IDEA-ISAAC

Diary
青春時代の日記から
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多幡達夫
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Copyright © 2000 by Tatsuo Tabata


目 次

 
高校生時代(1)

大学生時代(1)
  • 新米大学生
  • 郷里での夏休み
  • 自信獲得への一歩
  • 新しい親友

  • 大学生時代(2)
    大学生時代(3)
    大学生時代(4)
    大学生時代(5)
     
    大学生時代(1)

     文中「注:…」とあるのは、本サイトへの掲載に当たって書き加えた説明。頻出する親しい友人名は外国風の呼び名になっているが、いずれも日本人。それらの名は、もともと日記中においてのみ使用していたもの、本サイトへの掲載に当って呼び名らしく修正したもの、他の友人とのバランスのため新しく採用したものからなっている。"Abe" は「アベ」ではなく、Abraham の略称の「エイブ」である。


    新米大学生

     1954年4月1日(木)晴

     三日間を振り返って記す。

    ×     ×

     3月29日。母と京都へ。3時頃、京大病院前の藤村旅館(受験中の宿に同じ)へ着く。往復に1時間ばかりかけて、母と理学部前まで歩いてみる。旅館へ帰って、「青い花」を数ページ読む。夕食後、7時過ぎに就寝。
     3月30日。6時起床。8時までに理学部事務室前へ集合。検査は本部大ホールで。理学部へは女子が3人合格していたが、理学部を受ける仲間だと最初に知った女性は不合格だったらしい。ホールで羽咋高校出身の高峰賞受賞仲間、新田君をちらりと見る。真っ白の手袋をはめていて、眼鏡をかけた笑顔が知的な感じだった人物は、合格しそうだと思っていたが、やはり、入っていた。伯父夫妻がいうところの「Y さんの坊っちゃん」とは彼だろうかなどと考えていたが、その坊っちゃんは工学部を受け、伯母の言葉によれば「おすべりになった」そうだ。
     検査は午前で終ったが、精密検査必要者の発表を待たなければならなかったので、旅館へ帰ったのは3時少し前。電話で伯母と打ち合わせて、母と京阪電車三条駅で待つ。宇治分校と、伯母の奔走で決まった下宿とを、伯母に案内して貰う。若々しく装った伯母の話しぶりは、その社交的な点で、「アンナ・カレーニナ」中のディナーなどでのアンナの話しぶりを連想させる。黄檗駅で下車すると、すぐ前が保安隊隊舎の門になっており、そこから右手には石塀、左手には堀と、その向こうの竹やぶや線路、さらに向こうの田畑や小高い山々を見ながら、閑静な道をゆっくり歩いて十分ばかり行くと、分校の正門に達する。正門から木々の間を通る長い道を進むと、ようやく何々教室と書かれた大きな札の下げられた校舎が散在するところへ出る。そこをちょっと見て引き返す。
     宇治橋からの眺めはすばらしい。嵐山のふもとの渡月橋に似ている。下宿のおばあさん(60歳)は、じつによくしゃべる。目を愛嬌よく輝かせて、ヘリコプターの話まで持ち出した。お陰で、母は重要なことを聞き忘れて出て来てしまった。
     京阪電車の四条駅で降りたのは8時頃。伯母はタクシーを呼び止める。四条通りの夜景を満喫しながら疾走する。車中、伯母は、「烏丸」は「からすま」と読むのだと母に説明する。朝、旅館を出てすぐに角帽を買ったので、この間ずっと、ぼくの頭には、この新しい代物がのっかっていた。
     夕食の前後、伯父は祖父のモウロク状態やぼくの今後などについて、「まあ、しかし」という二語の後へ結論じみた言葉を述べたり、「めっける」(見つける)、「でけない」(できない)といういい方をしたりするのが特徴である話し方で、母と会話した。入浴して12時就寝。母は伯母と翌朝の4時まで語り合ったそうだ。
     3月31日。10時半頃伯父の家を辞し、京都駅へ向かう。駅で、探偵小説に「侏儒」とあったのはこのような人かと思い当たる、身体の極度に小さい大人をみかける。憐愍の情を覚えるとともに、不気味な感じもぬぐえない。造物主の失策を責めたい気持にもなる。汽車の中では、隣の座席に、小学校3、4年生ぐらいの男の子を頭に4人の子供を連れた夫妻がいた。男性の方はは眼鏡をかけ、ゆったりと太っていて、いかにも知的な仕事に従事しているらしい風采で、彼の方が妻よりもよく子供たちの世話をしていた。その紳士が大学の教官ではないかという推量において、母と意見が一致した。いろいろな人びとの観察をさせられた一日だった。

    ×     ×

     きょうの記録。午後、Jack 来る。母と安江町へ鞄を買いに行く予定だったので、彼に一緒に来て貰う。帰りは Jack と二人だけで歩く。公園の中の織田君の家へ寄る。灯籠張りに忙しい彼の手を止めて、茶の上に会話を楽しむ。
     織田君は、Jack にジャズのよさを説明したり、金大のバッジの図案がアカンサスの葉であることを教えたりする。彼はぼくの「夏空に輝く星」を興味深く読んだといったが、登場人物のモデルの推察をするばかりで、作品の出来栄えについて批評しなかったのは物足りなかった。「古島良」のモデルである新谷君がこの小説に対する論駁を試みたいと言っていたと、Jack がこの時もらしたが、彼の再受験勉強の妨げにならないならば、それに喜んで耳を傾けたい。織田君宅での会話は、彼の和やかな性格と、彼がところどころに挟む新大学生にふさわしいユーモアとによって、楽しいものに高められた。ぼく自身は、あまりそれにあずからなかったが。

     4月2日(金)晴

     Jack と白沢写真館で入学記念写真をとり、その足で武藤先生を訪れる。この訪問の意義は、われわれの成長の途中の姿を先生に見せると同時に、われわれの心の中に将来に挑む炎をいっそう強く燃え上がらせることであろう。それだけのことは十分にできたと思う。
     われわれのささやかな晩餐会も、それがぼくに与えた精神的影響から考えて、かなりよかったと思う。きょう初めて感じたことではないが、Jack はいろいろな人に会った時に、それぞれの人に対してふさわしい簡単な質問をすぐにあびせることが巧みだ。ぼくに欠けている長所と言えよう。
     昨夕、Octo の家を尋ねて、彼が29日に神戸へ向けて発ったことを知った。彼の母は、ぼくに彼の寮の番地を教えるため、彼が両親宛に出した無事到着を知らせる葉書を下さった。最初の行を大きな字で書いてあるところなど、ぼくが受験後に母へ出した葉書の書き方とよく似ている。(ぼくがそうしたのは、書き始めるときには、あまり書くことがないように思えたからだ。)「前略ごめん下さい。」という事務的な挨拶の選択にも、彼の性格が現れているようで、面白い。

    ×     ×

     ——「…あなた方の仰しゃることはよくわかって、すでに知っていることのやうにも思はれます。…」(ノヴァーリス「青い花」)——こういう感じも、3月17日に考察した心理状態の同類として、われわれ自身よく経験し、また、他の書物でも読んだことがあるように思う(この感想自体、この文の述べているのと同様のことだ)。

     4月3日(土)うす曇

     仙宝閣で秀峰会の集まり。1時からだと思い込んで行ったところ、12時からだったので、みごとな遅刻。それでも、受賞者の自己紹介に入ったばかりで、第1回の河合氏が話しているところだった。出席率は4割5分。上埜先輩は用事があるらしい様子で、早く退場した。森教授が junior course の意義を広い教養という点で説明された後で、三浦教授が「森先生の言われた通り」を繰り返しながら話した。それにもかかわらず、最後に「狭くとも深く」というガウスの言葉を、教授自身の信条であるとして持ち出されたのは、それ自体はよい言葉でありながら、この場合の前後関係からみて、しっくりしないものであった。
     Tea party の後、機関紙「秀峰」に関する少しばかりの相談が休憩室で行われた。そこで、第1回受賞生が、いまからソフトボールをしようと提案し、金大理学部のグラウンドへ出て実行に移した。大学生のチームと高校生のチームに別れて戦ったが(女子の受賞者たちは不参加)、7対8で大学生側が負けてしまった。二水高校出身の梅田君は4回目の打席で、右翼へ痛烈な2塁打を放った。彼の温かみある口元が印象的。

     4月7日(水)うす曇ときどき晴

     母、伯母、Jack、N さん(注:七尾に住んでいた時の一歳年少の幼友だち、金沢で高校がたまたま同じになり、母同士が再度親しくしていた)、その母、そして家の留守番のおばあさんまでが、ものものしく送ってくれたのは昨日の朝のこと。Jack が何度もいってくれた言葉、レインコートの下の肩が角張った感じに見えた N さんが顔を心持ち赤らめながらいってくれた一言(これらは同じことを意味する)、それには全く注意しなければならない。
     「三四郎」の冒頭に出てくるような先生とは乗り合わせなかったが、隣に腰掛けていたのは学生だった。彼は、初めにジイドの作品を読んでいたが、途中から「不思議な国のトムキンズ」という、ルイス・キャロルの作品をもじったかと思われる題名の科学的な書物(ガモフ全集とかの一冊)を取りだしてちょっと読んだりしていた。話しかけようと思いながら、なかなかその機会を掴めなかったが、前の席のおじさんが彼にどこまで行くのかと聞き(福井も過ぎた頃だったか)、彼が「京都まで行きます」と答えたのを契機に、少し話した。彼は、京大大学院へ入ったばかりで、兄も京大を出て、いま、金大で物理の教鞭をとっている(記憶に間違いがなければ、姓は小林)そうだ。眠そうな顔をしていた彼ではあったが、それは前晩の夜更かしのためだそうで、話しぶりには大学院生らしい知性が感じられた。工学部の電気の専攻とか。

    ×     ×

     たしかに1番の札を下げた電車に乗ったはずだったが、烏丸今出川へ来た時、今出川通りを直進せず、烏丸通りへ曲がってしまったので、びっくりして次の停車場で降り、烏丸中立売、烏丸今出川、同志社前、河原町今出川、加茂大橋、関田町、百万遍と歩いた。集合2時間前に伯父の家を出たので、時間は十分あった。それから、「時計台階下東端」で入学料を納め、理学部数学教室へゆうゆうと(少し汗してではあったが)行くことができた。
     理学部長石橋教授は、立派な体格をしていて、早口にではあるが、よく響く声と明瞭な発音で、歓迎の挨拶を述べられた。英国の首相チェンバレンがまだ職工の時、釘の改良を思い立ち、その後、これから自分は英国経済を打ち立てる釘を作るのだという意気込みで政界に進出したという話を引き、われわれも、それぞれが建設しようとするものに打ち込むべき釘をしっかりと頭に描くよう勧められた。その後、履修解説と各教室主任教授による教室紹介があった。それぞれ風采に特徴のある8学科の教授が、各おのの特異なユーモアぶりを発揮して語った。続いて、同学会と称する学生自治会の役員が来て、「われわれの手でわれわれの生活を改善するために!」うんぬんと述べたが、あまり感心するところはなかった。

     4月8日(木)曇

     いろいろと心を用いる。

     4月10日(土)晴

     拙劣ではあっただろう。しかし、…。「しかし」というだけの、いや、それ以上の良心と、それに伴われて奮起する精神の力とは、自分の中にあるのだ。

    ×     ×

     入学宣誓式。学長の告辞とはもっと朗々たるものかと思っていた。しかし、内容の要点と、挿入された二三の機知的な言葉(「ムダ読みは教養の母」など)や表現は、期待にはずれないものだった。

     4月11日(日)晴

     下宿へ来る。夕食のことで失策。パンと卵1個ですませたことが、何十日間かの断食のように思われる。早く明日になってほしい。Octo と母から手紙が来ている。

     4月16日(金)晴

     昨日、Sam(注:高校時代に日記を交換していた親友。大学生初期のこの日記も、交換を継続するつもりで書かれたが、実際には交換は行われなかった)への手紙の中で、many ways of pronunciation と書くべきところを誤って書いた。新谷君へ手紙を書く。母へ葉書。菜の花畑を電車の窓から見ながら、校内の食堂へ夕食に通っている。

     4月18日(日)雨

     夕食からの帰りの車中で、「宇治に下宿していられるのですか」と、一人の学生に話しかけられた。彼は自分のいるところが、平等院の近くの蓮華の何番地とかだと教えた。眼鏡をかけていて、年上らしかった。ホームへ降りたとき、彼の襟章の E であることが分かった。改札口へ出る前に彼は、「あなたは新聞をどうしていられますか」と聞いた。「下宿で見せてもらっています」と答えた。彼は、「新聞を見ないと、社会から取り残されたような気がしてね」と、ありふれた感想を、それに重みを与えるような口調で述べた。ぼくは「は、はあ」といった。
     昨夜、題名がラテン語の鴎外の小説を一気に読む。

    ×     ×

     「青い花」を読み終えたのは、まだ伯父の家にいた時だった。3年程前の日記中で「極度にロマンチック」という言葉を記したことがあったが、それは誤用といわなけらばならない。この小説こそ、その言葉の真の意味において、そう呼ばれ得るものである。

    ×     ×

     昨日、Jack へ手紙。きょうもそれに似た仕事。

     4月19日(月)曇

     あらゆることの意義を疑い、あらゆることの中に意義を認める。英語の時間、皆席に着いていたが教授が来なかったので、"If you allow me to make friends with you, I should be happy. I'm waiting for your answer." と書いた紙片を、少し前の席にいた堀野君に渡した。彼は振り返って、「よろしく」といった。
     数学は高校時代までのもののように直感では分からない。論理の適用の繰り返しがいつの間にか証明を与えている。

     4月21日(水)

     上品な紳士に恋をしかけたところ、それが意外にもわけなく成就したが、自分の粗野さのため、その成就をもてあましている女性を想像する。

     4月22日(木)曇

     Jack へ手紙。

     4月25日(日)

     争う、戦う、自分自身と。
     「ジャン・クリストフ(1)」p. 45(岩波文庫版)。「夏空に輝く星」の中で「新感情蘇生の瞬間」と記したものと同一のものではないかと思われる心理状態の表現に出合う。
     私鉄スト。朝・夕食だけ分校まで歩いてみる。片道40分。

     4月27日(火)小雨のち曇

     ひとりの人間の詩精神の欠如に憤怒を覚える。

     4月29日(木)曇、夕方から雨

     時間をきちんと使うための努力。私鉄ストのため2往復に1時間20分を用いる。昼食は宇治橋際で。25日にぼくに「sin a + cos a = (3/2)1/2の時 tan a を求めよ、というのはどうして解いたらよいのだろう。妹に手紙で聞かれたのだが、三角関数は苦手で…」と、情けないことをいっていた、やや大きめの顔をした文学部の学生とそこで一緒になって、少し語り合った。姫路の出身で、午前中、宇治川に沿って上ってみたそうだ。写生をしてみたかったとも言っていた。
     部屋代支払い。

     5月6日(木)小雨

     "High-School English" の習わなかった課の中にあった "Renew thyself everyday completely." という言葉を、それが持つ可能な意味において実践する。
     ルソーの「懺悔録」を読了したのは一昨日。どの辺りからだったか忘れたが、この偉大な記録はグリムを首謀者とする、彼を陥れようとする連中の奸計・謀略の推断にひじょうに多くの部分を割き始める。ついには、ほとんどすべてが、彼らによる圧迫の記述になってくる。最後には、不幸な流浪の生活。われわれは、彼が受けたような迫害と陰謀に悩まされないとすれば、彼が成したより以上の仕事を成し遂げ得てもよいとさえ思われる。しかし、そうした外部的な大仕事にもまして、「私はその人よりも立派なものでした、と言ひ得るならば言はしめ給へ。」(本書冒頭の語)ということができるだけ、自らの生涯を内部的にも立派なものとして築き上げることの、いかに困難なことか。ただし、不可能的なまでに困難なことであっても、われわれはそのための努力を怠ってはならないのだ。

    ×     ×

     4月29日に記した人物は、昨年入学して1年休学していたのだそうだ。神戸で空襲に合い、姫路に移ったことなど、もの静かにいろいろと話してくれる。思索的な話しぶりと、ユーモアを加味しようとする努力が好ましく感じられる。昨日の帰りに黄檗駅で彼がポケットからちょっと出した岩波文庫の赤帯が、ぼくが先日から読んでいるものと同じだったので驚く。彼は自分の読み方が速くないとこぼしたので、「ぼくもそうだ」といって、安心させる。

     5月9日(日)雨

     食事の直後に空腹のような感じ。どうしたのだろう。

     5月13日(木)晴

     今年の初め頃のラジオ歌謡にサトウ・ハチロー作詞の「よきよき歌よき夢もよき」とかいうのがあったが、そのように「よき」を連発したい気分だ。格別よいことをやってのけたのではないが。

     5月17日(月)曇のち晴

     心理学の講義は雑然としているので、いままでノートを作らなかった。しかし、教科書が試験前に繰り返して目を通すことの困難なほど丁寧に書かれた厚い本なので、教科書の要点を抜き書きすべく、まず序論から読んでみる。(欄外注記:抜き書も結局作らなかった。)そこに次の文がある。
     「近頃の物理学では物質(微粒子)は或る働きをもった空間の一容量であり、しかもそれはその位置を決めようとすれば運動量が不確定となり、運動量を確定しようとすれば位置はわからなくなるようなものであるといわれる。」
     これを最初に読んだ時は、たわ言のように分かりにくいと思っていたが、最近「不思議の国のトムキンズ」を読んだために、「はっきりとは分からないが、そういうことがあることだけは知っている」と思いながら読めるようになっているのを発見する。

     5月18日(火)晴

      「ジャン・クリストフ(1)」読了。P. 339にあった「丁寧な無関心さの空虚」という言葉。「丁寧な」に当たるものは欠けているが、それに似た態度を最近誰かにとられたようだ。しかし、そのことは気にかけない。

     5月24日(水)曇のち雨

     平静な気持で書く、4月27日と5月18日の記述は、ぼくの精神が4次元の存在で、ぼくという世界帯のきょうの部分をそれらの日々において「見る」ことができたならば、書かなかったことであろうと。人間であることは愉快なことだ。…

    ×     ×

     川畑教授がその最初の時間に話されたのといくらか類似した発生事情による、人間関係の一時的結果。これも気にかけまい。

     5月25日(木)曇のち晴  

    (注:以下はSam への葉書に書いた話の続きとして書き記した。英会話の時間のこと。)
     ぼくは "My name means many flags." と答えた。"Many what?" とGilmartin さんは聞き返した。「幡」が flag の意だとは一度辞書で調べたように思ったのだが、絶対的な自信がなかったので、"I don't know!" と答えた。すると Father Gilmartin は "Oh, how long have you had your name?" と言った。笑いが起こった。"I have it for nineteen years." と答えた。次に Father は "Then, what does Akira mean?" と尋ねた。神父さんが聴講者名簿から "Mr. Tabata" と指名したのは理学部2組の田畑晃君で、彼は欠席していたのだ。それで、"I am not Akira." と答えた。Gilmartin さんは "I'm sorry." と言った後、"Tabata what?" と続いて尋ねた。"Tatsuo Tabata!" "Oh, you are Tatsuo Tabata. What does Tatsuo mean?" "It means a successful man." 今度は自信を持って即座に答えた。再び笑いが起こった。
     次は Father のお決まりの "Where do you come from?" という質問である。"I come from Ishikawa Prefecture." "Where is Ishikawa Prefecture?" "It is in Hokuriku district." "Where is Hokuriku district?" ここで少し困っていると、神父さんは "Kyoto" という言葉の入った、疑問詞のない質問をされたので、京都から遠いかというのだろうと見当をつけて、"Yes." と言ったところ、それは哄笑を生んだ。"No." というべきだったらしい。しかし、"Do you live in Kyoto?" という質問に "Perhaps." と答えたものもいたりするこの時間だから、たくさん質問を受ければ、一つぐらい答えそこなうのが適当なところなのだ。Father は、なおも北陸の位置について尋ねられた。"It is on the north side of Japan." と言ったところ、Gilmartin さんは北海道ほど北にあるのかと言って、皆を笑わせた。
     次に "What is Ishikawa Prefecture famous for?" という質問である。ちょっと考えていると、学生の間から「百万石!」の声が聞こえたので、それをヒントに、"It is famous for the daimyo Maeda." と答えた。"Who is Maeda?" "He is a samurai of . . . " ""Of what?" " . . ." High salary とでもいおうかと思いながら、間が空きすぎてしまった。"Is he living now?" "No, he is not." Gilmartin さんは "Seven Samurais" という映画を見たかと尋ねられた。"No, I have not." 映画をしばしば見に行くかという質問が次に来た。"I seldom do." "Oh, you are a busy student, arn't you?" "Yes!" ここでようやく text に関する質問に移った。

     6月1日(火)曇

     「ジャン・クリストフ(2)」p. 189「…僕は美しいものが好きなんだ。…」
    ジャンのこの言葉と全く同じことをわれわれ S1(理学部1組)の自己紹介の時にいったものがいた。
     P. 181「…(不平を)云はれたって自分は雨が落ちかかったほどにも思はないといふこと、…」
    この表現を現在の日本で用いるとすれば、吉田首相の3、4ヵ月前の国会での冗談「天気予報とともに信じてよい」のような効果を持つに違いない。ロマン・ロランの夢想だにしなかったことだろうが。いま、幼稚園児までが「放射能」という言葉を知っている。
     また、(1)の p. 235「彼が生きてゐるのは、この覚束なき未来の中にである、一原子のために永久に崩壊されるかも知れない——それは構ふところではない——この未来の中に、其処にこそ彼は生きてゐるのである。」
    ここを読んだ時には、この作品が30年以上前に書き上げられていたということが不思議だった。ロマン・ロランはなぜ原爆を予想したようなことを書くことが出来たのだろう。

     6月9日(水)曇一時小雨

     「紅孔雀」のテーマ音楽は、受験勉強の仕上げに忙しかった頃を思い出させて、懐しい。

    ×     ×

     (注:欄外メモ)無知の冷淡な傲慢さの表情。

     6月19日 雨

     昨日の広大名誉教授長田新氏の講演。発音の際に舌がいかに動くものかを示すように、口を大きく開けて話される。「原爆の子」の序文と同様の少し長い前置き。氏が京大へ入った時の初印象(「天皇陛下をありがたいと思うものは手を挙げろ。その二人出て行け。」)大学は国家の上に座ってこれを導くものでなければならないという話。「原爆の惨禍に対して、詩人や画家や作家や教育者(「私自身教育者だが」)は立ち上がって叫んだ。しかるに自然科学者や医者は何をしていたか!」(先に講演された湯川、中泉両博士はすでに退場していられた)「その中にあってただ一人、都筑博士の活躍がある。博士こそは日本のガリレオである。ジョルダーノ・ブルーノである!」という話(原爆に放射性毒ガスが含まれていたという主張を、マッカーサー司令官の否認要求にもかかわらず博士が持ち続けたという内幕的物語)。「沈黙は共犯である」という言葉の引用。
     東大の中泉博士は、あたかも科学漫画にでも出て来る医者のような様子で、「ビキニの水爆実験が、いかに八百屋さんや魚屋さんにまで影響を与えたかについて話しましょう」と始められ、「…するってぇと」という江戸っ子的表現を交えながら、第五福竜丸の船員の治療のために、どのような研究をしたかを、幻燈を使って説明された。

     7月7日

     7.7革命。

    (2000年7月19日掲載)
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    郷里での夏休み

    Probability
    マッチ棒が線を横切る確率に関する
    たわむれの図

     7月13日(火)

     図の着色部分の面積の比で出せるとすれば、πr2/4r2 = π/4 。Jack の推論がなぜ誤った確率に到達するか、指摘できない。

     7月15日(木)曇のち小雨

     Cauchy の鑑定法の証明の難解点、Jack に説明しながら考えることによって解決。数 C 演習問題 I の10、「行列および行列式」の定理7の証明を読むことによって理解。
     夕食後、母と大谷廟所へ。「夏空に輝く星」中のその場面を思い出すとともに、全く敬虔な気持になる。
     一昨日、浪人中の新谷君来る。宇治からの彼への手紙で要求した「夏空に輝く星」に対する彼の論駁の表明がある、木曾坂を下りながら。反論というのではなく、君の教えを乞うのだと、彼は付け加え、「君はあれを書くとき、主観的に書いたのか客観的に書いたのか」と、機知的な問いを放つ。Sam が「逍遥試し」の読後、紫錦台中の講堂で「いま何を考えていた?」と、その冒頭の主人公の質問を口にしたのが思い出される。
     7月9日夕食後、宇治川縁のベンチに腰掛けての、Abe の話。女子が大学へ来ることの意義の有無論から、血統その他を考慮する彼の恋愛態度の話。人びとの「家」に対する観念。理性が感情より「ごっつい強かった」という、近く結婚する彼の姉に関する話。

     7月16日(金)曇

     メビウスの面では、いったいどんなことが起こるのか。「この紙切れをもう一つの工夫された紙面の上に接したままで裏返しにできるか」などとJack に聞いたが、そんなことができるはずもない。「一、二、三、…、無限大」を読んだときのぼくは、ソルカの魔術にでもかかっていたのか。

     7月25日(土)晴

     色聴者でなくとも、ありありと褐色を感じることができるような、音声の熱帯的な響きを、空中へ押し出すことが、なるほど巧みだと思われる人物ではある。

     7月27日(火)晴

     はなはだ手ぬるい革命だ。このことについて多くは書くまい。とにかく実行しなければならない。それ以外に道はない。
     Jack と新谷君のところへ。あまり多くを考えない。いま必要なことは、考えることよりも、汲々として何か一事につとめることだ。
     夕刊の「相談室」に「斜視を直したい」という見出しがあったので、エカテリーナ・マースロワ(カチューシャ)を思い出すとともに、小説の主人公の風貌の特徴を集めて「話の泉」の問題が作れそうだと思っていた。その矢先、全く偶然にも、世界美人コンテストに因んでの類似の出題が今夜の「話の泉」にあったばかりでなく、「ソ連代表」としてカチューシャが登場したのには驚いた。(サトウ・ハチローが「彼女は斜視だ」と答えていた。)
     ぼく自身の混乱状態を反映して、最近の日記は乱れている。これをよい状態へ導き改めることを内心誓う。

     7月28日(水)曇のち雨

     夜中に目を覚ました時にも、こういう進み方で全部やれるのだろうかと気にかかるほど多くの、夏休み中の自分への課題。しかし、けっして多過ぎはしない。

     7月30日(金)雨

     「週刊朝日」5月9日号(少し古いが、先日 Sam が話していた男女の服装にいくらか関係がある) のトップ記事「男性に関する十二章」の付記「悩み多き男性生活」の中で、伊藤整は次のように書いている。
     「私は、女性が我々と同様の服装をすることを要求する権利があるような気がする。女性もまた我々と同じ姿かたちの人間として、話し合い、論じ合い、仕事をし合うことを。そして、我々がある時、相手に友情を抱いてよく話して見たら、相手は実は女性であった。だから、人類の絶滅を憂うるのあまり、一緒に住んだ、という程度の服装に、女性らがなれば、その時、真の男女同権なるものがこの世に現れるであろう。…」
     彼が続いて書いているように「今のまゝでは全く不公平で、男性にのみ経済的道徳的な負担が全部かかるという仕組みになっている」ことを考えてのことではなかったが、ぼくも上記引用文と同じことを空想してみたことがある。それは、単なる空想というよりむしろ、その時の自分の心理状態の合理化の手段として、頭の中に構成されたものだった。われわれは時には、こういうことをいくらか真面目に望みたくもなるのだが、こういう状態が実現することがあるとすれば、はたしてどんなものだろうか。そういう時代の精神がわれわれの時代の精神と比較される時、こうむっているだろうと思われる損失を枚挙できるように思う。しかし、そういう状態の出現がもたらす結果については、われわれは正確な予測ができない、創立記念日の湯川博士の講演の結論のように。

     8月1日(日)晴

     Octo を訪れる。途中、今朝東京から帰ったという永林先輩に合う。短いが感じの良い会話。「『新樹』を送って貰って、おたくの小説を読みましたよ」といっていた。三度も読んでくれたそうだ。その拙さはもとより、「月」が「力」となっているような誤植なども、あの作を彼にとって難解なものとしたことだろう。
     Octo とは静かな言葉のやりとり。一度彼は、「何を話そうか。すぐに話を逃がしてしまってダメだ。」といったが、われわれの会話は十分だった。精神を養うものは、沈黙ばかりではないが、饒舌のみでもない。

     8月3日(火)晴

     荒間先生の家へ集まり「もと6年2組のわれわれで休み中にどこかへ行く相談」をする。岩崎教授嬢(彼女の容貌は父親似らしいことに気づく)を初め、洋裁学院や栄養学院へ行っている連中を交えた女性6人はなんとよくしゃべったことだろう。彼女らの有限な——量においてはもちろんだが、その深みにおいてはるかに有限な——話は、あたかも Heine-Borel の被覆定理がここにおいても適用されるかのように、われわれが集まっていた時間という閉集合をみごとに被覆し得るのであった。男性としては、他に竹部君が出席した。22日には上井君や荒木君も参加するだろう。

     8月5日(木)うす曇ときどき晴 〜 7日(土)晴

     Abe への手紙(注:以下の手紙文は、下書きと記録を兼ねて、まず日記帳に記したものである。)

    ×     ×

     活字の上にぴったりと引きつけられていた視覚と、ほとんど神経の集中の忘れられていた聴覚の活動対象をふいに窓外に向け、いままでたどってきた書物の世界の外へと飛翔させると、空間と時間の観念が夏の色彩と音の作用によって、互いに区別のないものとなって心を取り巻くように感じられる。セミが発する単調な連続音は、ある幅を持って空間を進んでいく3次元の存在のような印象を与える。また、繁ったイチジクの葉が強烈に輝く太陽から受け取ってその間にはらませている光の刺激は、ある時間的な量を提示しているかのように思われる。「時の襞」という表現を何かで読んだように思うが、相対性原理における時間軸と空間軸の可換性の観点からいっても無理ではないこの表現は、こうした折の感覚において直接理解できるような気がする。
     時間軸の7月10日以前のところを歩いていた時に、60日の休暇の中へぶち込んでおいた成し遂げたい、成し遂げなければならないことがらが、一向に片づかないうちに、もう君に手紙を出すのが適当な、休暇の半ば近くになってしまった。君の方は、元気でいろいろな計画を進めていることだろう。(年長の君に対してにもかかわらず、丁寧の助動詞を用いない文体で書き始めてしまった。"Good-bye Mr. Chips" の高谷教授は、英国では宴会の席上酒をすすめられても、"on principle" の二語をタテとして拒絶すれば、わが国においてのように無理に飲まなくてもよいのだということを話されたが、ぼくも友人への手紙は「主義として」すべて非対話体で書くことにしているということで、許してくれ給え。「ます」「です」調は、文章においてはかなり饒舌家となるぼくにとっては、面倒であるばかりでなく、われわれ親しい間柄にとっては、無意味有害であるとさえ信ずる。——この主張が保守的な考えのよい面をいろいろな点において支持する君の気に障ったならば、それも許してくれ給え。——)
     君はどれだけ多くの読書ができただろうか。ぼくは、おおまかにいえば、休みの最初の一週間は、地元の金沢大学へ行っている友人とお互いの大学について語り合うことに、次の一週間は、数学の定理の復習に、次の一週間は、独文法の少しばかりの予習と、難解な物理演習問題の解答に、その次の一週間は(きょうはまだその途中なのだが)、倦怠的な気分に、それぞれたくさんの時間を占領されてしまって、十分な読書はまだできていない。シュヴェーグラーの「西洋哲学史」をひもといてみたが、ようやくカントのところまで到達したところだ。アリストテレスの質料、形相、運動因、目的という形而上学的四原理が、どうして、つきつめて見れば質料と形相の対立に還元されるかの記述や、ロックの経験論の徹底化が、いかにして「自分とか私とかいうものは全く幻想にもとづいている」というヒュームの懐疑論になるかの記述などを読むときには、数学の定理の証明を理解するときに感じられるのと同じ性質の興味が感じられる。しかし、この種の書物は、精神の高度の統一の下で読まれることを要求するので、なかなか厄介な代物といわなければならない。
     「ジャン・クリストフ」は、まだ6冊目の終わり近くまでしか行っていない。一人の主人公と知己になり、彼の背景にある多くの登場人物や社会的・芸術的・精神的・宗教的・哲学的諸問題を作者とともに観察し、考察することの他に、偉大な作品を読むときにぼくが感ずる喜びは、自分が片鱗的に感じているばかりでとてもうまく表現できないでいるようなことがらが、作者によってずばりと書きのけられているのを見出したり、些細な一、二句が全く自分の気に入る表現であると感じたりするときに抱くそれである。「ジャン・クリストフ」は、これまでに読んだどの書物よりも多くのこの喜びを、ぼくに対して内蔵しているようだ。その内蔵物を思う存分玩味するため、せいぜいゆっくり読むつもりだ。
     だが、一つの厖大な書物とあまり長く関係していると、少し変わった味のものに接したくなって来ないこともない。変化を求める頭の糧としては、日本文学の中から何かを選ぶのが適当なように思われる。金沢大学の理学部へ入っている友人が使っている英語のテキストの一冊は、S. モームの "Books and You" だが、その初めの方に、「一時に何冊もの本を読むことは、けっして悪いことではない」ということが書いてあり、モーム自身、午前中の頭のすっきりしている時には、哲学や科学関係のものを読み、午後は小説を、晩は詩や評論を読むことにしている、というように書いてあった(午後はどういう理由で小説を読んだのか、評論がはたして晩になっていたかどうか、記憶が確かでないが)。これを少し変形した、日本・外国両文学の併読にいくらか気が引かれるのだ。といっても、他方においては、早くジャン・クリストフを完全に知ってしまいたい欲望も強く存在している。
     フランス語で「音」のことをなんというのかね。それから「眼」は?突然へんな質問をするが、これもいま書いてきた読書に関係があるのだ。「ジャン・クリストフ」の3冊目のジャンとシュルツ老人との会話に、…(注:引用文が日記中では省略されている)…というのがあったのを君は覚えていないだろうか。「音」を「ね」と読むと、後の「眼」がそれと似た発音なので、「音(ね)」と聞いて「眼」と言い換えたのがジャンのちょっとした言葉のいたずらということになるのだ。ぼくは初め「音」を「おと」と黙読して通過したので、もう少しでこのことに気づかないところだった。が、フランス語でも「音」と「眼」とは似た発音の言葉なのかね。高等学校のとき、"Alice in Wonderland" の訳注のついているのを読んだことがある。この本に多い英語の洒落の、あるところでは巧みに、またあるところでははなはだ苦しく、日本語の洒落に直されていたことが思い出される。上記の会話は、翻訳との関係で面白く思われたので、他の気を引いた文章と同様に、その掲載ページを書き留めておいたのだが、そうすることを忘れて残念に思っている「ジャン・クリストフ」中の一つの文は、「死したる真理よりも、向上せんと努力する誤謬の方がどんなにかよい」というようなのだった。
     G. ギッシングの "The Private Papers of Henry Ryecroft" の一節に、「少年時代に、平常は取り出すことを禁じられていた立派な装幀の古典を日曜日にだけは父の書棚から取り出すことを許されていたので、日曜と古典文学との間に連想が生じ、今でも安息日にはそうした書物を読むのに適した精神の状態が起こってくる。」といったようなことが書かれていた。ぼくの場合にも、特別な予定や、友達との約束もなくて、静かに家で過ごす休暇中の日々と読書とは切り離しがたい関係にある。それが、一、二日の悪天候の後の晴れ上がった、戸外の明るさが散歩を激しく誘いかける午後である時は、かえって、心の一部が、雰囲気との釣り合いにおいて、読書に最も適した状態をそれ自身の中に見出すのである。しかし、ぼくの家に飼っている犬(あまり大きくならない、風采の上がらない雑種だ)は、ぼくが雨の降っていない日に全く家に閉じこもって過ごすことを、けっして許さない。彼女のお陰で、毎日規則正しく、公園や郊外へ足を運ぶことができる。公園は日本三公園の一つの兼六園が、すぐ近くなのだ。
    兼六園
    兼六園

     登校下校時にいつも面白い話を聞かせてくれる君の友情に報いるために、気を配って筆を運び続けるうちに、思わぬ長い手紙になってしまった。以上の平凡な記述が君に示唆するように、ぼくは大学生としての最初の夏休みをごく淡々と送っているが、盆の15日を中心とした数日間は墓参のため田舎の親戚を訪れて、自然に親しんでくるつもりでいる。
     夏休み後は、またいろいろ語り聞かせてくれ給え。お元気で。
     1954年8月7日
     (便箋6枚)

     8月8日(日)晴

     紫錦台中の同窓会は、この間の幹事会によって、今年から13日以前に8月の第2日曜がある年にはその日に、第2日曜が14日である時には13日に行うことに決められたのだそうだ。後半の13日というのは、総会の席上、天川先生の発言によって、第1日曜と改められた。
     Octo があまり早く誘いに来たので、学校へ行ってから退屈した。Sam にも来るように、昨日いっておけばよかったと思った。参集者は全く少なかった。われわれと同期の卒業生は、もと3年7組の男女各3名と高島君しかいなかった。多田校長の今年の話は、毎年の話に共通の内容が大部分を占めていた。会員の意見発表においては、Wit が、二水高校の同窓会を金劇で行ったところ、集まりがよかったことを述べ、この会も場所を変えるなどして、集まりをよくする工夫をすべきだと言った。
     余興は、昨年と同じ人物による手品だった。同じのもあったが、全く異なった不思議なのもあった。昨年どこからか出してきた傘が、今度はずっと舞台近くに座った Octo とぼくの目に、手品の開始前にちらりと見えたので興ざめだった。完全な輪を鎖状に連結するのと、ぼくも一枚引き抜いて覚えておいたトランプのカードを目隠ししてナイフで突き当てるのとは、神秘的に見えた。

     8月10日(火)晴

     プルキニェ現象の美しさ。それももう退いて、緑は黒ずんで来た。10日あまりの月。少しかすんでいる。
     精神に作用する他の生命の吸引力。その反作用として沸き立つ醸成意欲。醸成という言葉は、二つの意味を持っている。一つはもちろん派生した意味だろうが、それらをいずれも、さらに比喩的に用いる場合、一方は含蓄的な、他方は消滅的なものとなるであろう。

     8月21日(土)晴

     一昨日以来時間割がさんざん踏みにじられている。Lotus が、向かいの彼の叔母の家へ来ているのだ。彼の身体には不安の影が漂っている。胃が悪いとかで、大学病院にいる叔母の夫に相談に来て、きょう病院へ行ったそうだ。「たいしたことはなかったのだ」と言っていた。彼はどうして、毎日方々を落ち着きなく歩き回っているのだろう。どうにか明日の湯涌行き参加を承知させた、あすの晩東京へ帰るそうだが。(注:彼は結局不参加だった。)
     京大合格の決まった時、彼に出した葉書を「ぼくは君に相対する時には、『デイヴィッド・コッパーフィールド』の主人公が彼の友のスティアフォースに相対する時に抱くような気持を抱かずにはいられない。」というように書き起こしたのだったが、今はそんな感じがほとんどしない。彼との接触の全面積において、ぼくは彼を上からのみ眺める。だが、ぼくは彼と時間を共有する時に、そのことを会話において如実に示し、彼の精神をかき立てるに十分な自己表現力をまだ完全にはものにしていないことを、自ら遺憾とすべきである。
     Lotus と林君のところへ行ってみた。宇治の下宿で何度彼の夢を見たことだろう。高校1年の冬休みの訪問、昨年2学期初めのイロヤ書店での短い会話、その他彼について思い出すのは、小学校の頃の分別臭いあわてぶり。「もうこんなのはたまらん」と彼は浪人生活についていっていた。しかし、彼の体格はよくなっていた。

     8月26日(木)晴

     沈静した精神をもって、Lotus からの簡単な葉書に返事を書く:

    ×     ×

     もしも参加者たる傍観者という言葉があるとすれば、それは先日の湯涌行きの時のぼくを表現するのに適当な言葉だ。君が容易に想像できるだろう通り、その小旅行の間中ぼくはほとんど声を発しなかった。しかし、成人したミンナについて「ジャン・クリストフ」の中で述べられていた言い回しを借りるならば、「容積は大きくなって」いるが、小学校時代以来の性格を具有し続けている旧級友たちを静かに観察して過ごした一日は、ぼくにとって、けっして退屈ではなかった。
     「ジャン・クリストフ」はどうにか第9巻の終り近くまで読んだところだが、「死したる真理よりも、向上せんと努力する誤謬の方がどんなにかよい」という精神で生かされているジャンの強烈で逞しい人間性は、読者を鼓舞し奮い立たせずにはいない。君もまず目前の標識に向かって、健康を配慮した上、十分努力してくれ給え。

     8月30日(月)曇のち雨

     熱さの感覚はもう皮膚から遠ざかった。雨はしばしば、つねにいささかの重荷に押さえつけられているために生じがちなわれわれの心の表面の起伏を破砕し、混沌として凝固しているわれわれの感情的異物を分解する働きをすることがある。雨のその働きのためか、いまのぼくは、心の激越性を和らげられ、衝動的感情の岩塊を溶解された内環境を見出している。しかし、そのいくらか平坦にされた感情の表面にも、激烈性という礫をとらえた層が顔を出しており、その下を空想性という溶液が豊富に流れて、機会をみつけ次第、凝固しようとしている。

     8月31日(火)曇

     "Sublime is the dominion of the mind over the body." という "High-School English" の "Uncle Tom's Cabin" の中にあった一文章が口に上って来る。いままでにもそういうことはよくあった。しかし、それらの瞬間には、暗い恐怖が、自分の意志の弱さに対する不安が、つねに自分と共存していたので、そのことをこのノートに記すことは、あえてしなかった。

     9月2日(木)雨

     Jack から借りた「田舎教師」を昨日読み上げた。一つの小説の内容を短い言葉で要約することが許されるとすれば、花袋のこの作品については、貧困と病気の退くことのない攻撃に会った一青年を主人公とし、日露戦争を後半の時代背景とした、結末的には一つの生命の不運な寂しさを訴えようとしている物語とでもいうことができよう。一方においてロマン・ロランの大作を読んでいるので、その対比効果のためでもあるが、主人公清三の性格には、ひじょうな物足りなさを感じた。何らかの人生的問題が感動を込めて把握されていることを、われわれは文学作品に求めながら読むのであるから、これに応えるには、作品は、取り扱っている問題や経験において、ある意味での強烈さを持つことが必要である。ところが、清三の描写のどこからも、そうした強烈性は感じられない。われわれを特に引きつける何物も、彼には与えられていないのだ。
     高校2年の時に使った国語乙のテキストにこの作品の一節が載っていた。そこを習った時、竹谷先生は、われわれにその節の感想を尋ねられた。ぼくは「日本画のような筆致を感ずる」と言おうと思ったのだが、外国文学の翻訳と比較すればそれはあまりに当然すぎること、われわれが頭を働かせて探り当てる以前に厳然と存在する明瞭なことがらだと思い直して、言わなかった。しかし、メリンスという種類の織物が帯などになってよく出てくるこの小説全体を読み通してみると、油絵と日本画の比どころではないのに気づいた。線と色彩が弱すぎるのだ。かといって、それは完全な生の枯れがれしさの表現にもなっていない。同じように哀れな運命の主人公を題材にしたにしても、もっと勢いのよい筆遣いで描き上げたならば、われわれは興味を持って読んだだろう。

     9月4日(土)晴

     満足といくらかのあざけりの混合した様子を示しているやや大きめの、力を込めて閉じ合わされている唇。わずかの影もなく見開かれて、無邪気な快活さをたたえている瞳。眼前のものに対して、信頼と反発とを率直に表現するための道具となり得る鼻。(注:洋画を見て、主演女優の容貌を言葉でスケッチしたもの。次も同じ。)

    ×     ×

     両眉の中程から額の両端にかけてその最も稠密なところが存在する力の場に位置を占めている丸い目。淡い感じをもって開閉される口。好奇的に飛び出ている鼻。茶目っ気のあるくぼみを作っている頬。

     (注:以下2日分、別紙への記入。)

     9月7日(火)晴

     使っている最中の日記帳を、下宿へ送るリンゴの空き箱に昨夜入れてしまったので、この紙片に記す。  しばらくの間忘れていた自分の思い出のささやかな楽しみに満ちた一片を、昨夜の NHK 第2放送9時からの番組が、脳の最上層にまで取り出してくれた。「ジャン・クリストフ」(4)の p. 212に、ジャンが愛していた聖書中の面影の一つ、青年期のダヴィデに対して彼が与えていた想像上の姿を記述して、「南方のジーグフリードであり」とあった。これを読んだとき、その名がどこかで読んで知っているもののような気がしながら、はっきりとは思い出せなかった。ところが昨夜、リンゴ箱に本を詰めたり、荷札に宛先を書いたりしているときに、いつもは聞いたことのないその時間の第2放送の番組が何であるかを新聞で探すと、「ジーグフリートの死」とあった。おやっと思ってスイッチを捻った。聞いているうちに、次第にある記憶がよみがえって来た。この不死身の勇士の背にあるただ一つの急所のところへ話が来たとき、記憶は全く明瞭になった。大連にいたとき、加藤さんの小母さんから借りて来た本で読んだのだった。昨年熟読した旺文社の「世界史の研究」の中世の文化を記した左側のページのなかほどに書いてあった「ニーベルンゲンの歌」の物語をかつて読んだことがあったのだとは、昨夜まで気づかなかった。
     加藤さんの息子さんは、母がお互いに近くに住んでいることを知ったすぐ後に結婚し、間もなく応召した。それで、加藤さんは寂しい生活を送り始めていたが、書物から得られた心の豊かさが、接する者に落ち着いた穏やかさを伴った浪慢性を感じさせる人だった。この中年の小母さんを、母と一緒に訪れたときのことをよく覚えている。ぼくが一人で遊びに行ったこともあった。小母さんとダイヤモンドゲームをすることと、本を借りてくるのが目的だった。小母さんはダイヤモンドゲームがひじょうに上手で、ぼくは全知力の傾倒も及ばず、つねに敗北を喫するのだった。小母さんの容貌を明確には記憶していない。

     9月9日(木)晴

     無垢の明朗さと童心への迎合性とを伴った、声の奇妙な遊戯——NHK ラジオ歌謡の中村メイ子の歌。

    (2000年7月21日掲載)
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    自信獲得への一歩

     9月25日(土)曇のち雨

     台風12、14号。御木本翁の死去。久保山さんの死。分校分割統合問題、滝川暴言。

     9月27日(月)晴

     試験始まる。独語、Programm の訳語がまずかった。
     洞爺丸沈没。Titanic 号の遭難を "Good-bye, Mr. Chips" でちょうど1週間前に習ったところだ。

     9月28日(火)雨

     有機化学。Ethylene glycol だったか。硝酸銀の「アンモニア溶液」だとは覚えていなかった。酸で acetylene にもどさなければならないのだろうか。水では?
     体育衛生。炭酸ガスの増加が影響するにいたらないことは、常識でも判断できなければならなかった。ノート中の小さな丸を付けてあった3項目が、3大原因だったことを全く忘れていた。言葉が足らなかったのではなくて、記録と記憶が足らなかったもののようだ。

     9月29日(水)晴

     英語。「無実を信ずる」はまずかった。"Inexplicable" の見当をつけて書いた訳語は少しはずれていた。"Under the skin" は、「本質において」というような意味だろうか。辞書に見当たらないが。(注:「ランダムハウス英和大辞典」によれば、「一皮むけば、本心は」)

     9月30日(木)曇

     地学。基底礫岩、風化による花崗岩の褐色化、どちらもノートによく書いてなかったことだ。Basal conglomerate は、その名前だけを記してあったノートの位置から考えて、とにかく説明をつけておいた。「間隙連鎖」という訳語から考えられる意味は「間隙を埋めて前後をつなぐ」というものであるが、missing link という英語は、明らかに「欠如した連鎖」、すなわち、間隙そのものを指している。原語に従って説明しておくべきだろう。
     試験という言葉をある一面から定義すれば、全く手抜かりの自覚のないところに手抜かりを指摘する一つの指示器と言ってもよかろう。

     10月1日(金)晴

     独文法、簡単。

     10月4日(月)晴

     "Chips" は応用問題がなく、面白くなかった。

     10月5日(火)晴

     無機化学。Isomorphism という語の説明に、厳密にいえば law of isomorphism の説明になるものを書いた。どうせこのことは書かなければならないのだから、あまり減点されまい。しかし、Mitscherlich の名を書いておいた方がよかったに違いない。Gas constant を pV =n RT を示して説明したが、p0V0/273.1 で計算されることをつけ加えておいた方がよかったかも知れない。一問題は宮崎君が朝、食堂で「出ないかな」といったものだった。堀野君が周期律表を彼の青い下敷きに書き込んでおこうかといっている時、「硫酸銅の結晶で書いておいて、息を吹きかけたらいい」といって笑わせた真木君の、頭の回転の自由さには興味深いものがある。(真木君のホームページへ

     10月7日(木)雨のち晴

     数学 B、2.718281 の小数第3位の8を9と計算間違い!(注:続いて2ページ余りにわたって、数式が書いてあり、最後に「残念!」とある。)
     「心理学初歩」の中の、意志的統制についての説明の後に、「自由意志」についてちょっと触れてあり、次のように書かれている。
     「しかし翻ってこういう自律的行為の主体である人格そのものが若し全く必然的に決定されているものならば、不自由なる原理に従う行為はやはり不自由であるといわなければならないのではないかという疑問が起るだろう。」
     上記の「疑問」は人格の必然性を仮定しているが、これに関連して、次のような笑い話を作り出すことができる。ある人が哲学的思索の結果、「われわれの人格(人間の能力、活動、それらの生みだすものなどを含めた意味で用いる)は必然的でない」という結論に達したとする。もしも、われわれの人格が必然的でない仮定とすれば、その人の結論は必然的結論ではない。したがって、「われわれの人格は必然的である」かも知れない。つまり、「もしも、われわれの人格が必然的でないとすれば、われわれの人格は必然的であることもある」という矛盾が現れる。また逆に、われわれの人格が必然的であると仮定すれば、この人の結論は必然的帰着であって、われわれの人格は必然的でないという、出発点の仮定に矛盾する結果を得る。これは、Jack が金大で習っている独語の教科書にあったクレタ人と嘘つきの笑い話に似せて作ったものだが、このように、われわれは、われわれ自身を規定するある種の結論を導出することはできない。しかし、同じ結論が、規定対象以外の何者かによって宣言された場合には、矛盾とならない。といっても、「人格の必然性」の場合、人間以外の何者かとは何であるか。——こうした想像は、科学的・宗教的世界観とからんださまざまな連想をもたらす。——

     10月8日(金)曇

     心理学の問題は少し人を食った面白い問題だった。Abe らの習っている佐藤教授の第一問は「現代青年のフラストレイションの根底にあるものについて表示せよ」とかいうのだったそうだ。
     きょうは、かなり多くの会話の機会を持つ。登校時と帰宅後の彼の訪問時の二度にわたるAbe との会話。試験前の図書室での新田君との会話。昨日の数学の問題の解法に関する真木君との会話(彼の解法は、その問題に対する正攻法的なものではないが、巧みな思いつきによってとにかく時間内に解答を与えたことは、ぼくの及ばなかったところだ)。下校時の青木君との会話。

     10月12日(火)曇

     物理、演習の時間のような形式で。第二問不可解。

     10月13日(水)

     試験終わる。数 C 易しい。

     10月24日(日)

     ラジオ歌謡「雪の降る町を」も、「蛍雪時代」の懸賞問題で得たブックカバーで覆った「化学の研究」や「解 I の研究」と取り組んでいた頃を思い出させる。全く、それは雪の降る町の歩行のようなものだった。そして、今も雪はけっして降っていないことはない。しかし、何が降っていても挫かれることなく前進するであろう。歩きにくい雪の上には、平坦な土の上を進んだときよりも、いっそう明瞭に自分の足跡が印されるだけのことだ。
     Octo や Minnie に似たオットーやミンナという名が出て来た小説、「ジャン・クリストフ」は19日に読み終えた。感想はもう少し後でまとめる。

    (2000年7月22日掲載)
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    新しい親友

     (注:この章と以下の何章かは、Abe の日記と交換し合う形で書かれている。ただし、同じノートに交代で書くことはせず、各自が二冊のノートを用意し、ある程度書きためたところで、一冊を相手に読んでもらうために渡し、その間、自分のもう一冊のノートを使用するという方法をとった。第二人称「君」は Abe を指す。)

     11月3日(水)快晴

     最近のぼくには何か精神の打ち直しといったものが必要だった。全く必要「だった」のだ。——いや、こうしたことについては、こまごま書くまい。君のように、内面に被覆しておくためにではなく、時間がないから書かないだけのことだが。——
     君はインクを用いて書いているのに反し、ぼくはずっと鉛筆を用いるだろうことを、ここでちよっと断っておく。なぜならば、それがぼくにとって、ひじょうに使い慣れたものだからだ。また、ぼくは君に比して、より少なく漢字を用いるだろう。たとえば、ぼくは君のように「是」などと書かずに、「これ」と書く。なぜならば、ぼくは君よりもずっと新しい傾向を好むからだ。
     10時になった。風邪気味なので早く寝なければならない。残念ながら、きょうはまとまったことを書くことができない。「文化の日」にいわゆる「勉強」をほとんどしなかったのは奇妙だ。
     君の日記に対する感想は、いつか君のノートを借りた時に、読み返しながら詳細に記してみたい。

     11月4日(木)晴

     物理ゼミはちようど第1章が終わった(注:朝永振一郎著「量子力学」)。前期に何回か欠席して、いままでほとんど何も理解していなかったことが悔やまれる。が、いまからでも彼らに伍して行きたい。量子力学なる題目に圧倒され、ゼミナールなる名目に対して軽視的態度であったことを深く反省しなければならない。
     体育実技以後、少し頭痛がする。明朝までに直そう。
     物理実験の partner となる田中君は名刺をくれた。

     11月5日(金)晴

     午後から激しい頭痛がする。風邪薬を買ってきた。
     物理実験はうまく行かなかった。いつもはそれだけでは物足りない食堂のどんぶり一杯のメシをやっとの思いで胃袋に収めて帰る。
     3、4限の西洋哲学史は休講だったので、「罪と罰」を読んだ。ポルフィーリィとラスコーリニコフの、つまり予審判事と殺人者の、後者の前者への訪問時における前者の長くて皮肉な、そしてそれ自体一つの武器であるところの饒舌の間に展開される神経戦などのところは、探偵小説的な吸引力をもってわれわれを捕える。巻末の解説に、ドストエーフスキィの小説は「芸術的病理学の書ともよばれる。」と書かれているが、なるほど、この「罪と罰」も人間の陰惨な面を詳しく描写しているため、理想主義・浪漫主義の小説のように、(英文学を原書で読みあさっている工学部の某君がよく使う言葉を用いれば)読んで「心が温まる」ところはほとんどない。それどころか、読んでいる自分が殺人者であるような気持にさえさせられる。が、強烈な陰惨さもまた、激しい理想的精神が与えると同様のものをわれわれに与えることがあるもののようだ。
     朝刊にマチスの死が報じられていた。体育生理の丹生教授は、死因を心臓マヒということは無意味だ、心臓の一定時間の静止を死と定義するのだから、もしもその言葉を死因として用いることを許すならば、すべての死因は心臓マヒだ、と昨日いわれたが、この巨匠の死についても新聞は「心臓マヒのため」と書いている。
     単純な形による表現ということについても、いつか考えたい。

     11月6日(土)晴

     物理実験のノートの表紙の書き方が規定と違っていたので、紙を貼って書き直した。そのついでに、このノートの表紙の Psychology と書いてあった上にも紙を貼って、標題を付けた(注:Umschreibung des Lebens im moglichen Sinne)。Umschreibung というのは、ドイツの物理学者たちが量子力学の発展過程において古典的概念に対して行ったものとして、一昨日の物理ゼミで田村教授が話された言葉を思い出して使ったもので、Umschreibung des Lebens といっても、大したものを意味させようというのではない。
     今朝も霧が深かった。乳白色の中を二つの黄色い光点が並んで進んで来る。次に車体のシルエットが現れる。そのシルエットは次第に色彩を獲得する。まもなく薄緑色のバスが完成され、ヘッドライトの光は新鮮な曙光に打ち負かされて間の抜けた二つの眼となる。冷たい空気を震わせて車体は通り過ぎる。橋は、その先端が宙に吸い込まれている。その風景の神秘さは、この橋を渡り始める時には、「その端が向こう岸へ無事に届いているものとする」という重大な仮定を行わなければならないのだなどと考えさせるほどである。神秘とは隠されたものの別称である。そして、神秘はわれわれの空想の一根源である。行く先の見えない橋を渡ることは、したがって、われわれの心をいくらかロマンチックにする。乳色の三次元的幕の間からわずかに見える川面で水玉の子供が日光と戯れている。…  風邪は直ったようだ。

     11月7日(日)晴

     積分と取り組む。
     「お富さん」とかいう歌がはやっているようだが、あれはいったい何だ。夕食に行った時、学校の食堂の電蓄でもかけていたが、その酩酊的な俗っぽさの旋律が与える不快さに、ジャン・クリストフではないが、思わず「肩をそびやかし」た。

     11月8日(月)晴

     放課後、クラス討議。宇治分校文化祭参加の演劇と蛮声合唱のこと。10日の反ファッショ・デモに参加の決議。

     11月9日(火)晴

     唇を噛みしめながら筆をとる。最近——もう何ヵ月も前から——こういう日にはノートを開かないことにしていた。が、きょうはどうしても筆をとらなければならない。君に公言してしまったからだ、ぼくはこのノートにおいて自分をつくろうようなことをしないと。…だが、何を書いてよいか分からない。…自分を激しく罵る。…デムズデール先生…。
     …………………………
     胸からこみ上げてくる、嗚咽として破裂しそうな気体の塊を押さえつけて、拳を握りしめる。ただ気迫のみをもって、立ち上がるのだ。ジャン・クリストフのそれにも負けない魂の強さだけは、幾百の悪魔が襲い来ても奪われはしないぞ!

    ×     ×

     生活空間の片隅にあった、ごく低次の内的葛藤について記し、このノートを読んでくれる君の目を汚したことは、ぼくの全理性が絞首台に上らせられる以上の苦痛であった。が、その苦痛をも、ぼくの精神はそれが持つ強烈さとともに乗り切るであろう。
     「精神の強烈さ」、それが許すべからざることがらに対する無感覚を意味するものでは、もちろんないとことを、いま自覚しておく必要があるが…。

    ×     ×

     上記のことはすべて、人格形成段階の最下段的問題に過ぎない。「ジャン・クリストフの魂」を持ち出すまでもなく、克服されているべきだった。そうした問題について、君との日記交換者が一日のスペースを埋めたことを、君に深く謝っておかなけらばならない。

     11月10日(水)晴

     ドイツ語の時間の前に、堀野君が手帳から切り取られた一枚の紙を折りたたんだものを手渡してくれた。一瞬、4月の授業が始まって2週間目の月曜日のことを思い出したが、それにしても…といぶかった。しかし、それは彼自身のぼくへの伝言ではなく、市川君なる人物からのものだった。小学校で一年間、クラスは違っていたためお互いには知らなかったが、とにかく4次元的距離の隣接のもとで学んだことがあるようなので、会いたいと書いてきているのだ。彼のことは夏休みに荒間先生の家に集まったとき、山脇さんから聞いた。(その時われわれは、荒間先生とわれわれ旧クラスメートによる小旅行の予定について相談していた。それで、ぼくの隣に座っていた彼女が突然、「市川っていう私のいとこ、知っていますか。」といったのを、「石川県でいいところ知っていますか。」と聞き違え、ぼくだけに向かっての質問にしては妙だと思いながらも、「知らない」と答えたのだったが、「京大へ行っているのよ。」という彼女の次の言葉で、質問は見事に取り違えたが、答はそれでよかったことを知ったのだった。)彼女は、彼は「変わっていて」、農学部へ入ったが遺伝に興味を持っている、といった。ぼくは、その興味が彼女の不運な弟妹たちのことと関係があるのかも知れないと思った。——未知の人物との会見を控えているということは、期待と多少の不安の混じった感情を生み出すものだ。——
     日曜日に食堂で木村君(注:Abe の友人、文学部)に会った時、彼がぼくの無口さに驚いたらしいことは、ぼくにも彼の顔つきで分かった。その問題は、昨日このノートに記したことと同様に(ある点では全然同様ではない。後者は、きょうにおいては過去の問題だから。)ぼくの遺憾とするところだ。それを打ち払う努力を、しかしながら、何らかの形でなさずにはいないだろう。
     放課後再びクラス討議。前夜祭に対するわれわれの態度と、文化祭に市民を入れることを拒否する大学側(この語を学生側の反意語として用いることは変だが)の態度に対するわれわれの考えについて話し合う。人物のタイプについて、庶民的・貴族的という分類をすることが許されるとすれば、前者の代表的なものに属する、広島大へ2年間行っていたという篠田君は、大学と一般市民の遊離の害を説いて、大学側の態度に徹底的に反対した。ぼくと同県者の吉田君は、いくらかたどたどしい話ぶりながら、毎回勇敢な発言をする。彼は「われわれの中にブルジョア的態度があるのではないか」ということを好んで言うようだ。彼はその表現によって、われわれの利己性を中心とするあるものを意味させているらしい。
     Jack へ手紙を書く。

     11月11日(木)うす曇

     文化祭。仏文科創設30周年記念講演。新村猛教授が終りに言われた仏文学研究の意義は、あまりにも平凡、当然のことで、教授によって聞かされるまでもなく、誰もが容易に考えることのできるものだった。生島・河盛両教授の話は面白く聞くことができた。生島教授の講演の方は、高校時代に分かりにくくて退屈しながら読んだ「赤と黒」の中の政治的背景の部分にも注意しながら、いつかまたそれを読み返してみたいという気を起こさせた。「ジャン・クリストフ」中の同様に退屈したところはといえば、この作品の一つの骨子をなしているヨーロッパ各国の文化・芸術に対する作者の批評の入っている部分だったが、そのことを先日ちょうど残念に思っていたところだ。河盛好蔵教授は、桑原教授の「文学入門」の巻末にある外国文学50編のリストを、軽くではあるが非難しておられたが、実はぼくは、次に読むべき外国文学の本を選ぶときに、しばしばそのリストを参考にしていた。それに束縛されることは無意味であるが、利用法によっては、意味のあるリストになし得ると信ずる。
     西部講堂での映画「アンリエットのパリ祭」。スタッフの紹介と標題が画中の意味あるものとなって最後に現れるというしゃれた構成は、NHK の「音楽の泉」の中でその番組のテーマ音楽の鑑賞があったり、「話の泉」の中でそのテーマ音楽がかけられて、それが智慧の女神 Minerva を答えさせる問題であったりしたのを聞いた時に感じたのと同様な、遊戯的面白さを感じさせた。君が昨夜この映画を「ローマの休日」の筋と思い違えていたのも面白いことだ。両者はその軽い現代お伽話風な性格において類似している。この映画は、話の筋を考え出すことの楽しさ、創造のための想像の愉快さ・自由さ・困難さについて、また、われわれの実生活そのものも一面において物語作成的要素を持っているということについて、考えさせた。"Chips" の高谷教授が「人生は、われわれがその観客となることのないドラマだ」といわれたのを思い出す。終りの花火の場面は、高校時代に自分の書いた小説の末尾を想起させた、空に瞬間的装飾用火薬の爆発による模様が展開されるという背景の一部の類似に過ぎないが。

     11月12日(金)快晴

     ベルグソンはなぜ、ツェノンの運動否定論に対するラッセルら数学者の反証を不十分だとしたのか。それよりも先に、アキレスと亀の例における不可能性自体が、なぜ運動否定論なる論を構成できるのか。

     11月13日(土)快晴

     買ってしまった本だからと思って不承不承目を通しているのだが、田辺元の「哲学入門」の記述は全く論理をなしていないところが多い。講義の速記を整理したものであるためもあろうが、それにしても、多数の不徹底な論述は整理者の能力を疑わせる。
     「運動の概念は二元性をもってをる。だから時間を空間と全く同じに取り扱ふことは許されない。」(p. 177)という文の「だから」は、いかにも突飛である。「二元性」を「異質な独立二方向性」といったような、より複雑な概念と同じとみなしているようだ。
     P. 177-178 の「空間の無限可分に対し、時間の量子性がある。時間の不可分性が運動を考えるには必要である。」という意味の文に続いて、「歩いた道を空間的に考えて、無限に可分だと刻んでしまう立場に立てば、もはや運動は不可能になる。」とある。これは先の主張と相いれない。前半は「歩いた時間を空間と同様に」とすべきであろう。
     ところで、「アキレスが亀を追い越す場合、不可分な時間においてグッと押し切らなければならない」ということは、時間の量子性を考える必要性の例証にはならないのではないか。「グッと押し切り」たければ、時間の無限可分性を許し、空間に量子性を与えることも可能であろう。

    ===(注:ここで Abe とノートを交換し、以下第二のノートに記す。)===


     11月13日(土)快晴

     君を長く引き留めてしまって悪かった。
     K さんへの手紙の中で、君は「考える」ことについての思索を記していたが、それはぼくも考えてみたい問題だ。が、いまはそのための端緒が与えられていないので、その考察ができない。いつかの機会にゆずる。君のあの書簡における語彙の駆使力と思索の豊富さには感服した。鉛筆を取って思索する生活を長く続けていながら、その深化・進展に積極的な努力を払わなかったいままでの自分が反省させられる。
     ぼくの一つの経験についての、君の妹さんの「イカレている」という評言には参った。しかし、過去のイカレは、それを一つの試練として生かし、今後は、その上に堅固な建造物を打ち建てようと思う。
     先に「ジャン・クリストフ」の読後感を後述すると書いた。短いものを読んだ後では、すぐに感想を書き留めるが、長編になるとそれを怠りがちになるのが、これまでの一つの悪い癖だった。が、それは一概に悪いとも言い切れまい。長編小説は考察すべきさまざまな問題を含んでいるので、短時間に簡単な言葉で、それから得た思索の成果をまとめ上げることが、必ずしも有効とは言えないからだ。日常生活のいろいろな面においての種々の事柄についての思惟・考究の中にその成果を投影させていくことも、長編の場合には、読後感記述の一形態として、高度の効果を持つものとして成立し得ると思う。——長編の感想を記すに当っての怠惰性の弁解はこれくらいにして、やはり「ジャン・クリストフ」については何かまとめておきたい。——
     いままでの成長段階のある時期においては、「理想」だの「星」だのといった言葉が好きだったが、最近は「強烈さ」あるいは「逞しさ」という言葉が、ぼくの中において、それらにとって代わった。「逞しさ」という言葉を、ぼくは入学試験直後に前田君宛に書いた手紙の中で、少し大きな意味を持たせて用いたように覚えている。その後間もなく、主人公の性格がこの言葉で表される小説を読んだことは、ある意味では奇妙なことであり、ある意味ではひじょうに効果的なことであった。——「野心家」とされている「赤と黒」のジュリアン・ソレルについて、生島教授が「彼はけっしてその一語で片づけられるものでなく、プリズムを通す前の太陽光線だ」といわれたのを思い合わせると、ジャンの性格を一つの言葉でいいのけてしまうことは、ロマン・ロラン研究家から苦情を受けることになるかも知れないが。——(以下後述の予定。)

     11月14日(日)曇

     君の日記を読み返す。君の巧みにつづられた「序」が最初にぼくに感じさせたことは、このノートを使用し始めるに当って、君がいかに改まって思索したかということだ。われわれは、平生無沙汰していた友人に対してふと手紙を書こうとして、筆を起こす案を練るようなとき、ひじょうにしばしば「時」の観念に逢着するもののようだ。こう書いているぼく自身、君への手紙の最初に、空間観念との対比の下に時間観念に関する記述をしていた。われわれの思考のそうした傾向を考え合わせると、君の「序」の冒頭の一語、「時」が意味深いと同時に面白いものとして感じられる。きょう君と論じた哲学的な「時」の意味は、まだ不可解であるとしても、君の「序」にある人生的な「時」については、君が捉えている性格がぴったり当てはまっている。「かの一片を取りて見るべし、そは無限なる時を含まん」という君の文学的表現を哲学的につついてみることが許されるとすれば、それは偶然にも、きょうのわれわれの論議の中心であった「時間の無限可分性」の表現になっていて、ちょっと問題のあるところといえよう。
     君の10月20日の記述。些事ではあるが、「日記と言ふものは、其の日の自然的現象の、…」の「自然的」は「自然的・人間的」といった方が正確ではないだろうか。
     10月21日について。「新しい愛国心」について書けという出題に君は困却したといって、その理由を「新しい」という形容詞の不当性に帰している。しかし、そのすぐ後で「時と場合によって形を変へて現はれるもの」と記していることは、矛盾にはならないだろうか。「時」によって形を変える場合、その現在におけるものを捉えて、「新しい」と呼んでよいであろう。
     10月25日について。細かい点についてばかり書くようで恐縮だ。しかし、無数の分子の中のわずか一分子といえども、さらにそれを構成する原子、原子核の一つ一つといえども、偉大な自然法則の究明に当っては、これを取り出して調べることが必要なように、君の全表現の観賞に当っては、些細な点の検討も行うことが必要と思われる。「より望ましいと思われる位置にこの理性の弱所を自らで作り出し」という表現だが、青春の意欲を誘導してやるべき個所を「理性の弱所」と考えることは好ましくない。理性をあくまで外壁にたとえるならば、われわれは、その一部に穴を開けることを考えるのではなく、内圧に応ずるための理性壁の拡大を行うと考えたいものだ。恋愛もけっして理性の弱所を突いて噴出した岩漿の営みであってはならないはずだ。岩漿の自由な活動に対しては、理性なる地殻は、一見、それを覆うべからざるものであるように思われるかも知れないが、人間なる地球においては、そういう地学は成立しない。この地球は岩漿の活動に伴って体積の増大すべき天体である。
     10月29日の「時の妖精の悪戯」について。「読みたいと思ふ時にはその姿を隠してゐる。」と「大きな文字で呼びかける。」の主語は何だろうか。前者においては「時の妖精」、後者においては「書物」かと思われるが、それでよいのだろうか。初めに読んだとき、主語が明確に掴めなくて、分かりにくい表現だと思ったが、上記の推量が当っていれば、そうでもなかったといいうことになる。「時の妖精の悪戯」はよい言葉だ。
     10月30日について。君のいう通り、ものになりそうな題材だ。これまであまり好ましく思わなかったあの食堂が、君のこの文によって、急に趣のあるものになってきた。君の描写力は、読んでいる自分もその場に居合わせたような感じを抱かせる。
     11月1日のところ。兄弟姉妹のないぼくの経験できない出来事についての君の記述は、ちらりと眺めやるだけで、手を伸べて愛撫することのできない小川の向こう岸の花を思わせる。
     「祝辞」(注:Abe の姉君の結婚披露宴での彼の祝辞案として日記帳に書かれていたもの)中の「第一印象と云ふものは、十中八九迄は、その真の姿を捕える。」には賛成できない。祝辞のこの位置に挿入したことについて、あえてよくないとはいわないが、この言葉だけをとり出すとき、その一般性・真実性には疑問がある。
     「チップス先生」流の印象手法はこうした場合に述べる言葉の中に取り入れられて、その効能を大いに発揮する性質がある。君のそれも大いに成功している。ケルゼンの権利説を持ち出したあたり、全く痛快である。与謝野晶子の言葉のところに「毎日新しい恋愛を」と「新しい」を、それも強調して入れた方がよく利きはしなかっただろうか。祝辞全体としては、漱石も辟易するほどのできだと思う。喝采を送る。
     きょうのところに、君は「君は自らその心理分析をやった事があるかね。」と書いているね。ぼくは心理分析ならば、やり過ぎるくらいやっているつもりだ。

    (2000年8月5日掲載)
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