可能であったとしても、いまのぼくは君の生活主義の不合理を指摘しようとするものではない。したがって、ぼくは君の内部の領域をかき乱すような要求を撤回する。——これで、この問題の具体的な側面が落着したことになろう。この要求で君の心情を煩らわせたことを謝っておく。 4月30日(土)晴のち曇 Sam への葉書: 5月3日(火)雨 いくらかの不便を感じないこともなかった。しかし、その大きさをゼロに収束させる努力は、する価値があり、また、それほど困難でもないと思う。けさは新鮮さが失われたときに人びとを襲う感情が迫ってきたのかと思った。が、全くそうではなかった。どんな精神的重荷という名の自動車がいかなるスピードで向こうから突っ込んで来ようとも、いまの自分の心は動揺しない。Safety zone に立っているのだから。これだけでも大きな収穫といわなければならない。 5月4日(水)曇ときどき雨 返信をしたためることに対する中国人的悠長さ。ところが、最近の自分は、そのことからある種の感傷に陥るにはあまりにも安定した精神状態にある。 5月6日(金)快晴 君はいまの生活様式を不便だといったが、ぼくは全くその反対に感じている。そのことは、こちらへ来て以来のこのノートの各所に表わしても来た。しかし、この状態がぼくにとっていかに有益であっても、この状態の半分を構成しそれに与っている君が些細な不都合をでも感じるとすれば、われわれは現在の方式を不可としなければならない。とはいえ、君の感じる何らかの不便さが、われわれ自身の努力によって克服できるものであり、また、その克服の後には、われわれの様式が君にとっても光輝の多いものになる可能性が十分にあるならば、われわれのとるべき最良の手段は、君の感じている障害を除去するよう努力することであろう。そのためには、除去の対象が具体的に明らかにされなければならない。それを表明することが、はなはだしい不快をぼくに与えるだろうと君が思うようなことであっても、君は躊躇する必要はない。 5月7日(土)曇 書き遅れたが、「夏空に輝く星」の感想を記しておいてくれてありがとう。「心理的内面の展開されるのを見つめながら、理論によって打ち建てられた偉大な高層建築に発展する土台たるべき緻密にして正確な思考作用に驚きの念を抱いた。」とは、しかしながら、過大評価であろう。「下層の内面が緻密過ぎるだけに、一度狂い出したら手のつけられない大きな故障に迄拡がりはせぬかという懸念」とは、なかなかうがった懸念である。あの作品が君にそういう懸念を感じさせたとすれば、それは、まさにあの作の無数の欠点の中の一つの重要な欠点といわなければならない。 君の4月29日の日記の最後の5行。いままでの1年間にもしばしば口頭で聞かされた妹さんに対する簡明で力強い賞賛の言葉。ぼくの経験できない感情であるだけに、いっそう好ましいものとして感じられる。君が「夏空に輝く星」のヒロインに対して抱いたような「淡い憧憬の念」は浮かばないが…。 5月10日(火)快晴 一昨夜の事実が、6日の夕食からの帰路に君が持ち出した問題に焦眉性と具体性と現実性を与えたかのような感じになったが、少し冷静に考えてみると、これは、けっしてそのような性格のものではないと思われる。一昨夜の事実は、確かにわれわれの生活様式における障害ではあろう。しかし、ぼくとしては、その様式の利点と比較・秤量するとき、様式自体の改変よりも、この単なる一つの障害(いまのところ他に障害はないものと思う)を除去する努力の方が、はるかに貴重であると思う。問題の具体的解決方法は、——ぼくから君への注文という一方的な形式になるので、はなはだ恐縮だが——じつに簡単な次の一事で十分であろう。つまり、ぼくが寝床に入ってから眠り込むまでのわずかの間、何らかの方法で君が静かに勉強するという工夫と努力をしてくれさえすればよいのだ。君は、そういう工夫と努力が必要なくらいならば、様式の改変の方がはるかにましだというかも知れない。その可能性のまえには、ぼくは君がこれくらいのことをやってのけるだけの精神の広闊な柔軟さの持主であってくれることを期待するより他ない。 重力加速度ベクトルとは逆向きの彼方に拡がる空間が、散乱光の無限の貯蔵所となっているきょうのような日には、空想の翼が最も軽やかで自由な羽ばたきを行って、優雅と甘美の極致である部分空間をどこかに作り出す。女神 Freia の真の姿を自分はまだ知らない。そのためにいっそう、彼女のもてあそぶ糸のきらめきが神秘に見える。われわれがその神秘の光線の間を縫って翔ることのできる翼——空想力——を持った動物であることは何と幸せではないか。しかし、この動物は翼で翔るだけでは飽き足りないのだ。地上に舞い降りて、その光線によって生ずるわれわれ自身の影を踏みしめてみる——空想を実現する——必要があるのだ。鉄イオンのしみをのせた4枚の紙として放たれた矢は、どうなっていることだろう。 (2000年9月17日掲載) |
真摯で優雅な魂 5月16日(月)晴 昨日のこと。賀茂祭の勅使行列は、その眺めに対する期待があまりに大き過ぎた。 5月21日(土)曇 Jack への手紙: 5月23日(月)雨 "Die Hollenqual der Erwartung" (Brief einer Unbekannten) 5月25日(水)雨のち晴 「あゝ待つ身の何と疲れることよ!……」(La Porte Etroite) 5月29日(日)雨のち晴 休講の時間と休憩時間を利用して "La Porte Etroite"(狭き門、岩波文庫版)を読み上げた。この本のはしがきで訳者は「作者ジイドは、アリサへの共鳴と同情の涙とを期待してゐるのであらうか?更に言ふならば、アリサの踏んだ道を真理として提唱しているのであらうか?」と、この作の中心的興味に対するわれわれの考察を喚起する言葉を記している。人間の歩みの、真理を基準としての判断は、その中に含まれ、あるいはそれがもたらした幸福の質と量の全体によってなされるべきものであろう。(以下後述予定。) 5月31日(火)晴 全くけしからん。—— Athene(注:知恵の女神)のことだ。 6月7日(火)曇 われわれの現在の生活様式は、ぼくに何と多くの利益をもたらしていることか。この様式に対して、いままでにも倦怠に似たものとある不自由さを全然感じないことはなかった。しかし、それらはすべて克服可能であり、また、利点を太陽とすれば、それらは、道路の小さなくぼみに過ぎなかった。ぼくが精神の安定性を表わす potential 関数の極小値付近に自分を位置させることができるようになったのは、全く君との生活のお陰だ。 6月12日(日)晴 Jack の問題を昨夜解き、けさ投函。 6月17日(金)雨 (注:以下は Octo への手紙の下書き。) 6月25日(土)晴 "Brief einer Unbekannten" を調べ終わる。最後の文の簡単な前半 "Er spurte einen Tod und spurte unsterbliche Liebe: . . ." は、この短編を清らかに締めくくっている。 6月27日(月)晴 以下は、真摯で優雅な一つの神聖な魂を第二人称として記す(注:Minnie への返信の下書き)。 6月28日(火)晴 行間に潜んでいる frauenhaft な呼吸が、ぼくを leidenschaftlich にした。 7月1日(金)晴 先日来、全く「イカレて」いる。数理統計学の時間の「X1、X2、 . . . Xk の k 個の確率変数があって」という言葉が出てきたときに限らず、考えていた。 7月12日(金)晴(注:夏休み、帰省して) 「神殿」(注:Minnie の家を指す)を訪れた。女神と2時間半を過ごした。あの特徴的な微苦笑は、何という味だ! (2000年9月27日掲載) |