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tttabata による書評(和書)

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このページの目次

著者名(次いで書名)のアイウエオ順

5 of 5 stars 安野光雅 「読書画録」講談社文庫

読書ごころと旅ごころを誘う36景

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 優しいタッチの水彩画に文を配した絵本造りの名人として、国内外の賞を得ている安野光雅が、絵を描くのに都合がよく、かつ彼自身好きだった小説、随筆、詩から哲学書にいたる和書36冊のゆかりの地を訪ねて、講談社の雑誌「本」に連載執筆したのをまとめたものである。それらの場所のスケッチに、それぞれの本についての文が添えられている。文庫版では、3ページにわたる文の後に1ページの絵がきているので、文に絵が添えられているというべきか。

 スケッチの場所は国内各地に及ぶ。樋口一葉の「たけくらべ」に旧吉原大門あと、小泉八雲の「耳無し芳一」に壇の浦、石川啄木の「一握の砂・悲しき玩具」に函館の旧桟橋付近といった具合である。これらの絵は、本書一読後も繰り返し眺めたくなる。都会の絵もあるが、全体として日本の原風景という印象を受ける。安野が風景をとらえる視点と、その描き方によるものであろう。文も堅苦しい書評の類いではなく、その本の著者に関する逸話や、とくにその本に関連した安野自身の経験が多く語られ、語り口は軽妙洒脱である。

 読者は、既読の本については懐しさが、未読の本については読んでみたい気持が、いくらか誘い出される。そして、何よりも、本書を携えて絵の場所を訪れてみたいと思わされる。絵は本来原画のサイズで鑑賞するのが最適であろうが、文庫版には、携行して楽しむのに便利という特長がある。そのためには、巻末にスケッチの場所の一覧表あるいは地図があればよかったと思われるが、熱心な読者がそれを自ら作ってみるのも一興であろう。

(2001年10月25日)


4 of 5 stars 江国香織・辻 仁成 「恋するために生まれた」幻冬舎

カップルで読んで下さい

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   中高年といわれる年齢層に属する評者が、自らは手にしないようなタイトルのこの本のレビューを書くことになったのは、同世代の女性の友人からこれを贈られたからである。なぜ?と思いながらも、読み始めると結構面白く、ついに読み通してしまった。著者の一人の辻は、始めに「愛や恋などという絶対的な形が存在しないことを語り合うわけですから、他人の庭を覗くような気軽な気持で読んで」ほしいと断っている。もっともな言い分であり、また、何が書いてあろうとも非難できない予防線にもなっている。辻はまた、冒頭で共著者の江国と自分の、尊敬し協力し合う不思議な友人関係についても触れている。この関係は、本書のテーマであるスパークとしての恋とコロナとしての愛のうちの、後者の具体例として、書中でたびたび述べられ、読者はいつの間にか、その話に最も強く引き込まれてしまう。ごちそうさま。

 「愛と孤独のあいだ」から「死と別れのあいだ」までの六章からなり、各章は節に分かれている。各節では、まず、辻が問題を提起し自分の考えを述べ、次いで、江国がこれを受けて、子供っぽさの混じった大人の言葉で、辻とは微妙に違う捕らえ方を披露する。著者たち自身の愛についての話以外では、辻の書いた「鳥籠とカナリア」と題する寓話や、彼自身の離婚の経験にまつわる話が印象深い。つまり、本書の中では、具体的な話が力強いのである。抽象論は、注意して読めば名言と思えるものもあるようだが、いずれも読後の印象が薄い。いろいろな年齢層の好き合ったカップルの、一方が他方へ贈って、自分たちなりの恋あるいは愛について考えるきっかけにするのに好適の本といえようか。

(2001年9月19日)


4 of 5 stars 江国香織 「泣く大人」世界文化社

ことばの輝くさわやかなエッセイ集

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 著者は身の回りの日常を、新鮮なまなざしと鋭い感覚で眺め、それをメルヘンめいた、さわやかでやさしい文にまとめている。ことばに朝露のような輝きがあり、手にすると一気に読んでしまいたくなるエッセイ集である。「雨が世界を冷やす夜」、「男友達の部屋」、「ほしいもののこと」、「日ざしの匂いの、仄暗い場所」の4章からなり、どの章にも著者自身の生活ぶりがくっきりと浮かび上がっている。

 「男友達…」の章では、著者の父の友人から著者の友人の息子にいたるまで、交流のあった幅広い年齢の男性が描写されている。著者はそのようないろいろな男性と「友達」になれる、すてきな女性なのである。男友達とのあいだのタブーに触れたところには、古い世代のいわゆる品行方正な読者(とくに女性)が眉をひそめるかも知れないような考えが述べられている。しかし、そこでもさわやかさは失われない。男性読者の中には、自分も江国さんと友達になりたいという気にさせられる向きも少なくないのではないだろうか。友達になれば、いろいろ書かれてしまうので、ご注意を!――しかし、これはあくまで、大人になったばかりの女性のエッセイである。著者が今後どのような文を書いていくのか、見守りたい。

(2002年2月1日)


5 of 5 stars 大江健三郎 「ヒロシマ・ノート」岩波新書

人類の忘れてならない悲劇を重々しく綴る

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 これは、原爆投下18年後の1963年8月、著者が初めて広島を訪れ、第九回原水禁世界大会を取材したときの見聞に始まり、1965年、原爆被災体験資料収集・出版事業に対し知識人の協力を呼びかけるに至るまでの、広島にかかわる重いエッセイである。第九回大会前日、原爆病院前で平和行進の人々に向かい、患者代表の小柄な男が蚊のなくような声で演説し、「世界大会の成功を信じます」と結んだ。しかし、大会は「いかなる国…」の問題等のため、開催の手続きが難航し、結局、日本原水協でなく、広島原水協の手で開催された。翌年の大会が分裂した形で開かれたとき、前年の患者代表は、すでに死亡者リストの中に入っていた。核兵器のもたらす暗闇が彼の望みに反して続いていることは、彼の死を償いがたいものにした、と著者は記す。「人間の威厳」をもって患者の治療に専心する原爆病院長。被爆した青年の2年間の白血病休止期間に彼と婚約し、彼の死後、後追い自殺をした戦後生れの娘。等々。

 著者は原爆をめぐる多数の人々の感動的な、あるいはまた、悲惨きわまりない実例を、彼独特の知性あふれる、いささか硬い文体で描く。読者は始めのうち、その硬さが本書を取りつきにくくしているように思うかもしれないが、読み進むにしたがい、人類が忘れてはならないヒロシマの悲劇の記述に、この荘重な文体はいかにもふさわしいと思えてくるであろう。著者は、原爆投下を決定したアメリカ人たちの心のどこかに、回復・復興への人間的な力を信頼するヒューマニズムがあったのではないか、ということを、修辞的にせよ述べている。確かに、被爆の苦しみと闘う人々には、極限状況での人間の力が見出されはするが、原爆投下の決定は、どのようなヒューマニズムとも相いれないであろう。しかし、これは本書の中のきわめて些細な疑問点にすぎず、本書が世界中のできるだけ多くの人々に読まれることを、評者は願わずにいられない。

(2001年8月31日)


5 of 5 stars 大江健三郎 「『自分の木』の下で」朝日新聞社

親・子・孫三代で読み話し合える一冊

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 自分の文章がのちに若い人の胸のなかに生き続けることを夢見た著者が、その実現を意図して、若い人ないしは子供向けに書いた本である。「なぜ子供は学校に行かねばならないのか」という、題名通りの問題にユニークな表現での答を示すものから、「『ある時間、待ってみてください』」という題で、子供が苦しさをしのいで成長するためのヒントを与えるものまでの、16章からなる。著者独特の雰囲気をいくらか残しながらも、彼の従来の作品とは打って変わったやさしい文でつづられている。

 日本が侵略戦争の相手国に対して公式文書で謝っていないという政治的問題についても、子供たちが基本から理解し、正しい見方をするのを助けるような解説をしている。また、子供の自殺がなぜよくないかについて、著者の母が父の死に際して叫んだ「取り返しがつかない」ということばや、人間の「原則」を持ちだして、納得のできる説明を試みている。太平洋戦争中に育った山村での経験、幼い頃からの考え方や学び方、障害を持って生まれた長男の成長など、著者自身の経験をもとにしたいろいろな話は、大人の読者にも感動を与え、その教訓は説得力を持って迫ってくる。

 著者が60台半ばで子供たちに何を伝えたいと思ったかを知ることは、著者と同程度の年齢の人たちにとっても、若い世代のために自分たちがいま何をすべきか、何ができるかを考えるのに役立つであろう。したがって、これは、上は高年者から下は小学生まで、親・子・孫の三世代がともに読んで、扱われているテーマについて話し合ってみることを勧めたい一冊である。

(2001年9月5日)

 

5 of 5 stars 荘魯迅 「物語・唐の反骨三詩人」集英社新書

著者自身の反骨精神と独創的見解

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 著者の荘魯迅は1956年上海に生まれ、文化大革命の辛い影響を受けながら幼時を過ごした。その経験から、個性の解放を求めた唐の詩人たちに共感し、また、彼らの生涯をダイナミックにとらえることこそ、彼らの詩をよく味わうことに通じるという思いを抱いて、本書を書いたという。したがって、唐を代表する詩人、陳子昂(ちんすごう)、孟浩然(もうこうねん)、李白(りはく)の愛と反抗のロマンを描きながら、そこに著者自身の反骨精神が重なり合っている。

 孟浩然について述べた第2章では、この詩人と小真娘(しょうしんじょう)の恋を想像して、一夜の場面を、簡潔にながら、いとも美しく感動的に描き出す。そして、千年以上にわたって季節の移ろいをうたった傑作と見なされてきた浩然の「春暁」と題する詩、「春眠暁を覚えず…」のまったく新しい解釈を示す。また、李白に関する第3章では、「秋浦(しゅうほ)の歌・その十五」の始めの「白髪三千丈」という表現は、単純な誇張ではなく、愛する妻を失ったことについての、つきない悲しみを託したものであると推測する。いずれも、巻末にかかげられている多くの文献を参考にした上での、大胆で独創的な見解である。

 残酷な戦いの歴史についての話も頻出するが、その描写も、戦争をやめるためには、まず歴史を知らなければならないという著者の思いによって貫かれている。詩を愛する人々や、アジアの平和を願う人々にぜひ一読を勧めたい本である。

(2002年8月1日)


5 of 5 stars 水村美苗 「本格小説 上」新潮社

超新星爆発に匹敵

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 評者は水村のデビュー作「続明暗」(1990)と第2作「私小説 from left to right」(1995)を、どちらも愛読した。「本格小説」は7年ぶり、待望の第3作である。序文で著者は「このようなものを読んで下さる読者がいれば幸せに思うだけ」と謙遜しているが、本書の題名は、著者の自信の程を伺わせる。著者はまた、天から贈られた「小説のような話」をもとに書いたと記している。2002年度ノーベル物理学賞の小柴さんが掴まえたのは、超新星爆発に伴うニュートリノという贈り物。装置をニュートリノ用に改造して間もなくだった。水村の得た幸運は、これに匹敵する。どちらの場合も、受ける準備がなければ逃がしてしまったであろう贈り物といえよう。

 序章において、著者がアメリカのハイスクールにいた時代から知っていた「東太郎」という人物がアメリカで成功する話、そして、後年日本に住むようになった著者がアメリカの大学へ講義に行っていた折、日本から来た「祐介」という若者から、たまたま渡米前の「太郎」の恋物語を聞くことになった話が、私小説スタイルで述べられる。いささか長すぎるようなこの序章と、巻頭にある登場人物たちの系図から、読者はおおよその結末を知ってしまったような気になるが、そのことは、上巻の約3分の1を経過してようやく始まる本格小説部分を読む興味をそぐことには少しもならない。読者は「祐介」と「冨美子」という2人の語り手の話に引き込まれてしまい、途中で本を置くことがなかなかできない。長い序章は、主人公「太郎」がどのような経過で渡米することになったのか、その後、彼と女主人公「よう子」との恋はどうなったのか、等々の疑問を読者に深く植え付ける役割を果たしているのである。

(2002年10月27日)


5 of 5 stars 水村美苗 「本格小説 下」新潮社

深みのある和製「嵐が丘」

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 著者自身がこの作品の題材になった話を「祐介」から聞かされたとき、それは「嵐が丘」に似ていると思った旨が、上巻の序章に書かれている。確かに「太郎」は、ヒースクリフを、「よう子」はキャサリンを彷彿させる。しかし、ところは軽井沢と東京郊外の町、時は戦後間もない頃から20世紀の末近くまで。軽井沢とその周辺の自然や、日本の戦後の社会変化が巧みに描き込まれている。まさに、「嵐が丘」がこれらの時空間に生まれ変わったといえる。軽井沢やその付近のシャープなモノクロ写真が何枚も挿入されているのも嬉しい。

 巻末近く、推理小説のどんでん返しにも似た意外な挿話が登場人物の一人から語られる。評者はそれを読んで、著者の創作構想力に全く脱帽した。それは意外ではあったが、思い返せば、それを想像させる伏線や描写がそれ以前になくはなかったのである。その構想力をもってすれば、「序」(序章より前の文)にあった「小説のような話」が天から贈られたというくだりも、作品に現実味を与えるために創作したのではではなかったか、と疑いたくさえなる。その、どんでん返し的挿話を考慮すれば、これが、「太郎・よう子・雅之」の超恋愛小説であると同時に、「女中・冨美子」の女の一生を描いた小説と見ることもできる深みのある作品であることに気づく。

 この作品に「本格小説」以外の題名をつけるとどうなるだろうか、「豪雨の山荘」、「白の飛散」、「まぼろしの浴衣」、「軽井沢別荘物語」等々…と、つい考えてしまいたくなる小説であり、簡単にいえば、面白く、また、味わい深い作品である。「あとがき」で著者は1998年9月に信州へ行き、小説の舞台を訪れたと書いている。評者もその翌月、軽井沢のKホテルで一つの同窓会に出席した機会に、その辺りを散策したのだった。この本を携えて、もう一度軽井沢へ行ってみたいと思っている。

(2002年10月27日)


4 of 5 stars 森鴎外 「青年」岩波文庫

純一の坂井夫人への思いは?

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 田舎から文学を志望して上京した青年小泉純一は、正宗白鳥、夏目漱石、森鴎外自身などをモデルにした作家たちに会い、現代社会を描こうとする自分を見つめる。ある日、有楽座へイブセンの演劇を見に行った純一は、「切れ目の長い黒目がちの目に、有り余る媚がある」坂井未亡人と出会い、彼女に惹かれ始める…。

 この作品は、漱石の「三四郎」が発表されてから二年後の1910年に書かれたものであり、状況設定や文体にも「三四郎」に似通ったところがある。しかし、純一と坂井夫人の関係は、いまなお若い読者を引きつけてやまない三四郎と美祢子のそれとは異なり、純一自身の日記の形も借りて、自然主義的筆致で冷ややかに描かれる。純一は、坂井夫人との関係についてある決心をするとき、文学作品執筆においても初志を変え、伝説の執筆という新しい方向に向かおうとする。その必然性はいささか分かりにくい。

 しかし、この作品を出した後、鴎外自身、伝説をもとにした「山椒大夫」等の作品を書き始めたのであり、その背景を示唆している点で、文学史的価値のある作品といえよう。この本を読んだ女性は、自分を好いている男性に、「あなたは、純一が坂井夫人を思うように、私を思っているの?」と尋ねてみるのも一興であろう。男性としては、本書を読まないで、うかつな返事はできない。

(2002年6月5日)


5 of 5 stars ラファイエット夫人作、生島遼一訳 「クレーヴの奥方 他二篇」岩波文庫

現代に通ずる恋愛心理と女性像

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 原作は1687年に出版されたフランス古典文学の代表作であり、作品の舞台はさらに1世紀あまりさかのぼったアンリ2世時代の宮廷を中心とした貴族の世界である、といえば、いかにも古めかしく聞こえるかも知れない。しかし、その優雅な世界で繰り広げられる恋の物語を、主役、脇役を含めた多数の人物の性格や言動を適確に描き分け、また、いつの時代にも通ずる微妙な恋愛心理を巧みに描いた作者の筆致には、古めかしさはほとんど感じられない。訳文も滑らかで読みやすい。

 ヒロイン、クレーヴの奥方の道徳観は、現在では古いと考える人も多いかも知れないが、時代を越えて尊重に値するとみる人も少なくないであろう。予期される第2の不幸を避けるため、奥方が自分の意志を貫くところは、むしろ現代女性の力強さを先取りしたものといえよう。評者が本書を読んだのは、1999年にポルトガルのマヌエル・ド・オリヴェイラ監督が本作品をもとに作った映画を見た後である。映画では舞台が現代のパリに移し替えられ、原作の大幅な修正がなされていたため、両者を比較しながら読む楽しみもあった。映画の原題名「手紙」は、原作には出て来ない手紙を指している。その反面、原作には、映画に取り上げられていない手紙に関する面白い挿話もある。

 なお、本書をを読んでいて、うすうす気づくのだが、自然描写がほとんどみられない。それのある唯一の箇所に訳者の注がついているので、やはりそうだったのかと思い、こういう書き方の名作もあるのかと感心する。末尾に収められている二つの小編は、結末において主作品と対照的なところがあるものの、似たような貴族の恋の物語であり、いささか食傷気味にならないこともない。主作品のための習作とみられているこれらの短編を先に読むのも、一つの手かも知れない。

(2001年7月24日)


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